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[[1948年]]、日本電気に入社。入社後は同社の中央研究所で研究に従事し、[[PCM|PCM(パルス符号変換方式)]]の研究等を行う。[[1962年]]、東京大学 [[工学博士]]に。論文名は「オペレーションズ・リサーチによる捜索装置の設計」。<ref>博士論文書誌データベース</ref>[[1965年]]に米国コムサット社へ出向、PCMデジタル衛星通信の研究を進めた<ref>[http://web.archive.org/web/20080224151738/http://www.zakzak.co.jp/top/2007_11/t2007111231_all.html NEC元会長・関本忠弘氏死去…80歳、脳梗塞で] ZAKZAK 2007年11月12日</ref>。
[[1948年]]、日本電気に入社。入社後は同社の中央研究所で研究に従事し、[[PCM|PCM(パルス符号変換方式)]]の研究等を行う。[[1962年]]、東京大学 [[工学博士]]に。論文名は「オペレーションズ・リサーチによる捜索装置の設計」。<ref>博士論文書誌データベース</ref>[[1965年]]に米国コムサット社へ出向、PCMデジタル衛星通信の研究を進めた<ref>[http://web.archive.org/web/20080224151738/http://www.zakzak.co.jp/top/2007_11/t2007111231_all.html NEC元会長・関本忠弘氏死去…80歳、脳梗塞で] ZAKZAK 2007年11月12日</ref>。


[[1974年]]に日本電気取締役に就任し、常務、専務を経て[[1980年]]に社長就任。[[小林宏治]]会長の提唱する「C&C」(Computer & Communication)を継承し、また独自に「2.5次産業」という概念を唱えた。情報通信に力を入れ、[[PC-9800シリーズ]]で同社を日本最大のパソコンメーカーに育てた。それまでの消費者に馴染みのない電電ファミリーからパソコンのNECにイメージを一新し、NECのブランドが若者の支持を受けることにもなった<ref name="mycom">[http://journal.mycom.co.jp/news/2007/11/13/008/index.html NEC元会長の関本忠弘氏が死去 - 社長在任中にパソコン事業を成功に導く] マイコミジャーナル・大河原克行 2007年11月13日</ref><ref name="bunshun">「蓋棺録」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2008年1月号</ref>。[[1994年]]より会長に就任し、[[日本経済団体連合会]]副会長となる。NEC会長職は1998年まで務め、社長に就任した1980年から会長退任の1998年までの18年間で、コンピュータ事業と半導体事業の強化により、1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた<ref name="itpro">[http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NC/NEWS/20021203/3/ NECが関本相談役を解任] ITPro 2002年12月3日</ref>。
[[1974年]]に日本電気取締役に就任し、常務、専務を経て[[1980年]]に社長就任。[[小林宏治]]会長の提唱する「C&C」(Computer & Communication)を継承し、また独自に「2.5次産業」という概念を唱えた。情報通信に力を入れ、[[PC-9800シリーズ]]で同社を日本最大のパソコンメーカーに育てた。それまでの消費者に馴染みのない電電ファミリーからパソコンのNECにイメージを一新し、NECのブランドが若者の支持を受けることにもなった<ref name="mycom">[http://journal.mycom.co.jp/news/2007/11/13/008/index.html NEC元会長の関本忠弘氏が死去 - 社長在任中にパソコン事業を成功に導く] マイコミジャーナル・大河原克行 2007年11月13日</ref><ref name="bunshun">「蓋棺録」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2008年1月号</ref>。


社長在任中から財界活動に意欲を示し、[[野田一夫]]と[[ニュービジネス協議会]]を設立して1986年に会長に就任<ref>http://www.nbc-world.net/history/ NBC概要 NBC25年のあゆみ]</ref>。[[三重県]][[亀山市]]の工業団地開発(後の[[住友商事]]主体の[[亀山関テクノヒルズ]])のみならず、政治がらみの[[苫小牧東部地域]]開発、[[東京都]]の[[お台場]]開発([[東京臨海副都心建設]])などにも積極的に関わる。[[1994年]]にNEC会長に就任してからは、[[日本経済団体連合会]]副会長となった。NECの会長職は1998年まで務め、社長に就任した1980年から会長退任の1998年までの18年間で、コンピュータ事業と半導体事業の強化により、1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた<ref name="itpro">[http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NC/NEWS/20021203/3/ NECが関本相談役を解任] ITPro 2002年12月3日</ref>。
[[1998年]]には経団連会長候補として名前が挙がったものの、会長選挙で[[今井敬]]に敗れ<ref name="bunshun" />。また、同年に起きた[[防衛庁]]調達における不祥事の責任を取り会長職を辞任、相談役に退く<ref name="mycom" />。[[2002年]]にはNEC執行部批判の言動を理由に相談役も解任され<ref name="itpro" />、財界から引退した。


