立川流 (密教)

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立川流(たちかわりゅう)は日本密教真言宗の一法流である。真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とも。

通説では平安末期の仁寛(生年不詳-1114)が流祖とされ、南北朝期文観(1278-1357)によって大成されたと伝えられる。宥快らによって邪教とされ、立川流の典籍は焼き捨てられた[1]。そのため伝存する資料が少なく、実態は不明である[2]

宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し、男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている。ただし櫛田良洪は、遺された立川流の印信を調べてもそのような教義を窺知させるところは見出せないと指摘しており、ステフェン・ケック (Stephen Köck) の研究では、通説に反して立川流の実態は真言宗の他の流派と大きく異なるものではなかったとの見解が提出されている[3]

鎌倉時代の心定は著書『受法用心集』(13世紀)において、髑髏を本尊とする特異な法について解説しており、同書は立川流を批判した書とされている[注釈 1]

立川流の教義[編集]

所依経典[編集]

いわゆる立川流が、その教義に於いて依拠する経典類は、心定の『受法用心集』[4]によると、『瑜祇経』、『理趣経』、『宝篋印経』、『菩提心論』の「三経一論」である[5][6]

本尊[編集]

仁寛や文観に見られる立川流の源流は、所依経典である『宝篋印経』等の三経に基づき本尊を立てる。文観の著作である『三尊合行秘次第』(1338年頃)[注釈 2]によると、「如意宝珠」を中心として左右に「不動明王」と「愛染明王」を配し、この三尊を本尊として祀る[7]。また、この両明王を合一させた「両頭愛染明王」(りょうずあいぜんみょうおう)[注釈 3]を祀ることもある。ここで挙げた「如意宝珠」とは、真言密教の秘密本尊の一つである『密観宝珠』(みっかんほうじゅ)[注釈 4][注釈 5]のことを指している。なお、真言密教においてこの『密観宝珠』と呼ばれる本尊には建立のための特別な条件や形式があり、単に如意宝珠や宝篋印塔を祀ったり、持物(じもつ)として如意宝珠を持つ尊格を祀るものを『密観宝珠』と呼ぶことはない。

「如意宝珠」を立てるのは、先の『宝篋印経』によるものであり、「愛染明王」を立てるのは、所依経典の『瑜祇経』によるものである。『瑜祇経』では「愛染明王」について、「三世三界の中にあって、他の一切が誰もこの尊(愛染明王)を越えることができないので、この尊の名前は金剛の王とされ、『金剛頂経』の中で最勝の名前であり、教主である金剛薩埵がこの尊を定めて、一切諸仏の母とした」[注釈 6][注釈 7]と讃えられていて、これに基づいて愛染明王を『金剛頂経』十八部における最高の明王とするところから、これと併せて真言密教で『大日経』における最高の明王として挙げる「不動明王」を採用し、真言宗の『理趣経』に代表される金胎不二(こんたいふに)を旨として、「愛染明王」と「不動明王」両尊を祀るものである。そして、この金胎不二の理念をより具現化させたものが「両頭愛染明王」となる。

教義[編集]

立川流を継いだとする越前国豊原寺誓願房心定[8]の『受法用心集』(1272年)[注釈 8]には、「髑髏本尊」について以下のように解説されている。

  • 「髑髏本尊」には大頭本尊、小頭本尊、月輪形(がちりんぎょう)の本尊の三種がある[9]
  • 髑髏は一に智者、二に行者、三に国王、四に将軍、五に大臣、六に長者、七に父、八に母、九に千頂[注釈 9][10]、十に法界髏〔ママ〕[注釈 10][11]の十種あり、選りすぐった髑髏を加工して本尊とする[10]
  • 「髑髏本尊」を造る行の間、夜ごと子丑の刻に返魂香を焚き、返魂の真言を千遍唱えなければならない[12]

こうしてできた本尊を壇に据え、山海の珍味を供えて昼夜祀り養うこと八年にして[13]「髑髏本尊」は成就の程度に応じて験力を顕すという。下品に成就した者にはあらゆる望みをかなえさせ、中品には夢でお告げを与え、上品には言葉を発して三世のことを語るという[14]

しかし、立川流の本流におけるこの儀式の奥には別の真実が隠れているという説がある。立川流の本流では、独自の見解として『理趣経』には本来、男性と女性の「陰陽」があって初めて物事が成ると説いている。また、この儀式に8年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまう[15]

立川流では、両端の片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になって人形(ひとがた)にも見える金剛杵を好んで用いたとされ、流派独自の命名でその名を「人形杵」(にんぎようしょ)と呼んでいた[16][17][18]。その後は、立川流の弾圧に伴い誤解を受けてこの法具も姿を消し、現在、博物館[注釈 11]などに文化財として少数が残る他は、好事家に珍重されるか「唐密」の古法の一部で知られる以外は、一般に用いられることはない[19]

