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[[永観]]2年([[984年]])8月、[[円融天皇]]が花山天皇に譲位すると、道隆は[[従三位]]に叙せられ、[[東宮]]([[皇太子]])となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。 |
[[永観]]2年([[984年]])8月、[[円融天皇]]が花山天皇に譲位すると、道隆は[[従三位]]に叙せられ、[[東宮]]([[皇太子]])となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。 |
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花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の[[藤原伊尹|伊尹]]で、伊尹の子の[[中納言|権中納言]][[藤原義懐|義懐]]が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。 |
花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の[[藤原伊尹|伊尹]]で、伊尹の子の[[中納言|権中納言]][[藤原義懐|義懐]]が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。 |
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[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]])正月、道隆は長女の[[藤原定子|定子]]を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで[[摂政]]となった。7月、兼家は死去する。 |
[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]])正月、道隆は長女の[[藤原定子|定子]]を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで[[摂政]]となった。7月、兼家は死去する。 |
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『[[古事談]]』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の[[藤原有国|藤原在国]](後の有国)、[[平惟仲]]、[[平国平]]と諮った。在国は胆力のある三男の道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男の道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。 |
『[[古事談]]』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の[[藤原有国|藤原在国]](後の有国)、[[平惟仲]]、[[平国平]]と諮った。在国は胆力のある三男の道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男の道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。 |
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正暦6年(995年)正月、二女原子を皇太子居貞親王(後の三条天皇)の妃とし、後宮政策の強化を図った。 |
正暦6年(995年)正月、二女原子を皇太子居貞親王(後の三条天皇)の妃とし、後宮政策の強化を図った。 |
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死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った[[疫病]]ではなく、酒の飲みすぎなどからきた[[飲水病]]([[糖尿病]])の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。 |
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道隆没後、その遺志に反して弟道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。 |
道隆没後、その遺志に反して弟道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。 |
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『[[大鏡]]』や『[[枕草子]]』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈な一面もあった。『大鏡』は、[[藤原済時]]、[[藤原朝光]]を飲み仲間とし、道隆たちが酔っ払って人前で[[烏帽子]]を外した頭を晒した話を伝えている<ref>当時、無帽で人前に出ることは、はなはだ礼を失したふるまいとされた。</ref>。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭[[源俊賢]]は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。 |
『[[大鏡]]』や『[[枕草子]]』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈な一面もあった。『大鏡』は、[[藤原済時]]、[[藤原朝光]]を飲み仲間とし、道隆たちが酔っ払って人前で[[烏帽子]]を外した頭を晒した話を伝えている<ref>当時、無帽で人前に出ることは、はなはだ礼を失したふるまいとされた。</ref>。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭[[源俊賢]]は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。 |
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2009年9月27日 (日) 06:44時点における版
藤原 道隆(ふじわら の みちたか、天暦7年(953年) - 長徳元年4月10日(995年5月16日))は、平安時代中期の公卿。藤原兼家の長男。従一位、摂政、関白、内大臣。中関白(なかのかんぱく)と称する。
花山天皇退位事件で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘の定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男の伊周を後任の関白に願うが、天皇から許されず、死去した。
生涯
藤原北家の藤原兼家の長男として生まれた。父の兼家は円融天皇に道隆の同母妹の詮子を女御として送り込み、詮子は懐仁親王を生んでいた。また、同じく同母妹の超子は冷泉上皇の女御となり、居貞親王を生んでいた。
永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮(皇太子)となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。 花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。
寛和2年(986年)、兼家は策を講じ、寵妃を失って落胆していた花山天皇を三男の道兼がそそのかして内裏から寺へ連れ出し、騙すようにして出家させてしまった。天皇が消えて宮中が大騒ぎになっている間に、道隆は弟の道綱とともに神璽宝剣を東宮御所へ運び込む役割を果たした。そして、速やかに懐仁親王が即位する(一条天皇)。
一条天皇の外祖父の兼家が摂政となり、嫡男の道隆は正三位権中納言から従二位権大納言へ一気に引き上げられた。永延3年(989年)2月内大臣を拝す。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)10月、従一位に昇叙されるべき所を、伊周の正五位下叙爵のために譲っている。
永祚2年(990年)正月、道隆は長女の定子を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。7月、兼家は死去する。 『古事談』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の藤原在国(後の有国)、平惟仲、平国平と諮った。在国は胆力のある三男の道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男の道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。
10月に定子を中宮とし、帝の外舅そして岳父となった。正暦2年(991年)内大臣の官を辞して道兼に譲った。正暦4年(993年)4月22日に再び関白となる。
正暦6年(995年)正月、二女原子を皇太子居貞親王(後の三条天皇)の妃とし、後宮政策の強化を図った。 だが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳元年(995年)3月9日、一条天皇に請うて嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、病中の内覧のみ許され、伊周に関白の位を譲る事は許されなかった。4月3日、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したがかなわなかった。同6日出家し、10日薨去。享年43。死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。
道隆没後、その遺志に反して弟道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。
人物
『大鏡』や『枕草子』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈な一面もあった。『大鏡』は、藤原済時、藤原朝光を飲み仲間とし、道隆たちが酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話を伝えている[1]。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。
系譜
山城守藤原守仁女との間に第一子の権大納言道頼を儲けたが、道隆は高階成忠女貴子(高内侍、儀同三位母)との間に生まれた、内大臣伊周・中納言隆家・権大僧都隆円・皇后定子ら諸子女を嫡系として優遇した。なお、隆家の子孫からは水無瀬家と坊門家が堂上家に列した。水無瀬家は分家も含めて羽林家として5家を輩出して明治維新まで続き、各家は子爵に列せられたが、坊門家は室町時代に断絶となる。
- 父:藤原兼家
- 母:藤原時姫 - 藤原中正女
- 妻:高階貴子(?-996) - 高階成忠女
- 妻:藤原守仁女
- 長男:藤原道頼(971-995)
- 妻:伊予守奉孝女
- 男子:藤原周家
- 男子:藤原周頼
- 妻:藤原国章女
- 五女:(三条天皇中宮妍子女房)
- 妻:不詳
- 二男:藤原頼親(972-1010)
- 男子:藤原好親
- 女子:平重義室
官歴
- 康保5年(968年)
- 天延2年(974年)
- 天延3年(975年)
- 1月7日:正五位下に昇叙。左近衛少将如元。蔵人・伊予権介も如元か?
- 貞元2年(977年)
- 天元2年(979年)
- 天元4年(981年)
- 天元5年(982年)
- 1月7日:正四位下に昇叙し、右近衛中将如元
- 6月23日:春宮権大夫を止む
- 7月5日:権中納言に転任し、皇太后宮(藤原兼家の娘、藤原詮子)大夫を兼任。右近衛中将如元
- 7月9日:正三位に昇叙し、権中納言・皇太后宮大夫・右近衛中将如元
- 7月13日:右近衛中将を去る
- 7月20日:権大納言に転任し、皇太后宮大夫如元
- 7月22日:従二位に昇叙し、権大納言・皇太后宮大夫如元
- 7月14日:内大臣を辞す
- 正暦4年(993年)
脚注
- ^ 当時、無帽で人前に出ることは、はなはだ礼を失したふるまいとされた。
- ^ 亡くなる際に念仏を薦められたが、極楽で飲み仲間の済時や朝光(当時猛威を振るった疱瘡のため、いずれも道隆と相前後して亡くなった)と再会することを喜んだとされる。
関連項目
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