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「杉原紙」の版間の差分

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[[ファイル:Washi(Sugihara paper).JPG|240px|thumb|right|1970年代に再興された杉原紙]]
'''杉原紙'''(すぎはらがみ、すいばらがみ、'''椙原紙''')とは、[[播磨国]][[多可郡]]杉原谷(現在の[[兵庫県]][[多可町]])で漉かれた[[和紙]]のこと。兵庫県の重要無形文化財・伝統的工芸品に指定されている。
'''杉原紙'''(すぎはらがみ、すいばらがみ、'''椙原紙''')は、[[和紙]]の一種である。


杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="書の和紙譜100"/>。
本格的に普及したのは[[鎌倉時代]]に入ってからであるが、それ以前に『[[殿暦]]』の「椙原庄紙」([[永久 (日本)|永久]]4年(1116年)[[7月11日 (旧暦)|7月11日]])、『[[兵範記]]』[[紙背文書]]の「椙原紙」([[仁安 (日本)|仁安]]2年冬分)に登場する。


九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。
[[奉書紙]]や[[檀紙]]よりも厚さが薄く、贈答品の包装や[[武家]]の[[公文書]]にも用いられた。ただし、[[書札礼]]によれば重要な文書では杉原紙は使わないものとされていた。だが、杉原谷は[[京都]]に近く、大量に製品が流入したことから、比較的低廉であったため、高級紙の代用品として用いられた。[[洞院公賢]]が[[左大臣]]を辞任した折に、書札礼に反して杉原紙に辞表を書いたことについての言い訳が、自身の[[日記]]『[[園太暦]]』に残されている。


その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。
[[室町時代]]には檀紙などの高級紙も杉原谷で作られるようになる。


==概要==
明治に入ると、[[洋紙]]の普及により、紙漉き業者が減少し、大正末期に一旦途絶する。その後、[[昭和]]47年(1972年)に、[[加美町 (兵庫県)|加美町]](現在[[多可町]][[加美町 (兵庫県)|加美区]])鳥羽に町立杉原紙研究所を設立し、生産を復活。現在、同研究所及び隣接する[[道の駅R427かみ]]などで販売されている。
「杉原紙」という名称は、歴史的に2つの異なる意味で用いられてきた。

ひとつは「杉原地域で生産された和紙」を指す語で、もうひとつは「杉原式の製法で作られた和紙」を指す語である。

後者の「杉原紙」は中世から近世にかけて、日本各地で作られるようになっており、「杉原紙」や単に「杉原」と呼称されていた。この杉原紙は、鎌倉幕府の公用紙となり、大量に流通した。この頃、武士階級に[[#一束一本|一束一本]]という贈答品の慣習が定着したが、ここでいう「一束」は通常「杉原紙を一束(一束は約500枚)を意味した。武士に対して手紙を書く際には杉原紙を用いるのが作法とされ、杉原紙は武家を象徴する和紙となった。

杉原紙は極めて大量に流通してあちこちで生産され、様々なバリエーションが登場して人気を博したため、「杉原紙の特徴」を特定して端的に説明することは難しい。しかしおおまかに言うと、[[コウゾ]]を原料とし、[[米粉]]を添加し、凹凸(皺)のない和紙ということができる。

杉原紙は江戸中期には庶民も使うほどに普及し、需要を賄うため各地で様々な「杉原紙」が生産されるようになった。江戸期に「杉原紙」を生産していたのは、九州から東北まで20ヶ国に及ぶ。やがて明治期に至るが、その頃には「杉原紙」はきわめて一般的な紙になっていたので、「杉原紙」のルーツがどこにあるかは、もはやわからなくなっていた。たとえば江戸期や室町期の文献には、「板漉き」という製法が杉原紙の特徴であるとの記述があったが、幕末の研究者には「板漉き」というのがどのような技法であるか、わからなかった。「杉原紙」がなぜ「杉原紙」と呼ばれるのかも不明で、もともと「杉原」という土地で作られたのだろうとは推測したが、その「杉原という土地」がどこなのかは諸説あって定まらなかった。室町期に最良の杉原紙とされたのは「加賀杉原」といい加賀国で生産された杉原紙だったし、[[美濃国]]の[[鶴見村|杉原村]]が発祥とする説(『新撰美濃志』1900年)もあった<ref name="ダード95"/><ref name="類考"/>。

