隅田八幡神社人物画像鏡
隅田八幡神社人物画像鏡(すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する、5世紀から6世紀頃製作の銅鏡。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料である。国宝に指定されている[1]。
概要
[編集]日本語の固有名詞が日本において漢字を用いて表記された最初期の例の一つ[2]。
古代日本において大王号を記す金石文としては稲荷山鉄剣銘、江田船山鉄刀銘があり、この人物画像鏡も大王号がいつ頃から使われたのかを知る手懸かりになるものである。また、いつヤマトの王が大王と称されるようになったかを解明する手懸かりになるものの一つとして注目される。
形状
[編集]隅田八幡神社の人物画像鏡は青銅製で径19.9cm。近世の地誌類にもこの鏡についての記載がある[3]ことから、古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出する。
母型
[編集]この鏡の原鏡(母鏡)となった画像鏡は、大阪府八尾市の郡川西塚古墳、同藤井寺市の長持山古墳、京都府京田辺市のトツカ古墳、福井県若狭町の西塚古墳、東京都狛江市の亀塚古墳などで、同型鏡または踏み返し鏡が知られている。しかし、手本となった鏡と本鏡とでは、東王父、西王母を中心として描かれた文様、銘文の旋回方向がすべてが逆に鋳造されていることから、手本を見ながら鋳型を作ったものと思われる。
製作年代
[編集]従来は「癸未年」を冒頭として読む説が主流であり、「癸未年」を、西暦443年とする説、503年とする説のうち、鏡の型式等から503年説が優勢であったが[4]、「癸」とされる文字は「△」と「天」の組み合わせた形状の文字にしか見えず、近年は「未年…」から始まり「…此竟矣」で終わる文とする説が主流となっている[5]。その結果、491年や、515年に比定する説もある[5]。
銘文と読み下し
[編集]443年説
[編集](大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
491年説
[編集](大意)未(ひつじ)の年八月 日十(いいとよ)大王の年、男弟王(来目稚子の弟)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、兄の斯麻(嶋郎、仁賢天皇)が長寿を念じ、開中費直(かわちのあたい)、穢人今州利の二人らを遣わして白上(まうしあげ)るところ、銅二百旱でこの鏡を作った[5]。
503年説
[編集]癸未年八月 曰十大王年 弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣歸中費直穢人今州利 二人等取白 上同二百畢作此竟
癸未(みずのとひつじの)年八月 曰十大王 弟の王が意柴沙加宮(おしさかのみや)に在られる時、斯麻は長く仕え奉ろうと思い、歸の費直と濊人の今州利を派遣した。 二人等の白(まう)す所は、銅二百を上(たてまつ)ること畢(をは)り、此の鏡を作った[6]。
515年説
[編集](大意)未(ひつじ)の年八月の日は十。大王の年、男弟王(継体天皇)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(百済の武寧王)が、(日本に)長く奉らむとを念じ、開中費直(かわちのあたい)、穢人(あやひと)今州利の二人らを遣わし、白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作った[5]。
銘文の解釈
[編集]「大王」の「大」、「男弟王」の「男」など、必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。
443年説
[編集]- 倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈する。また、意柴沙加宮(おしさかのみや))は皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)の宮処となる。この場合、男弟王は誰であるかは不明となる。
- 「日十大王」を「日下大王」と読み替え大草香皇子(454年没)のことではないかとする説もある(万葉集の註に「日下」を「早」と書いた例があることから「日十」を「早」の一文字とみた神田秀夫の説。のちに森浩一は「日十」は「草」の簡体字とした)。
- ちなみに古事記、上宮記によれば忍坂大中姫に意富富杼王(おおほどのおおきみ)という兄弟がいるとされる。
- 継体天皇の諱は「乎富等、袁本杼(ヲホド)」であり、ハ行転呼以前の「男弟(ヲオト)」とは一致しない。
491年説
[編集]- (清寧天皇の崩御後、臨時に飯豊女王が政治を執られたが、後継がおられなかった)未年(491年)、行方不明であった、(甥の)嶋郎と来目稚子が播磨で発見され、皇嗣として迎え入れられた。嶋郎は弟王(来目稚子)に皇位を譲り、河内の費直と濊人の今州利を遣して、(飯豊女王に)申し上げたことは、飯豊女王の長寿を願い、銅二百旱でこの鏡を作ったのだと。
- 忍海(おしぬみ)は葛城内の地名・忍海で、飯豊女王の本拠地。「忍海青女王」とも書かれるが、葛城山の枕詞で木幡、忍坂山などが「青」に掛かる。
- 「日十」女王を「いいとよ(飯豊)」ではなく、「曰十」女王として「をし(忍海)」とする説、「白个(しらか)大王」として清寧天皇とする説もある。
- 他の説が「癸未」と読む箇所を、「未年」から始まり「矣」で終わる文とする[7]。「未年…」から始まり「…此竟矣」で終わるとする研究者は、福山敏男(1975年)、坂元義種(1980年、1996年)、森幸一(1980年)、山尾幸久(1983年、1989年)、笠野毅(1991年)、山口順久(2000年)、宝賀寿男(2002年)、篠川賢(2010年、2016年)、中田興吉(2014年)、河内春人(2021年)などである。
503年説
