松平忠昭 (藤井松平家)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 正保元年(1644年) |
死没 | 天和3年閏5月4日(1683年6月28日) |
改名 | 千太郎(幼名)、忠昭 |
戒名 | 勇哲存秀晋光院 |
墓所 | 京都府京都市左京区の光明寺 |
官位 | 従五位下・玄蕃頭、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱、綱吉 |
藩 | 丹波亀山藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 松平忠晴、大野木氏 |
兄弟 | 忠俊、忠昭、忠周、女子 |
妻 | 松平忠国の娘・栄昌院、柘植氏 |
子 |
広橋兼廉室、忠隆ら 忠周 |
松平 忠昭(まつだいら ただあき)は、丹波国亀山藩主。官位は従五位下・玄蕃頭、伊賀守。伊賀守流藤井松平家2代、同家の亀山藩主としても2代目となる。
略歴
[編集]初代藩主・松平忠晴の次男として誕生した。幼名は千太郎。
正保2年12月(1646年)、嫡出の兄忠俊が早世するが、忠昭は幼少のため、藤井松平宗家から従兄の忠栄が嫡子として迎えられた。しかし寛文6年(1666年)、忠栄は廃嫡され、忠昭が嫡子となって徳川家綱に初御目見した。寛文7年(1667年)、父の隠居により忠昭が家督を相続した。
男子が全て夭逝していたため、父の遺命に従って異母弟の忠周を嗣子とする。天和3年(1683年)に没した。法号は勇哲存秀晋光院。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。
死の半年ほど前に男子が出生した。後の忠隆である。忠昭の死後、家督を巡って家臣間の権力抗争が生じたが、結局は父・忠晴の遺命どおりの家督相続となった。
系譜
[編集]父母
- 松平忠晴(父)
- 大野木氏 ー 側室(母)
正室
- 栄昌院 ー 松平忠国の娘
側室
- 柘植氏
子女
養子
- 松平忠周 ー 実弟