近代になって西洋紙が流入すると、手作業で小規模で生産される和紙は、大規模な工場で生産される西洋紙にとって換わられるようになった。武士階級が消滅したことで一束一本の慣習も廃れ、杉原紙の需要は激減し、大正時代には杉原紙の生産は全く行われないようになって姿を消した。杉原紙は「幻の紙」と呼ばれるようになった。

昭和初期に研究家が杉原紙のルーツを調べ、1940年(昭和15年)に兵庫県(旧[[播磨国]])の杉原谷村(合併により、[[加美町 (兵庫県)|加美町]]を経て2014年現在は[[多可町]]の一部)が発祥の地であると結論づけた<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/>。播磨国は古代から製紙が行われていた地域のひとつと考えられており、美濃国などとならび和紙の生産国として最も古い地域とする説もある。そのなかで杉原谷は藤原摂関時代に藤原氏の荘園(椙原庄)だった地域で、かなり古い時期から和紙の生産が行われていたとされる<ref group="注">「和紙」をどう定義するかによっても、これらの起源に関する説は異なったものになる。大陸から紙の製法が伝来したと考える説に従うと、はじめは渡来人が大陸風の紙漉きを日本で行ったことになるが、これを「和紙」とみなすかどうかによって差異が生じる。「和紙」固有の特徴として「流し漉き」という製法があり、長いあいだ一般に「流し漉き」が「和紙」の概念の主要な部分を占めていた。この考え方に従えば「流し漉き」の発祥が「和紙」のルーツということになる。しかし近年になって、「流し漉き」の技法は東南アジアなどにも存在していたことがわかってきており、「流し漉き」は日本にしかない製法とはいえないことが明らかになりつつある。</ref>。

杉原谷では、1972年(昭和47年)に当時の加美町(2014年現在は合併により[[多可町]]の一部)が出資し、町立杉原紙研究所を設立し、和紙の生産を再開した<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/>。再開された和紙づくりでは、かつて武士階級の間で使われたとされる「杉原紙」の特徴的な製法(板漉きや米粉の添加)は行っていない。この再興された「杉原谷生産の和紙(杉原紙)」は、1983年(昭和58年)に兵庫県の無形文化財に指定され、1993年(平成5年)には兵庫県によって[[伝統工芸品|伝統的工芸品]]とされた<ref name="PREF-HG-061215"/>。<!--国が法律で指定する[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]には指定されていない-->

==「杉原紙」の衰亡史==
===紙の品質に対する価値観===
きわめて古い時期には、「厚い紙」が堅固で良いものとされており、戸籍など保存性を要求される公文書に用いられていた<ref name="源流145"/><ref name="歴史と技法87"/>。しだいに紙の需要が増大すると、中国では[[竹]]を原料とすることで紙の増産を実現したが、日本では原料がもっぱら[[コウゾ]]に限られていた<ref name="歴史と技法87"/>。日本では、限られた原料からより多くの紙を生産するために、紙を薄く漉く技術が編み出されていった<ref name="歴史と技法87"/>。薄い紙を漉くための技法にはいくつかあり、紙の生産地ごとに異なる方法が磨かれていったが、たいていその技法は門外不出とされており、紙の名称は産地を表すと同時に、特定の製法で漉かれた紙を指していた<ref name="歴史と技法87"/>その代表が[[美濃紙]]で、もとは[[美濃国]]産の紙のことだったが、美濃で薄い紙を漉くようになると、美濃で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになり、やがて美濃紙の製法が各地へ広まると、美濃産でなくとも、その製法で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになった<ref name="歴史と技法87"/>。

こうした薄い紙を作り始めたのが早かったのは、[[筑紫国]]、[[播磨国]]、それに[[越国]]だった<ref name="歴史と技法87"/>。記録では746年([[天平]]18年)に播磨国から薄紙(播磨で産したので「播磨紙」と呼んだ)が正倉院へ納められている<ref name="歴史と技法87"/><ref name="PREF-HG-IE07"/>。こうした薄紙は[[写経]]に用いられたほか、[[屏風]]や[[神輿]]にも使われた<ref name="歴史と技法87"/>。

