景王 (周)

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景王
王朝
在位期間 前545年 - 前520年
都城 王城(洛邑)
姓・諱 姫貴
生年 不詳
没年 前520年
霊王
后妃 穆后

景王(けいおう、? - 紀元前520年)は、中国春秋時代の王。姓は姫、名は貴。

生涯[編集]

周の霊王の子として生まれた[1]紀元前545年11月、霊王が死去する[2]と、景王は即位した[1]紀元前541年、景王は劉定公を派遣して趙武(趙文子)を潁でねぎらわせた[3]紀元前533年、景王は賓滑を派遣して甘の大夫襄を逮捕した[4]紀元前531年、景王は単成公を厥憖の会に派遣し、晋の韓起(韓宣子)と会合させた[5]

紀元前527年、景王の太子の寿が死去した[6]紀元前521年、景王は無射という大鐘を鋳造した[7]

景王は王子朝とその傅役の賓孟を気に入っており、景王と賓孟は王子朝を太子に立てようとしたが、劉献公の庶子の劉文公が賓孟を憎み、これに反対していた。紀元前520年4月、景王が単穆公と劉献公を殺害しようと計画していたところ、心臓の病のため栄錡氏の邸で死去した。3日後に劉献公が死去し、劉文公が後を嗣いだ。単穆公と劉文公は悼王を擁立した。6月の景王の葬儀のときに王子朝は反乱を起こすこととなった[8]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『史記』周本紀
  2. ^ 春秋左氏伝』襄公28年
  3. ^ 『春秋左氏伝』昭公元年
  4. ^ 『春秋左氏伝』昭公9年
  5. ^ 『春秋左氏伝』昭公11年
  6. ^ 『春秋左氏伝』昭公15年
  7. ^ 『春秋左氏伝』昭公21年
  8. ^ 『春秋左氏伝』昭公22年