足利将軍家
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家。初代尊氏の後は2代として長男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。
足利将軍家の成立過程
足利氏は本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の嫡流たる武家の名門である。 その系譜をたどれば源氏の祖 経基以来、満仲、頼信、頼義そして名高き八幡太郎源義家に至るまで五代にわたり武家の栄誉である鎮守府将軍に任ぜられ、国内の兵乱を平定、朝廷の信望を得るとともに東国を拠点として武家の棟梁としての名声をあげ、義家の三男である源義国が下野国足利荘に住し足利氏となった。
鎌倉時代は源頼朝と遠縁として、また父が頼朝の父・源義朝と浅からぬ縁があったこと、頼朝の御台所・北条政子の妹を正室としたこともあり、幕府の信望を得て門葉として遇された。源氏将軍が三代 源実朝の代で滅ぶと源氏の嫡流として武家の尊敬を集め、幕政を牛耳った執権北条氏から時折、警戒の念を抱かれつつ、代々、北条氏との縁戚関係を結ぶことで家系を保った。
所領も下野、陸奥、三河、丹波など西国にも及び、支族は数十にも及ぶ有力御家人であり、後醍醐天皇の討幕挙兵が明らかになった後は当初、幕府軍として京都に進撃したが、丹波で鎌倉幕府の追討宣旨を奉じ、足利尊氏が朝廷方に転じ後醍醐天皇の建武の新政に貢献した。
しかし、公家一党の支配確立を目指す、後醍醐天皇の政治が様々な混乱を呼ぶとともに武家の不満が集積し、足利尊氏が後醍醐天皇の皇統とは宿敵にあたる持明院統の光厳上皇の院宣を受けて、北朝を樹立、征夷大将軍に任ぜられることで足利宗家は足利将軍家として成立することとなった。
足利将軍は当初は鎌倉幕府の継承者として「鎌倉殿」と呼ばれていた時期もあったが、足利義満が京都の室町通沿いに将軍の邸宅を構えると、将軍の邸宅及び将軍そのものを「室町殿」と呼ぶようになり、後の室町幕府という語の由来となった(花の御所)。
足利将軍家連枝
鎌倉公方家
尊氏の三男基氏は鎌倉公方となって関東地方に下向し、鎌倉公方足利家を起こす。同家は後に古河公方と名乗る。歴代公方は諱において氏の字を通字として時の将軍の片諱を重ねた(ただし、第3代鎌倉公方足利満兼は父・氏満と重なるために将軍足利義満からの片諱のみを用い、第3代古河公方足利高基は初め「高氏」と名乗ったが、初代将軍足利尊氏の初名と重なるために後に初代鎌倉公方・基氏の片諱より「高基」と改名した)。
また、6代将軍義教の子政知は堀越公方を称して伊豆に下向するが、子の茶々丸が北条早雲に滅ぼされて2代で絶えてしまった。第2代古河公方足利政氏の子義明は、兄との対立から下総国で小弓公方を称して自立するが、北条氏綱に討たれて滅亡する。だが、里見氏に保護されていた義明の子孫が豊臣政権によって取り立てられて喜連川氏を称した。
義昭の死後、足利将軍家は絶えたかに見えるが、薩摩藩士永山家が義昭の子孫を称しており、阿波国では足利義維の子孫が江戸時代末まで平島(平島公方)と姓を変え続いていた。
御一家
足利将軍家は足利氏の一門・庶家を御一家衆として室町幕府の守護・側近或いは遠国に知行する者を京都扶持衆として遇した。 吉良家と今川家は足利宗家を継ぐ者がいなかったときの継承者を出す格式であったとの伝承があるが、実際に宗家を継承した例はない。 また、御一家のうちでも渋川家、石橋家などは将軍家連枝として高い家格を有した。とくに斯波家の格式は別格であった。斯波家は鎌倉時代には本家と同じく足利を名乗りとしたくらい高い家柄を誇った。
足利将軍家及び鎌倉公方・古河公方足利家略系図年表
(改名は主なものだけを図示し、網羅してはいない)