[[平安時代]]になると、新たな紙の消費者層として公家の女性が登場した<ref name="歴史と技法91"/>。彼女たちは薄く滑らかな紙を好み、特に「薄様」と呼ばれた[[斐紙]]を愛好した<ref name="歴史と技法91"/>。『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『宇津保物語』などには薄い紙の良さへの言及がある<ref name="歴史と技法91"/>。

これに対し、公家の男性は厚手のコウゾの紙を好み、コウゾをふんだんに使った厚い紙は高級紙として[[ステータスシンボル]]でもあった<ref name="歴史と技法91"/><ref name="歴史と技法104"/><ref name="源流145"/>。

===杉原紙の登場===

古代には、公用紙を生産するために全国各地から紙の原料であるコウゾを納める制度があり、中央には[[紙屋院]]が設けられて朝廷で用いる記録用の高級紙(紙屋紙)を生産していた。中央集権化がすすんで各地の国・国府が整備されるようになると、地方でも公用紙の需要が起きたが、紙はそれぞれの地方で調達することとされ、各地の農産地でも紙漉きが行われるようになった<ref name="歴史と技法104"/><ref name="源流152"/>。

平安時代には、貴族階級が地方に所有する荘園が発達し、それによって中央への貢納が衰えるようになった。紙も同様で、有力な貴族は地方の荘園で紙を独占してしまい、中央の紙屋院へ納められる原料は減っていった<ref name="歴史と技法104"/><ref name="源流152"/>。一方、各地の紙産地では独自の製紙法がうまれ、産地固有の紙が登場するようになった<ref name="歴史と技法104"/><ref name="書の和紙譜24"/>。例えば[[越前国]]では[[奉書紙]]が、[[美濃国]]では[[美濃紙]]が、[[備中国]]では[[檀紙]]が、[[大和国]]では吉野紙・奈良紙が生み出されていった<ref name="歴史と技法124"/><ref name="歴史と技法104"/><ref name="源流162"/><ref name="源流160"/><ref name="源流165"/><ref name="書の和紙譜24"/>。

杉原紙が初めて記録に登場するのもこの時期である<ref name="書の和紙譜100"/>。平安後期に[[藤氏長者|藤原氏の頂点]]にいた[[藤原忠実]](1078年 - 1162年)の日記『[[殿暦]]』のなかで、1116年([[永久 (元号)|永久]]4年){{refnest|group="注"|1116年([[永久 (日本)|永久]]4年)[[7月11日 (旧暦)]]の条。<ref name="源流158"/>}}に忠実が子の[[藤原忠通]]、[[藤原泰子|泰子]]に「椙原庄紙」を100帖<ref group="注">1帖は紙の量を表す単位で、紙の厚みなどで1帖の枚数は異なる。中世では杉原紙は48枚で1帖だが、この殿暦での時点でも同様であるかは不明。仮に同じだとすると約5000枚ということになる。</ref>贈ったという記述がある<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="源流158"/>。椙原庄(杉原荘)というのは播磨国にあった藤原家の荘園で、現在の[[兵庫県]][[多可町]](以前の[[加美町 (兵庫県)|加美町]]にある[[杉原川 (兵庫県)|杉原谷]])に相当する地域である<ref name="歴史と技法104"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="SUGIHARA-history"/><ref name="源流158"/><ref name="類考"/>。

<!--『[[兵範記]]』[[紙背文書]]の「椙原紙」1167年([[仁安 (日本)|仁安]]2年冬分)に登場する。【無出典】-->

この「椙原庄紙」が具体的にどのような特徴を持っていた紙なのか、中世・近世の「杉原紙(杉原式の和紙)」と同質のものであったのかは不明である。椙原庄紙にかぎらず、古代の紙の実物が現存する例は少なく、当時の文献も紙質に関する言及は極めて乏しい<ref name="歴史と技法132"/><ref name="製法と原材料"/>。「厚い」「粗い」などの表現も稀にあるが、何と比較して厚い薄いと述べているのかは不明で、杉原紙をはじめ多くの紙が古代から中世・近世・近代と製法が変わってきているため、同じ名称でも古いものと新しいものが同じ特徴を持っているかもよくわかっていない<ref name="歴史と技法132"/><ref name="製法と原材料"/>{{refnest|group="注"|近年、江戸期から明治期の和紙を分類して製法や成分、基礎性質を分析する試みが行われたことがあるが、試料が断片であるために有意な成果を得られなかった。<ref name="製法と原材料"/>}}。

