「オーストリア帝国」の版間の差分

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前身の、[[神聖ローマ帝国]]及びその有力な構成国であった[[オーストリア大公国]]時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、'''[[ハプスブルク君主国]]'''あるいは'''ハプスブルク帝国'''と総称される。
前身の、[[神聖ローマ帝国]]及びその有力な構成国であった[[オーストリア大公国]]時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、'''[[ハプスブルク君主国]]'''あるいは'''ハプスブルク帝国'''と総称される。

厳密には[[第一次世界大戦]]敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事では[[アウスグライヒ]]までを扱う。


== 概要 ==
== 概要 ==
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この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「[[オーストリア皇帝]]を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていたが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというジレンマ状態にあった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])に大幅な譲歩([[アウスグライヒ]])を認め、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。
この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「[[諸国民の春]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「[[オーストリア皇帝]]を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていたが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというジレンマ状態にあった。[[1866年]]の[[普墺戦争]]によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])に大幅な譲歩([[アウスグライヒ]])を認め、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。


なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は[[第一次世界大戦]]に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立した[[ハンガリー王国]]とによる[[同君連合]]の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。
== 領域 ==
*神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:[[オーストリア大公国]]、[[ボヘミア王冠領]](チェコ)、[[ザルツブルク公国]]、[[ケルンテン公国]]、[[チロル|チロル地方]]など
*[[オスマン帝国]]からの征服地:[[ハンガリー王国]]の大部分、[[トランシルヴァニア]]、[[クロアチア]]、[[イストリア]]、[[ダルマチア]]
*[[ポーランド分割]]によって獲得:[[ガリツィア]]、[[ブコビナ|ブコヴィナ]]([[ガリツィア・ロドメリア王国]])
*イタリア関係:[[ロンバルド=ヴェネト王国]]、[[1860年]]まで分家が[[トスカーナ大公国]]を支配。
*[[1865年]]から[[1866年]]にかけて[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]のうちのホルシュタイン


== 主要年表 ==
== 領域 ==
[[File:Ethnographic map of austrian monarchy czoernig 1855.jpg|thumb|right|290px|1855年のオーストリア帝国民族分布図]]
{| align="right" border=1 cellspacing=0 cellpadding=2 style="border: solid 2px #000000; margin-left: 10px"|
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| colspan=2 align="center" style="border-style: none none solid; background: #f0f0f0"|オーストリア帝国のデータ
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*神聖ローマ帝国の一部とされていた領域:[[オーストリア大公国]]、[[ボヘミア王冠領]](チェコ)、[[ザルツブルク公国]]、[[ケルンテン公国]]、[[チロル|チロル地方]]など
*[[オスマン帝国]]からの征服地:[[ハンガリー王国]]の大部分、[[トランシルヴァニア]]、[[クロアチア]]、[[イストリア]]、[[ダルマチア]]
*[[ポーランド分割]]によって獲得:[[ガリツィア]]、[[ブコビナ|ブコヴィナ]]([[ガリツィア・ロドメリア王国]])
*イタリア関係:[[ロンバルド=ヴェネト王国]]、[[1860年]]まで分家が[[トスカーナ大公国]]を支配。
*[[1865年]]から[[1866年]]にかけて[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国]]のうちのホルシュタイン