なお、立川流の本流における教義は、日本の陰陽道の教えを取り入れ、「陰陽」の二道により真言密教の教理を独自に発展させたもので、男女交合の体験を即身成仏の境地と見なし、男女交合の姿を曼荼羅として図現したものである。しかし、髑髏を本尊とするなどの儀式に関しては、あくまでも俗説であって、立川流の秘儀や作法などが述べられた文献はほとんど焚書で亡失しており、立川流に性愛教義があったとする主要な論拠はこの流派を邪流として非難した側の文書にあるため、それが真実かどうかはわからない。

立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである[20]。 立川流の本流において男女交合の体験、すなわちオーガズム即身成仏の境地であると曲解されるに至ったのにはいくつかの理由がある。密教では、人間はそもそも汚れたものではないという、自性清浄如来蔵思想)[21]という考えがあり、『理趣経』の原文には、「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)[注釈 12]」、「欲箭清浄句是菩薩位(よくせんせいせいくしほさい)[注釈 13]」、「適悦清浄句是菩薩位(てきえつせいせいくしほさい)[注釈 14]」などとあり、そこには性行為を含めて、仏や菩薩の境地に至ったならば[注釈 15]、人間の営みはすべて本来は清浄なものであると『十七清浄句』[注釈 16][注釈 17]に説かれていることに起因すると考えられている[22][23]

しかし本来、理趣経の十七清浄句はそのように理解されるものではない。[注釈 18]

また立川流が東密(真言密教)の流れを汲む邪宗とされるのに対し、台密天台宗の密教)でも玄旨帰命壇という口伝相承に愛欲を肯定する傾向が生じたとされることから、この二つはよく対比して論じられることが多い[24][25]

歴史[編集]

立川流は平安時代末期に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に後醍醐天皇の護持僧となった文観によって大成されたと言われる。

創始[編集]

1113年永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(永久の変)、11月に伊豆大仁へ流された[注釈 19]。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川(たちかわ)出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、かれらに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。

1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされる。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。

その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』では、辺鄙な地方で真言師と聞こえのある輩の9割が内三部経の所説である女犯肉食を密教の要諦だと信じていると記されている。

中興[編集]

鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は文観を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐寺三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。

1322年元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。

1331年元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者[注釈 20]にまで上り詰めた。

これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。

その後[編集]

後南朝が衰退した後、高野山の宥快による弾圧からその後の影響もあり、安土桃山時代には立川流も徐々に勢力を失い、江戸時代には断絶した。いわゆる立川流と呼ぶことのできる教義や事相を持つ源流や本流の正嫡は、現在は伝わっていないというのが定説である[26]

しかし、その独特の教義は『太平記[27]や、好事家向けの浮世絵と風俗本に多くの資料や影響を残している。

今日ではその特異な教義などから「性行為に基づく秘術を修めた魔術的秘密結社」としてフィクション(特に伝奇小説)の題材とされる事も多い。一例としては黒須紀一郎夢枕獏の著作が挙げられ、近年ではコンピューターゲーム『Fate/EXTRA CCC』に最後の真言立川流継承者という設定のキャラクターが登場している。

立川流の疑問点[編集]

立川流の成立や「血脈」(けちみゃく)と呼ばれる相承の系譜、その流派の歴史については、多くの識者が疑義を呈している。[誰?]

  • 仁寛を立川流の開祖とする記述は、『伝灯広録』などの文献にみられる。しかし『伝灯広録』は、その記述に誤りや矛盾が数多く指摘されており、信頼性が低い。
  • 仁寛が伊豆に流されてから死去するまでの期間は5ヶ月であった。流刑に遭うまでは、仁寛には独自理論の確立に関する目立った動きがみられないことから、この5ヶ月間で教義を練り上げ、しかも伝授したと考える必要があるが、その期間があまりに短すぎるため[注釈 21]不自然である。配流される前の、醍醐三宝院に在った頃から研究をしていたと考えても、見蓮に奥義を伝授するのに要した期間が短いことには変わりない。
  • 千手丸事件で罰せられたのが仁寛、および実行犯とされる千手丸の2名のみであったのは、そもそも天皇暗殺計画がなかったからではないか。即ち、謀反は輔仁親王や支持勢力の村上源氏(仁寛も一族の1人であった)の影響力を削ぐために白河上皇によって捏造されたものであり、かれらを一掃せずとも所期の目的を果たせさえすればよしとしたため、この2名のみを「生贄」としたのではないか[注釈 22]
  • 立川流が邪教視されるようになったのは、高野山の教学を大成した宥快が批判し、立川流の典籍などを高野山の御影堂の前に集めて焚書したことに始まると言われる。宥快は高野山で行われていた念仏も追放したが、立川流も高野山教学の権威を高めるための犠牲になったとされる。また、立川流が南朝側と結びついていたのに対し、宥快などは北朝側と結びついていたため、宗教的な権力だけでなく政治的な権力の巻き添えにもなったとする見解がある[28]

