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面白半分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊号(1972年1月号)を出した。編集長は人気作家が(原則)半年毎に交代していた[1]。1980年に倒産して廃刊となった。

経緯

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吉行淳之介が『朝日新聞』に掲載したエッセイで「『日本軽薄派』という雑誌を作ってみたい」[2]と書いていた。これを聞いた大光社の佐藤嘉尚が雑誌の出版を企画した。タイトルは、宮武外骨の雑誌『面白半分』[3][4]に触発されたものである。吉行の協力を取り付けるが、所属していた大光社が閉鎖されたため、株式会社城南洋紙店の社長・青沼繁汎の援助を得て、株式会社面白半分を設立。「面白くてタメにならない雑誌」として刊行した。創刊号は96ページ、150円、3万部発行。

編集長は吉行の後、野坂昭如開高健五木寛之藤本義一金子光晴井上ひさし遠藤周作田辺聖子筒井康隆半村良田村隆一等が交代で務めた。

野坂編集長時代の1972年に永井荷風作と言われる春本「四畳半襖の下張」を全文掲載し、わいせつ図書で摘発された(四畳半襖の下張事件)。これについて裁判特集臨増号4冊(通巻23、35、55、60号)を発行して世論に訴えた。

この他にも臨時増刊号で「井上ひさしと藤本義一」(1974年)、「佐藤愛子と田辺聖子」「金子光晴(追悼)」(1975年)、「有吉佐和子」(1976年)、「開高健」「野坂昭如」(1978年)、「吉行淳之介」「五木寛之」「田村隆一」「遠藤周作」(1979年)、「水上勉」(1980年)などを刊行。

1980年に発行人の佐藤が編集長となる。同年7月5日に負債9200万円で倒産し、9月号以降は休刊。「四畳半襖の下張事件」の最高裁判決を受けて、12月号を「臨終号」として刊行した。

歴代編集長

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  1. 吉行淳之介 - 1972年1月号 - 6月号。(表紙=長尾みのる
  2. 野坂昭如(1回目) - 1972年7月号 - 12月号。(表紙=長尾みのる)
  3. 開高健(1回目) - 1973年1月号 - 6月号。(表紙=山崎英介)
  4. 五木寛之 - 1973年7月号 - 12月号。(表紙=米倉斉加年
  5. 藤本義一 - 1974年1月号 - 6月号。(表紙=金子光晴)
  6. 金子光晴 - 1974年7月号 - 12月号。(表紙=滝田ゆう
  7. 井上ひさし(1回目) - 1975年1月号 - 6月号。(表紙=山下勇三
  8. 野坂昭如(2回目) - 1975年7月号 - 12月号。(表紙=石山貴美子)
  9. 遠藤周作 - 1976年1月号 - 6月号。(表紙=長尾みのる)
  10. 開高健(2回目) - 1976年7月号 - 12月号。(表紙=伊東ひでお)
  11. 田辺聖子 - 1977年1月号 - 6月号。(表紙=鴨居羊子
  12. 筒井康隆 - 1977年7月号 - 1978年6月号。(表紙=杉村篤・アートディレクション&デザイン=首藤進)
  13. 半村良 - 1978年7月号 - 12月号。(表紙=猫隣太郎・アートディレクション&デザイン=首藤進)
  14. 井上ひさし(2回目) - 1979年1月号 - 6月号。(表紙=山藤章二・アートディレクション&デザイン=首藤進)
  15. 田村隆一 - 1979年7月号 - 12月号。(表紙=古川タク
  16. 佐藤嘉尚 - 1980年1月号 - 8月号。編集長交代制廃止。(表紙=古川タク)[5]