== 主要年表 ==
*[[1804年]] 神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]]、オーストリア皇帝フランツ1世として即位
*[[1804年]] 神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]]、オーストリア皇帝フランツ1世として即位
*[[1805年]] フランス軍、[[ウィーン]]占領。[[アウステルリッツの戦い]]
*[[1805年]] フランス軍、[[ウィーン]]占領。[[アウステルリッツの戦い]]
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*1864年 [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]
*1864年 [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]
*1866年 [[普墺戦争]]、[[ケーニヒグレーツの戦い]](サドワの戦い)。[[リッサ海戦]]。[[ヴェネツィア]]割譲。ドイツ連邦の終焉と[[北ドイツ連邦]]成立。
*1866年 [[普墺戦争]]、[[ケーニヒグレーツの戦い]](サドワの戦い)。[[リッサ海戦]]。[[ヴェネツィア]]割譲。ドイツ連邦の終焉と[[北ドイツ連邦]]成立。
* [[1867年]] - ハンガリーと[[アウスグライヒ]](妥協)オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。
* [[1867年]] - ハンガリーと[[アウスグライヒ]](妥協)オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。以後はハンガリー王国以外の領域がオーストリア帝国に
* [[1869年]] - [[日墺修好通商航海条約]]締結、[[日本]]との国交が結ばれる。
* [[1873年]] - [[6月]]、[[三帝同盟]]成立。
* [[1878年]]
** [[6月13日]] - [[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン列国会議]]に参加。[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]で、[[ボスニア]]・[[ヘルツェゴヴィナ]]の行政権を得る。
* [[1879年]] - [[ドイツ帝国]]と同盟。
* [[1882年]] - [[2月]]、[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]成立。
* [[1888年]] - ドイツとロシア再保障条約。オーストリア、三帝同盟の更新を受けず。
* [[1897年]] - 最初の普通選挙による帝国議会選挙。[[バデーニ言語令]]によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱。
* [[1900年]] - [[清国]]で[[義和団の乱]]が発生したため、列強国連合として派兵を行う。
* [[1902年]] - 清国[[天津市]]市域の一部を租界地として獲得。
* [[1907年]] - 男子普通選挙法成立。
* [[1908年]] - ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言。ドイツ帝国はこれを支持し、ロシアを牽制。
* [[1912年]] - 第一次[[バルカン戦争]]。この時、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の力を抑制すべく[[アルバニア公国|アルバニア]]の建国を支援。
* [[1914年]]
** [[6月28日]] - オーストリア大公[[フランツ・フェルディナント大公|フランツ・フェルディナント]]夫妻、[[サラエヴォ]]で暗殺される。
** [[7月5日]] - [[セルビア]]に対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する。
** [[7月23日]] - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付。
** [[7月25日]] - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
** [[7月26日]] - イギリス外相[[エドワード・グレイ]]が危機解決のための会議を提案するも、ドイツ・オーストリアはこれを拒否。
** [[7月28日]] - セルビアに宣戦布告。
** [[7月29日]] - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
** [[7月31日]] - ドイツがロシアに兵力動員の最後通牒、ロシア回答せず。
** [[8月1日]] - ドイツがロシアに宣戦布告。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツの[[ルクセンブルク]]侵攻に対して兵力動員。
** [[8月3日]] - ドイツがフランスに宣戦布告。
** [[8月4日]] - ドイツがベルギーに侵攻、イギリスがドイツに宣戦布告。
* [[1915年]]
** [[5月23日]] - イタリア王国がオーストリアに対して宣戦布告、イソンゾ戦線の開始。
** [[10月]] - セルビア全土を占領。
* [[1916年]]
** [[6月]] - [[ブルシーロフ攻勢]]でロシア軍に惨敗を喫し、東部戦線が崩壊の危機に陥る。
** [[8月]] - [[ルーマニア王国]]がオーストリアに対して宣戦布告、[[トランシルヴァニアの戦い]]で撃退する。
** [[11月21日]] - [[フランツ・ヨーゼフ1世]]崩御、[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]即位。
** [[12月]] - ルーマニアの大半を占領、[[ルーマニア王国]]を降伏させる。
* [[1917年]]
** [[1月]] - 皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の弟であるシクストゥス公子による単独講和工作の初め。
** [[10月]] - 膠着したイソンゾ戦線にドイツ軍が参戦、助力により[[カポレットの戦い]]でイタリア王国に勝利を収める。
* [[1918年]]
** [[3月3日]] - [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア革命政府]]、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。
** [[4月]] - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。
** [[6月15日]] - イソンゾ戦線で単独攻勢を開始、[[ピアーヴェ川の戦い]]でイタリア王国軍に敗北する。
** [[10月]] - [[ブダペスト]]暴動起こる。[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]共和国独立を宣言、以後帝国内で独立相次ぐ。
** [[10月24日]] - [[ヴィットリオ・ヴェネトの戦い]]で敗北。退却中に主力軍が降伏し、主戦力を喪失。
** [[10月27日]] - 連合国各国に対し降伏を宣言。
** [[11月3日]] - イタリア王国と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び停戦、降伏。
** [[11月11日]] - カール1世退位。



以後の歴史は[[オーストリア=ハンガリー帝国#略年表]]を参照。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2016年4月11日 (月) 15:02時点における版

オーストリア帝国
Kaisertum Österreich
オーストリア大公国
神聖ローマ帝国
1804年 - 1867年 オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリアの国旗 オーストリアの国章
国旗国章
国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
オーストリアの位置
公用語 ドイツ語(話されていた言語としては他に、ハンガリー語チェコ語ポーランド語ルテニア語ルーマニア語スロヴェニア語クロアチア語セルビア語イタリア語
首都 ウィーン
皇帝
1804年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年フェルディナント1世
1848年 - 1867年フランツ・ヨーゼフ1世
首相
1821年  - 1848年 国家宰相クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ(初代)
1867年 - 1867年 閣僚評議会議長フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(最後)
面積
1804年698,700km²
人口
1804年21,200,000人
変遷
成立 1804年8月11日
アウスグライヒ1867年5月31日
通貨マリア・テレジア・ターラー

オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語: Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。

前身の、神聖ローマ帝国及びその有力な構成国であったオーストリア大公国時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。

厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制を端緒とし、さらに18世紀オーストリア継承戦争七年戦争などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらにフランス革命を受けたナポレオン帝国の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域(ハプスブルク君主国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は帝国郵便のタクシス家ボヘミアの国家領ホティーシャウを108万9200グルデンで売却した。

この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていたが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというジレンマ状態にあった。1866年普墺戦争によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)に大幅な譲歩(アウスグライヒ)を認め、1867年オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。

領域

1855年のオーストリア帝国民族分布図
オーストリア帝国のデータ
民族構成 ドイツ人: 24%
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%

主要年表

以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。

関連項目