「オーストリア帝国」の版間の差分
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この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。 |
この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。 |
2017年5月16日 (火) 15:01時点における版
- オーストリア帝国
- Kaisertum Österreich
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←1804年 - 1867年 → (国旗) (国章) - 国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
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公用語 ドイツ語(話されていた言語としては他に、ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語、スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語) 首都 ウィーン 通貨 マリア・テレジア・ターラー
オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語: Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。
前身の、神聖ローマ帝国及びその有力な構成国であったオーストリア大公国時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。
厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。
概要
17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制を端緒とし、さらに18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらにフランス革命を受けたナポレオン帝国の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域(ハプスブルク君主国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は帝国郵便のタクシス家にボヘミアの国家領ホティーシャウを108万9200グルデンで売却した。
この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。 この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていた。 だが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというトリレンマ状態にあった。 1866年の普墺戦争によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)に大幅な譲歩(アウスグライヒ)を認め、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。
なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。
領域
オーストリア帝国のデータ | |
民族構成 | ドイツ人: 24% ハンガリー人: 20% チェコ人: 13% ポーランド人: 10% ルテニア人(ウクライナ人): 8% ルーマニア人: 6% クロアチア人: 5% スロバキア人: 4% セルビア人: 4% スロベニア人: 3% イタリア人: 3% |
- 神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:オーストリア大公国、ボヘミア王冠領(チェコ)、ザルツブルク公国、ケルンテン公国、チロル地方など
- オスマン帝国からの征服地:ハンガリー王国の大部分、トランシルヴァニア、クロアチア、イストリア、ダルマチア
- ポーランド分割によって獲得:ガリツィア、ブコヴィナ(ガリツィア・ロドメリア王国)
- イタリア関係:ロンバルド=ヴェネト王国、1860年まで分家がトスカーナ大公国を支配。
- 1865年から1866年にかけてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国のうちのホルシュタイン
主要年表
- 1804年 神聖ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世として即位
- 1805年 フランス軍、ウィーン占領。アウステルリッツの戦い
- 1806年 フランツ2世、神聖ローマ皇帝位を放棄。神聖ローマ帝国の消滅。
- 1809年 フランス軍再びウィーン占領。メッテルニッヒ宰相に就任
- 1810年 オーストリア皇女マリー・ルイーズとナポレオン皇帝の結婚
- 1813年 ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)
- 1814年 フランス戦役。ウィーン会議(-1815年)
- 1815年 ワーテルローの戦い。ドイツ連邦成立。
- 1819年 カールスバード勅令
- 1831年 ポーランドの蜂起
- 1835年 フランツ1世没。フェルディナント1世即位
- 1847年 ガリツィアの蜂起
- 1848年
- 1849年
- 3月 ロシア帝国軍、ハンガリーに介入
- 8月 ハンガリー軍投降、コシュート・ラヨシュ亡命
- 1859年 イタリア統一戦争、ソルフェリーノの戦いに敗北。ロンバルディア割譲
- 1864年 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
- 1866年 普墺戦争、ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)。リッサ海戦。ヴェネツィア割譲。ドイツ連邦の終焉と北ドイツ連邦成立。
- 1867年 - ハンガリーとアウスグライヒ(妥協)、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。以後はハンガリー王国以外の領域がオーストリア帝国に。
以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。