石川光元

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石川光元
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長6年6月19日1601年7月18日
別名 通称:久五郎[1]、紀伊守
戒名 国恩寺殿涼室宗薫大禅定門
墓所 妙心寺大雄院
官位 従五位下紀伊守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 美濃石川氏
父母 父:石川光重
正室:浅井井頼
側室:お亀の方
光忠、清平、慶光院(脇坂安元室)

石川 光元(いしかわ みつもと)は、安土桃山時代武将大名

略歴[編集]

石川光重の子。豊臣秀吉につかえ、馬廻組頭[1]

天正5年(1577年)、1万石を与えられ、播磨龍野城主(城代)とされる。天正18年(1590年)、小田原の役に従軍し、文禄元年(1593年)の文禄の役では肥前名護屋城に、三ノ丸御番衆の御馬廻組として駐屯した。

文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治で、木下与右衛門と共に福島宿を警固した[1]。同年11月2日、従五位下紀州守に叙任される[1]

慶長3年(1598年)の秀吉の死で、遺物黄金15枚を受領[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して領地を失ったが、藤堂高虎のとりなしにより助命された。翌慶長6年6月19日没。

子孫[編集]

石清水八幡宮志水氏の娘・お亀の方を側室として光忠をもうけたが、正室浅井氏の嫉妬によりお亀の方は程なく実家に帰された。その後にお亀の方は奥勤めに入り、徳川家康に見初められて側室となり、松平仙千代尾張藩主・徳川義直を産む。この縁により、光忠は尾張藩に1万3百石で召し抱えられ、重臣となった。

脚注[編集]

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参考文献[編集]

  • 白川亨 『石田三成とその一族』 新人物往来社、1997年 p273-p288
  • 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、32頁。