稲田大二郎

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稲田 大二郎(いなだ だいじろう、1947年 - )は、日本のチューニングカーコメンテーター自動車バイクの専門誌の出版社三栄書房元編集局長。 愛称は『Dai』。他にも『GOGO』、『不死身の男』(後述)、『暴走機関車』とも呼ばれている。長崎県出身。学習院大学除籍[1]

三栄書房のモータースポーツ雑誌『オートスポーツ』の編集部を経て、日本初の自動車チューニング専門誌『Option』を立ち上げた。また全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の創設者のひとりとしても知られるが、2010年12月9日、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退[2]した。

『Option』創設当時から、チューニングカーの普及に努めており、東京オートサロンの前身であるエキサイティングカーショーの発起人でもある。近年ではキャンペーンガールとそれ目当ての観客ばかりが目立つ東京オートサロンを批判的に思い、チューンドカー中心のイベントを再びとして、エキサイティングカー・ショーダウンも開催している。また、チューンドカーの地位向上を図るため、「走るからこそ環境を考えよう」のキャッチフレーズを持ち、『Option Land』としてNPO活動もしている。

略歴[編集]

若い頃は、雨宮勇美と共に走り屋として日野・コンテッサを駆り、主に東名高速道路などでキャノンボールレースをしていた。なお、その当時ミラー部品1つの交換や、タイヤをインチアップしただけで違法改造として警察に厳しく取締まられた不条理さに疑問を抱き、その想いが後に『Option』創刊のきっかけとなったと発言している。

『Option』創刊後、車のチューニング分野では第一人者として位置づけられ、レーシングドライバー以外では、最高速チャレンジに最も慣れ親しんでいる人物のひとりである。

『Option』誌における最高速企画では、わずかなミスやトラブルで死亡事故に直結する危険があるにもかかわらず、ほぼ全ての企画のドライバー役を引き受けていた。しかし、兄弟誌『Option2』編集長であったマサ・サイトーこと斎藤政夫が最高速記録テスト中の事故で他界した事がきっかけで暫くの間、最高速トライアルは自粛していた時期がある。

『Option』や『Video Option』で発表された形としては、1991年にアメリカのボンネビルスピードウェイにて、VG30DETTを搭載されたJUNオートメカニックチューンの日産・フェアレディZ(Z32)にて、E/BMSクラスにおいて419.84km/hを記録し、ワールドチャンピオンに輝いた(正確にはこの速度でエンジンブローしてしまったのだが、この記録は今も破られていない)。ちなみにこの時は別クラスにて、車両制作者であるJUNオートメカニック小山進が同一車にて421km/hのワールドレコードを記録している。また、速度制限の無い一般公道のドイツアウトバーンにて一般車が混じる中、BLITZがチューニングしたBNR34型スカイラインGT-R、通称R-348を駆り、343.35km/hという速度も記録した(公式な物では、クローズドコースは9ffチューンのポルシェ・911が388km/h、一般道をクローズした物を用いた記録ではポルシェ・911の347km/hが世界記録)。

レーシングドライバーでは土屋圭市との交流が深く、星野一義高橋国光とも人脈を持つ。 特に土屋圭市にとって稲田はアマチュア時代からの師匠の一人とも言うべき間柄で、土屋によると青年時代に東京に来た際、寝る場所もなかったということから、稲田の計らいで雑誌Optionの編集部で寝泊りさせてもらったというエピソードがあるとのこと。また自身が出演した「ザ・峠」が暴走行為を助長するとして発禁処分になった際、日本自動車連盟(JAF)からライセンスを剥奪処分されると検討された時に、真っ先に弁護してくれたのは稲田であったという。

チューニング関係では上記のRE雨宮に加え、ヤシオファクトリー岡村和義と仲が良いことで知られ、岡村氏には自身の車の修理やチューニングも任せることも多い。ちなみに、D1参戦車両であるストリームZ GT Jr.は千葉のトップシークレットが製作、海外での最高速チャレンジ車両ストリームZはJUNオートメカニックが勤めた。

