木地師

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木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。

概要[編集]

9世紀近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。 蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった[1]。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた[1]

木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、 明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。

木地師の伝承[編集]

  • 会津には元々少数ながら木地師がいたが、蒲生氏郷保科氏転封になった時に近江や信濃から木地師を連れて行った。それらの人々は従来の木地師から「渡り木地」と呼ばれた[4]

木地師が描かれた作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 宮本 2011, pp. 80-99.
  2. ^ 安珍清姫鐘巻由来、紀伊国真砂(まなご)も同じく「まなご」と言い、木地師の伝承があるとされる。熊野国造の「真砂の長者」も参照。
  3. ^ 『大聖寺川上流域の歴史』 大聖寺川上流域の歴史編纂委員会、ホクトインサツ、小松市日の出町(原著2009年4月5日)、初版、136頁。
  4. ^ 宮本 2011, pp. 98-99.

参考文献[編集]

  • 宮本常一 『山に生きる人々』 河出書房新社、2011年ISBN 9784309411156 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]