紀元前540年

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紀元前540年(きげんぜんごひゃくよんじゅうねん)は、西暦ローマ暦)による年。

紀元前1世紀共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元214年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前540年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

中国[編集]

  • 韓起(韓宣子)が使節としてを訪れた。
  • 陳無宇が公女少姜を晋に送ったところ、中都で捕らえられた。
  • 魯の叔弓が晋に赴いた。
  • の公孫黒が乱を起こし、游氏を排除して取って代わろうとして失敗した。駟氏と諸大夫が公孫黒の殺害を図ったため、子産は公孫黒の罪を列挙して、自死を促した。公孫黒は自ら縊死して果てた。
  • 晋の少姜が亡くなり、魯の昭公が弔問に晋へと向かったが、晋の謝絶を受けて黄河まできて引き返した。季孫宿がそのまま晋に入って弔問した。
  • 晋の羊舌肸(叔向)が陳無宇を釈放するよう平公に進言し、陳無宇は解放されて斉に帰国した。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]