年齢による体力、判断力の低下のため、2006年9月のシルバーステイツを最後に公道最高速企画を引退した。最終的に、世界最速の称号はボンネビル、ニュージーランド、シルバーステイツの3ステージ全てで達成する事が出来なかった。

2011年からは、土屋と共に新たに立ち上げたドリフト走行のシリーズ『ドリフトマッスル』で自ら審査員を務める。またそれに伴い、『Video Option』のライバル誌である『ホットバージョン』にも出演するようになった。

エピソード[編集]

『Option』や『Video Option』内にて「不死身の男」と書かれる事が多い。以下理由。

  • 300km/hを超えるスピードで走行できる日本自動車研究所旧コース(通称:谷田部高速試験場)にて、バンク内でガードレールに接触させるも、そのまま走行。
  • 同じく谷田部のバンク内でコントロールを失った際もそのまま停止。
  • バンク内にてタイヤバーストが起きたがそのまま停止。
  • 300km/hで走行中、鳥が正面グリルへ突き刺さるも、そのまま走行。
  • アクセルを踏み続けられなかった車は今のところ2台しかない。1台は銭谷自動車が開発した1,000馬力オーバーのRB26搭載(GT3037S×2)のシルビアで、ボディ剛性が弱すぎたと言う噂もあるが、ボディ剛性が低かったのはFEASTのシルビアであり、銭谷自動車のRBシルビアでは無いと当時のオプション雑誌に明記している。もう1台はリコーレーシングが製作したアリストで、エンジンがSR20DET+トラストT78-33Dタービンという仕様だが、窓ガラスが存在せず、120km/h以上では風圧で息ができなかった。そもそもこの車はダートオーバルレース用に作られたものであった。
  • 300km/hを超えるスピードでの谷田部でのバンク走行、とりわけ出口付近は車両が最も不安定になるという。にもかかわらず稲田はアクセルを戻すことなくドリフトでコントロールしながら走っていた。プロレーサー時代の桂伸一でさえ、アクセルで調整していたという(オプション・ビデオオプションでの発言より)。
  • ダートオーバルにて先行車をプッシュした際に壁に衝突して足回りを破損、その後コーナーで支えきれず横転するも、無傷で生還した。このほか、マシンが炎上したり、同じ場所の壁に3回も接触するなどしている。
  • 特筆すべきは2003年ストリームZ 1号機で参加したシルバーステイツでの大事故。この事故では344km/hで左リアタイヤが破裂し、240km/hまで減速するものの、その後スピンながら横転。この際に10回転もしたことから彼の生死が心配されたものの、大事故にもかかわらず競技用シートベルトやロールケージなどの競技車両用の安全装備により打撲とムチ打ちのみで無事生還した。
  • トレインカーレース(アクセルとブレーキに分かれた2台の車を鎖で繋ぎ、加速と減速を各々で行うレース)でブレーキを担当していた際(アクセル担当車は岡村和義)、途中でフロントタイヤがパンクして制御不能になり、その後ダートに突入し横転した。しかし無傷で生還し、ガッツポーズを見せる。実況の鈴木学にはこの光景を見て、まともに実況が出来ないほどに笑われた。
  • 8の字レースの際、乗っていたマシンのエンジンから出火した。
  • 上記のエピソードからもわかるように、要するに丈夫な身体、いかなる状況でも適切な行動を行える判断力、ある種の悪運をもっている。

これ以外にも『Video Option』内の企画で体を張ることが多かった。

  • 音圧競技用に作られた130dBもの音量が出せる「ミニ・イン・ブラック」」なる黒いミニに閉じ込められた。
  • D1グランプリの余興として高橋邦明選手のJZX100のサンルーフから首を出した状態でドリフト同乗走行をさせられたことがある。

脚注[編集]

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  1. ^ 『Video Option』Vol.145のDVDボーナストラックにて、自分の口から除籍と言っている。
  2. ^ [1]D1グランプリオフィシャルサイトニュース2011年12月22日付 同時にD1グランプリ創始者の1人である土屋圭市も辞任した。

外部リンク[編集]