各編集長時代

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  • 吉行淳之介(1972年1月号-6月号)
作家らに1時間ほど話してもらった内容をリライトして「随舌」と称した(「随筆」は原稿料が高く付くという吉行の発案による)。創刊号は大岡昇平金子光晴岡本太郎山藤章二開高健の「随舌」を掲載。この企画は終刊まで続いた。他に「奇人外伝」「変わった人物インタビュー」など掲載。
  • 野坂昭如(1972年7月号-12月号)
7月号に「四畳半襖の下張」を掲載、発禁。佐藤、野坂が起訴される。
1973年に初公判、1976年に一審で有罪判決。公判では丸谷才一五木寛之、井上ひさしなどの反論もあり、雑誌の知名度が一気に高くなり、毎号完売状態となった。
  • 開高健(1973年1月号-6月号)
対談「随時小酌」、コラム「トイレ探訪」「私の葬式」などを掲載。(開高が2月から6月までベトナムへ取材旅行のため、実際にはあまり関わることができなかったという)
  • 五木寛之(1973年7月号-12月号)
五木寛之「日本腰巻文学大賞」を開始、休刊まで毎年実施され、8回、実施された。第1回受賞は、新潮社山口瞳『酒飲みの自己弁護』。ソンコ・マージュ「ギター無宿世界放浪記」が人気となる。
  • 藤本義一(1974年1月号-6月号)
各方面から集めた「没」原稿特集(1974年2月)、竹中労「あえて美空ひばりを弁護する」、大島渚「縁起の悪い話」、阿奈井文彦「三途の川を渡る」、対談「加虐被虐是好日」などが話題となる。
  • 金子光晴(1974年7月号-12月号)
「面白半分電話対談」で第1回は北杜夫VS佐藤愛子
  • 井上ひさし(1975年1月号-6月号)
特集「テレビ、人間、…」「テレビお偉方身元調査」など、テレビに関する記事で特徴を出した。
  • 野坂昭如(1975年7月号-12月号)
篠沢秀夫の連載など。
  • 遠藤周作(1976年1月号-6月号)
「神父さんの好奇心座談会」、講談「四畳半年増の色張」、井上洋治神父とトルコ嬢の「激烈対談」など掲載。
  • 開高健(1976年7月号-12月号)
サントリー社長佐治敬三との連載対談など。
  • 田辺聖子(1977年1月号-6月号)
匿名座談会「男性作家読むべからず」(出席者の佐藤愛子、中山あい子、田辺聖子は写真を掲載)。高橋孟(カモカ・シリーズのイラスト担当)の「海軍めしたき物語」(1977年1月-)は後に新潮社から単行本化されてベストセラーとなった。筒井康隆の露悪的な日記「腹立半分日記」を連載(1977年1月-1978年6月)。
  • 筒井康隆(1977年7月号-1978年6月号)
クレージーな持ち味で人気が高まり、発行部数も増加。編集長も延期して1年間務めた。山下洋輔「全冷中顛末記」、タモリ「ハナモゲラ語の思想」連載。タモリの原稿が締め切りに間に合わず、4ページ分が真っ白のまま店頭に並んだことがある[6]。佐藤嘉尚の呼びかけで、小林亜星に会長を頼み、「大日本肥満者連盟(大ピ連)」が結成されたことも話題となった。
佐藤によれば、筒井編集長時代が一番売れ行きがよかったが、以前からの負債もあり、原稿料の未払いが続いていた。筒井は「自分が編集長をした一年間については責任がある」と言って、原稿料分(ウン百万)を立て替えてくれたという[7]
  • 半村良(1978年7月号-12月号)
架空のお茶の家元「南千家流」を特集し、アン・ルイスらが入門した。特集「皇居再利用計画」「次期元号は"早稲田"(法政でも可)に決定」など。
  • 井上ひさし(1979年1月号-6月号)
特集「テレビCMまる一日」「世界最新テレビ事情」など、テレビに関する記事。
  • 田村隆一(1979年7月号-12月号)
小詩集、西江雅之による紀行文など。
  • 佐藤嘉尚(1980年)
発行人として編集長交代制休止。8月号を出した後に倒産し、9月号以降は休刊。
「臨終号」は常連ライター・元編集者の有志(阿奈井文彦、牛坂浩二、土屋健ら)が企画編集したもので、歴代編集長らが登場。発行所は「土筆舎」となっている。

脚注

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  1. ^ 「被告志願 四畳半襖の下張 野坂昭如氏、地検に出頭」『朝日新聞』昭和48年(1973年)2月16日朝刊、13版、3面
  2. ^ 『朝日新聞』1964年2月19日。
  3. ^ 雑誌『面白半分』は1929年に刊行(6号まで)。佐藤は神田の古書店でたまたま宮武の『面白半分』6冊を入手していた。なお、宮武は1917年に同名の随筆集を刊行している(1923年再刊)。
  4. ^ 佐藤 2003, p. 55.
  5. ^ 佐藤 2003, p. 215-221.
  6. ^ 『面白半分』1977年9月号、pp15-18。
  7. ^ 佐藤 2003, p. 147.

参考文献

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  • 尾崎秀樹宗武朝子『雑誌の時代 その興亡のドラマ』主婦の友社 1979年
  • 木本至『雑誌で読む戦後史』新潮社 1985年
  • 佐藤嘉尚『「面白半分」の作家たち――70年代元祖サブカル雑誌の日々』集英社集英社新書〉、2003年8月26日。ISBN 4-08-720204-6