[[1998年]]には経団連会長候補として名前が挙がったものの、会長選挙で[[新日本製鐵]]会長の[[今井敬]]に敗れ<ref name="bunshun" />。また、同年に起きた[[防衛庁]]調達における不祥事の責任を取り会長職を辞任、相談役に退く<ref name="mycom" />。[[2002年]]にはNEC執行部批判の言動を理由に相談役も解任され<ref name="itpro" />、財界から引退した。
この間、[[ニュービジネス協議会]]会長、[[EDI推進協議会]]副会長、経団連評議会議長・副会長、[[毎日放送]]取締役等を歴任した。晩年はNEC系の国際総合研究所(現[[国際社会経済研究所]])理事、[[ブロードバンド放送]]局・[[ChannelJ]]社長を務めた。

[[EDI推進協議会]]副会長、[[毎日放送]]取締役等を歴任した。晩年はNEC系の国際総合研究所(現[[国際社会経済研究所]])理事、[[ブロードバンド放送]]局・[[ChannelJ]]社長を務めた。


2007年11月11日、[[脳梗塞]]のため80歳で死去<ref name="mycom" />。
2007年11月11日、[[脳梗塞]]のため80歳で死去<ref name="mycom" />。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[小林宏治]]
* [[小林宏治]]
* [[電通]]
* [[バブル経済]]


== 出典 ==
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2017年11月6日 (月) 15:27時点における版

関本 忠弘(せきもと ただひろ、1926年11月14日 - 2007年11月11日)は日本実業家技術者。1980年より1998年にかけて日本電気株式会社(NEC)の社長と会長を務めた。

来歴・人物

兵庫県神戸市生まれ。瀧川中学校旧姫路高校東京大学理学部物理学科を卒業。

1948年、日本電気に入社。入社後は同社の中央研究所で研究に従事し、PCM(パルス符号変換方式)の研究等を行う。1962年、東京大学 工学博士に。論文名は「オペレーションズ・リサーチによる捜索装置の設計」。[1]1965年に米国コムサット社へ出向、PCMデジタル衛星通信の研究を進めた[2]

1974年に日本電気取締役に就任し、常務、専務を経て1980年に社長就任。小林宏治会長の提唱する「C&C」(Computer & Communication)を継承し、また独自に「2.5次産業」という概念を唱えた。情報通信に力を入れ、PC-9800シリーズで同社を日本最大のパソコンメーカーに育てた。それまでの消費者に馴染みのない電電ファミリーからパソコンのNECにイメージを一新し、NECのブランドが若者の支持を受けることにもなった[3][4]

社長在任中から財界活動に意欲を示し、野田一夫ニュービジネス協議会を設立して1986年に会長に就任[5]三重県亀山市の工業団地開発(後の住友商事主体の亀山関テクノヒルズ)のみならず、政治がらみの苫小牧東部地域開発、東京都お台場開発(東京臨海副都心建設)などにも積極的に関わる。1994年にNEC会長に就任してからは、日本経済団体連合会副会長となった。NECの会長職は1998年まで務め、社長に就任した1980年から会長退任の1998年までの18年間で、コンピュータ事業と半導体事業の強化により、1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた[6]

1998年には経団連会長候補として名前が挙がったものの、会長選挙で新日本製鐵会長の今井敬に敗れた[4]。また、同年に起きた防衛庁調達における不祥事の責任を取り会長職を辞任、相談役に退く[3]2002年にはNEC執行部批判の言動を理由に相談役も解任され[6]、財界から引退した。

EDI推進協議会副会長、毎日放送取締役等を歴任した。晩年はNEC系の国際総合研究所(現国際社会経済研究所)理事、ブロードバンド放送局・ChannelJ社長を務めた。

2007年11月11日、脳梗塞のため80歳で死去[3]

囲碁を趣味とし[7]、1981年に棋戦NECカップ囲碁トーナメント戦を、1995年にはその中国版棋戦のNEC杯囲棋賽を創設している[8]

略歴

家族・親族

関本家

兵庫県神戸市東京都

主な著書

  • 『限りなき繁栄への挑戦』(1992年)
  • 『日米摩擦いま何が問題か』(1994年)
  • 『このままでは生きられない』(1996年)
  • 『感じて信じて行動しよう』(1998年)
  • 『21世紀何を変えるかどう変えるか』(1999年)

関連項目

出典

  1. ^ 博士論文書誌データベース
  2. ^ NEC元会長・関本忠弘氏死去…80歳、脳梗塞で ZAKZAK 2007年11月12日
  3. ^ a b c NEC元会長の関本忠弘氏が死去 - 社長在任中にパソコン事業を成功に導く マイコミジャーナル・大河原克行 2007年11月13日
  4. ^ a b 「蓋棺録」『文藝春秋』2008年1月号
  5. ^ http://www.nbc-world.net/history/ NBC概要 NBC25年のあゆみ]
  6. ^ a b NECが関本相談役を解任 ITPro 2002年12月3日
  7. ^ 針木康雄が語る偉大なる経営者たち Vol.03 関本忠弘氏 就職ジャーナル 2009年8月5日
  8. ^ 本誌秘蔵フィルムで綴る⑳世紀の偉人列伝 第14回 関本忠弘 経済界ONLINE
  9. ^ NEC: Press Release 1999/09/14-01”. NEC (1999年9月14日). 2015年12月7日閲覧。

外部リンク