[編集]- 「日十大王」をヲシ大王と読んで『書紀』がその名を「大石」「大脚」とする仁賢天皇であるとし、孚弟王をフト王あるいはホド王と訓じ、「袁本杼(おほど)」「彦太(びこふと)」とある継体天皇に比定する説がある。(平野邦雄「継体朝の諸問題」「大化前代政治過程の研究」吉川弘文館 1985年、山尾幸久「日本古代王権形成史論」岩波書店 1983年)[8]。
- 山尾幸久は「日大十王」が仁賢天皇、「男弟王」が「男大迹王」すなわち継体天皇、「斯麻王」が百済の武寧王であるとしている[4]。
- 諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)とする解釈が有力である。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。*1971年に発見された百済武寧王の墓誌にも「斯麻王」と確認されている[9]。
- 男弟王を即位前の継体天皇のことだと解釈する。しかし、『日本書紀』に見える「磐余玉穂宮」(526年遷宮)の前に「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり記述と矛盾し、即位後19年間大和に入れなかったとする説は成り立たなくなる[要出典]。
- また、日本書紀における歴代天皇の在位年代を西暦に置き換えると仁賢天皇の崩御年は498年で銅鏡に刻印された日付は仁賢から皇位を継承した武烈天皇の治世となる[要出典]。
- 即位前の継体天皇は大王の後継者として大和政権の中枢部におり大和忍坂に拠点をかまえて対百済外交を担当していたことになる。雄略天皇没後、顕宗、仁賢系の王統と継体系の王統(皇統)が並立していた可能性があり、その後、継体と手白香皇女、安閑と春日山田皇女、宣化と橘仲皇女の婚姻により両王統が統合を果たしていった過程が考えられる[10]。
石和田秀幸
[編集]515年説
[編集]- 未年(515年)八月十日、大王となられた男弟王(継体天皇)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、百済の武寧王(斯麻)は、日本と同盟を組んで長く政権の安定を図ろうと思い、開中費直(かわちのあたい)、穢人(あやひと)今州利の二人らを遣わし、白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作った[5]。
- 通説では継体天皇は、515年頃は、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市付近)を都とし、518年に、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市付近)へ遷都。526年にようやく大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に入ったとするが、この銘文をもとに515年には既に大和入りをしていた(あるは一時的に、大和の忍坂に居た)とする[5]。
- 継体天皇は、507年に樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市付近)で即位した後、512年~513年にかけて、百済から五経博士が派遣されるなど、両国の交流が質的に高まった時期にあたる。「男弟王が忍坂宮(奈良県桜井市)にいた時」という記述は、継体天皇が即位後の早い段階で一時的に大和の忍坂に拠点を置いた、あるいは別宮として機能させていたとする[5]。
- 「男弟王=継体天皇」とする。継体天皇の諱は「乎富等、袁本杼(ヲホド)」であり、「男弟(ヲオト)」ではないとする説に対しては、百済人が聞き書きで文字を宛てて書いたものであり、日本語の話者が書いたものではないためとする[5]。同様の宛字は、垂仁天皇の名を日本人ならば「伊久米伊理毘古(いくめいりびこ)」と書くべきところを、『上宮記』に「伊久牟尼利比古(イクムニリヒコ)大王」と聞き書きで宛字している例をあげている[5]。
脚注
[編集]- ↑ 国宝指定名称は「人物画象鏡」である。鏡は東京国立博物館に寄託されている。
- ↑ 小松茂美 (1968). かな : その成立と変遷. 岩波書店. pp. 14~20. doi:10.11501/2516831
- ↑ 1838年(天保9年)刊『紀伊国名所図会』が文献における初見(森岡隆 p.271)。
- 1 2 水谷千秋 2013, p. 199.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 「未年…」から始まり「…此竟矣」で終わるとする研究者は、福山敏男(1975年)、坂元義種(1980年、1996年)、森幸一(1980年)、山尾幸久(1983年、1989年)、笠野毅(1991年)、山口順久(2000年)、宝賀寿男(2002年)、篠川賢(2010年、2016年)、中田興吉(2014年)、河内春人(2021年)らが知られる。
- 1 2 石和田, 秀幸 (2009-03). “隅田八幡神社人物画象鏡銘釈読考: 末尾十文字の新解釈”. 文化財学報 (27): 45–58. ISSN 0919-1518.
- ↑ 『隅田八幡神社人物画像鏡銘文の再検討』堀大介、仏教大学歴史学部論集 第14号(2024年3月)
- ↑ 「継体天皇と即位の謎」新装版 吉川弘文館 2020‐3‐10 34頁
- ↑ 「継体天皇と即位の謎」新装版 吉川弘文館 2020‐3‐10 34‐35頁
- ↑ 「継体天皇と即位の謎」新装版 吉川弘文館 2020‐3‐10 35‐37頁
出典・参考文献
[編集]- 『週刊朝日百科』「日本の国宝 40」、朝日新聞社、1997
- 森岡隆「隅田八幡神社人物画像鏡」(書学書道史学会編『日本・中国・朝鮮 書道史年表事典』、萱原書房、新版2007年(初版2005年))ISBN 978-4-86012-011-5
- 大橋信弥「継体天皇と即位の謎」新装版 吉川弘文館 2020‐3‐10
- 水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文藝春秋〈文春新書〉、2013年7月20日。
- 石和田秀幸『隅田八幡神社人物画象鏡銘釈読考: 末尾十文字の新解釈』文化財学報、2009年3月1日。CRID 1050019058225972864。