以上のような疑問のほか、仁寛や文観の言動と立川流の教義との間に差異を見出し、かれらと立川流との関係を疑問視する向きもある。

しかしながら、ほとんどの記録が失われた現在では、多くの疑問点が未だ真相不明のまま残されている。現在残っている資料として『宝鏡鈔』[注釈 23]、『立河聖教目録』といった文献があるが、これらは立川流を敵視する立場から書かれたものである。

註釈[編集]

  1. ^ 『受法用心集』は、ちかごろ女犯による成仏を説く内三部経なるものが流布しているとしてこれを邪教として難じたものであり、そこで俎上に載せられているのは立川流の教説であると解するのが一般的である。ただし、心定は一度立川流の秘書をすべて書写した(皆伝した)が、その後別のところで見た立川流の折紙類(秘伝書)のなかに内三部経の口伝書が混入していたと述べるのみで、批判対象と立川流の同一視を示唆するような記述はない。彌永信美は、同書には髑髏本尊儀礼を説く集団を立川流と名指している箇所は見当たらないと指摘し、心定が非難したのは立川流とは別の特殊な集団の教説であって、後の宥快の『宝鏡鈔』が心定のいう「此の邪法」と立川流とを混同したことにより、立川流の名が真言宗の異端一般を排撃するためのレッテルとして利用されたという見解を示した[3]
  2. ^ 『三尊合行次第』は、別名「一二寸合行次第」ともいう。
  3. ^ 『祈雨・宝珠・龍 - 中世密教の深層 - 』(京都大学学術出版会)、275-282頁。
  4. ^ 「『密教工芸』神秘のかたち」(奈良国立博物館)、17頁、図版10;63頁、図版11。
  5. ^ 『祈雨・宝珠・龍 - 中世密教の深層 - 』(京都大学学術出版会)、「請雨経法実修と龍神信仰」、260頁。
  6. ^ 『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』(大正新脩大蔵経刊行会)、257頁。
  7. ^ 原文には、「三世三界中、一切無能越、此名金剛王、頂中最勝名、金剛薩埵定、一切諸仏母」とある。
  8. ^ 『立川邪教とその社会的背景』(国書刊行会)、530-571頁に「受法用心集」上・下巻の全文を収める。
  9. ^ 千人の頭蓋骨の頭頂を粉にして捏ね固めて作った髑髏。
  10. ^ 法界髑〔ママ〕については『受法用心集』に解説あり。重陽の節句に尸陀林〔死体を葬る墓地〕で髑髏を数多く集めおき、吒枳尼の真言を唱えると、下に重なっても上にあるように光り輝いて容易に見分けがつくのが法界髑である。霜の降った朝に墓地に行った場合は霜の降りていない髑髏を選ぶ。または、縫合線のない髑髏を採取する。
  11. ^ 「金銅割五鈷杵」(こんどうわりごこしょ)、奈良国立博物館、鎌倉時代-13世紀、収蔵№1218-3。
  12. ^ 『理趣經』(大八木興文堂)、5頁。
  13. ^ 『理趣經』(大八木興文堂)、5頁。
  14. ^ 『理趣經』(大八木興文堂)、6頁。
  15. ^ 『講説 理趣経』(四季社)、「理趣釈 巻上」、147-160頁、181-192頁。
  16. ^ 『理趣經』(大八木興文堂)、5-12頁。
  17. ^ 『秘密経典 理趣経』(平河出版社)、「十七清浄句」、二-三頁(原文)、以下は解説・和訳等、19-20頁、29-34頁、69-81頁。
  18. ^ 理趣経参照。
  19. ^ ただし、これは冤罪の犠牲とも言われる。後述。
  20. ^ 勅任によって京都東寺に住した一山の首長の称号。
  21. ^ この時代、皇族でない一般の僧侶が「四度加行」を終えて伝法灌頂を授かり、密教の教師の資格を持つ「阿闍梨」になるには、小僧として入門してから約30年ほどかかった。[要出典]
  22. ^ その際、仁寛の邪悪性を際立たせる材料として立川流を利用し、仁寛を開祖に仕立て上げたとの見方もある。なお、文観についても同様に、悪人の印象を植え付けるために立川流と関連付けられたとの説がある。[誰によって?]
  23. ^ 『立川邪教とその社会的背景』(国書刊行会)、572-581頁に「宝鏡鈔」の全文を収める。

