祖谷山

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祖谷山(いややま)とは、徳島県西部の祖谷川松尾川流域の山間部地域のこと。かつての美馬郡(後に三好郡東祖谷山村西祖谷山村の地域に相当し、現在の三好市の一部にあたる。

概要[編集]

祖谷(イヤ)」いう地名について、柳田國男は“イヤ”・“オヤ”は元は祖霊のいます地という意味を持ち、後にその意味に合った漢字を当てはめたとする説を唱えている[1]

祖谷渓と呼ばれる深い峡谷に遮られ、標高1000メートル以上の峠を経由する山道を越えない限り外部との往来が困難であったため、独自の生活習慣・習俗・口承文芸などが残された地域である。

屋島の戦いで落ち延びた「平家の落人」が住み着いたという伝説があり、また鎌倉時代木地師が住み着いた土地とも伝えられている。中世を通じて小規模な土豪が他の住民を隷属させて支配するという構図が続いていたが、蜂須賀氏阿波国を支配して祖谷山を幕藩体制化に組み入れようとすると激しい抵抗(祖谷山一揆)が起きた。最終的には徳島藩(蜂須賀氏)は直接支配を断念し、蜂須賀氏に帰属して生き残った土豪の喜多氏を祖谷山の「政所」に任命して統治を行わせ、政所は有力8家を「御屋敷」、36名の集落の長を「土居」に任命し、その下に名子(百姓)・下人(家内奴隷)を隷属させるという独自の支配体制を採らせた。その支配形態は明治維新によって終焉を迎えるが、その後も地域に大きな影響を残した。

この地域を大きく変えるきっかけになったのは、1920年1902年から18年の歳月をかけて建設された祖谷街道(旧道)が完成したことによる。明治の頃から林業の近代化が進みつつあったが、街道の完成による交通状況の改善がそれに拍車をかけた。また、祖谷渓の水流を利用した水力発電所も多数建設された。一方、林業や狩猟焼畑農業楮紙の製造くらいしか産業がなかった祖谷山から出稼ぎに出る者、中にはそのまま他の地方に移り住む者も現れた。特に焼畑農業が衰退した昭和30年代以後にその傾向に拍車がかかり、過疎化が進行した。その一方で観光地となっていた大歩危と祖谷山を直接結ぶ祖谷渓道路1974年に完成したことによって、「平家の落人」伝説ゆかりの観光地としても注目されるようになった。

脚注[編集]

  1. ^ 千葉『日本史大事典』。

参考文献[編集]

  • 羽山久男「祖谷」(『徳島県百科事典』(徳島新聞社、1981年))
  • 千葉徳爾「祖谷山」(『日本史大事典 1』(平凡社、1992年)ISBN 978-4-582-13101-7
  • 藤田裕嗣「祖谷」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23001-6