出典[編集]

  1. ^ 真鍋 2002, p. 325.
  2. ^ 『岩波 仏教辞典 第2版』685頁。
  3. ^ a b 彌永 2004.
  4. ^ 守山 1990a, pp. 530-571.
  5. ^ 水原 1958, pp. 6-14.
  6. ^ 水原 1923, p. 6.
  7. ^ 阿部 2009, p. 120.
  8. ^ 守山 1990b, 「立川流という邪教の本尊建立に就いて」, p. 167.
  9. ^ 真鍋 2002, p. 94.
  10. ^ a b 真鍋 2002, pp. 90-94.
  11. ^ 真鍋 2002, pp. 94, 314.
  12. ^ 真鍋 2002, p. 96.
  13. ^ 真鍋 2002, p. 315-316.
  14. ^ 真鍋 2002, p. 316.
  15. ^ 藤巻 1999, pp. 38-40.
  16. ^ 水原 1958, 「人形杵と五鈷印の説明」, pp. 20-25.
  17. ^ 真鍋 1999, pp. 81-84.
  18. ^ 藤巻 1999, pp. 187-190.
  19. ^ 真鍋 1999, pp. 78-90.
  20. ^ 藤巻 1999, p. 175.
  21. ^ 真鍋 1999, pp. 25-33.
  22. ^ 藤巻 1999, pp. 164-170.
  23. ^ 真鍋 1999, pp. 33-35.
  24. ^ 藤巻 1999, pp. 276-277.
  25. ^ 真鍋 1999, pp. 229-242.
  26. ^ 真鍋 1999, pp. 13-23.
  27. ^ 藤巻 1999, p. 226.
  28. ^ 村上 1977, 「呪殺哀歌 真言立川流の尭流」, pp. 201-218.

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 『大正新脩大蔵経』 第十八巻、密教部第一、「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」、大正新脩大蔵経刊行会、昭和36年(1961年)刊。
  • 奈良国立博物館 編集 「『密教工芸』神秘のかたち」、奈良国立博物館、平成4年(1992年)刊。
  • スティーブン・トレンソン (Steven Trenson) 著 『祈雨・宝珠・龍 - 中世密教の深層 - 』、京都大学学術出版会、2016年刊。
  • 『理趣經 - 平かな附 - 』、大八木興文堂、平成23年(2011年)刊。
  • 栂尾祥雲 著 『理趣経の研究』(非売品)、密教文化研究所、昭和45年(1970年)刊。
    • 栂尾祥雲 著 『理趣経の研究』(栂尾祥雲全集5)、臨川書店、昭和60年(1985年)刊。[上記の再版本]
  • 宮坂宥勝 著 『講説 理趣経 - 「理趣釈」併録 - 』、四季社、平成22年(2010年)刊。
  • 八田幸雄 著 『秘密経典 理趣経』、平河出版社、1982年刊。
  • 松長有慶 著 『密教経典成立史論』、法蔵館、昭和56年(1981年)刊。
  • 船山哲 著 『仏典はどう訳されたのか』、岩波書店、2015年刊。
  • 笹間良彦 著 『性の宗教 - 真言立川流とは何か』 第一書房、1988年1月。ISBN 978-4-8042-0103-0
  • 笹間良彦 著 『性と宗教 - タントラ・密教・立川流』、柏書房、2000年刊。ISBN 978-4-7601-1929-5
  • 後藤信教 編 『真言宗諸経典 乾』、心鏡社、平成3年刊。
  • 岡坂勝芳 編・校訂 『愛染法大全』(非売品)、蓮華堂出版部、平成20年(2008年)刊。
  • ソナム・ギャッツォ (Sonam Gyamtsho) 著、立川武蔵 & マルコム・グリーン 編集 『西蔵曼荼羅集成』、講談社、1983年刊。
  • 羽多野伯猷 著 『チベット学・インド学集成 第1巻』、法蔵館、1986年。
  • 今枝由郎 著 『チベット仏教王伝』、岩波書店、2015年。
  • 海野孝憲 著 『インド後期唯識思想の研究』、山喜房佛書林、平成14年(2002年)刊。
  • 赤松晋明 校訂 『鉄眼禅師仮字法語』、岩波書店、昭和16年(1941年)刊。
  • 源了圓 著 『鉄眼』(日本の禅語録 十七)、講談社、昭和54年(1979年)刊。
  • 『萬福寺』(古寺を巡る 41)、小学館、2007年刊。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]