===武士階級の台頭と杉原紙===
中世に入ると、公家が地方に所有する荘園の支配権を、武士階級([[守護]]・[[地頭]])が簒奪することで公家と武家の社会的地位の逆転が起きたが、それは紙の動向にも反映された<ref name="書の和紙譜24"/>。律令制度に基づく紙屋院への紙原料の貢納は衰微し、紙屋院はもっぱら中古紙<ref group="注">主に書き損じた紙のことを「反故」という。</ref>を漉き直しての再利用([[漉返紙|宿紙]])を行うようになり、高級紙としての紙屋紙はほとんど姿を消した<ref name="歴史と技法104"/><ref name="源流152"/>。また、紙の産地や原料の産地を武士階級がおさえることで、高級な「厚い紙」を使うという特権は、公家から武家のものになった<ref name="歴史と技法104"/><ref name="書の和紙譜24"/><ref name="源流152"/>。

『[[武家年代記]]』、『[[鎌倉年代記]]』、『北条九代記』によると、[[鎌倉幕府]]が成立から約30年後の1219年([[承久]]1年)に「杉原紙」が鎌倉幕府で使われるようになった<ref name="歴史と技法118"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-IE07"/><ref name="源流158"/>。杉原紙は幕府の公用紙となり、武家階級にも文書用紙として広まった<ref name="源流158"/>。鎌倉時代から室町時代を通じて杉原紙が全国の武士階級へ普及していくのにともなって、「杉原紙」は全国で生産されるようになった<ref name="歴史と技法118"/>。その結果として近世・近代には「杉原紙」の原産地がどこなのかわからなくなってしまった<ref name="歴史と技法118"/>。

[[室町時代]]初期の[[書札礼]]である『[[書札作法抄]]』では、武家に手紙を出す際には「杉原紙」を用いなければならないと定められており、武士階級の間で定着していたことが示されている<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="歴史と技法104"/>。将軍や執権など、武士階級の中で上位にある者が下位の武士へ送る文書を「[[御教書]]」と呼び、これにも杉原紙が用いられたことから「御教杉原」「御教書杉原」という表現が頻繁に登場する<ref name="源流162"/>。

{{Squote|一、(中略)武家には杉原ならでは文をかかぬこと也。[[引合紙|引合]]、[[檀紙]]などにては努々(ゆめゆめ)書くべからず。但し女性のもとへの文には、又引合、檀紙にて書て、杉原にては書くべからず、女性も又杉原にては文書く事なし<ref name="歴史と技法104"/><ref name="類考"/>。

― 『書札作法抄』(『和紙つくりの歴史と技法』p.105より)
}}

武家は杉原紙を用い、公家や女性は檀紙や引合紙を用いるというしきたりは鎌倉時代に形成された<ref name="歴史と技法104"/>。その結果として杉原紙を生産が各地に広がったのだが、必ずしも需給が見合ったわけではなく、特に[[建武の新政]]以降、公家が杉原紙を用いたり、武家が檀紙や引合紙を用いた例はある<ref name="歴史と技法104"/>{{refnest|group="注"|当時の紙の流通量に関する直接的な言及や調査はないが、[[紙の博物館]]の創設者の一人である関義城が、室町中期の朝廷関連の文献記録に文書の作成や贈答として紙が登場する回数を調べたところ、杉原紙が約2000回、檀紙が約700回、引合紙が約500回、美濃紙が約200回などとなっており、檀紙や引合紙の不足から公家も杉原紙を使用していたことがわかる<ref name="歴史と技法104"/>。とはいえ、たとえば公家の日記『[[看聞日記|看聞御記]]』に限定すると、杉原紙37回、檀紙・引合紙が171回となり、檀紙のほうが好まれていたことがよみとれる<ref name="歴史と技法104"/>。}}。江戸期の『[[本居宣長|玉勝間]]』が伝えるところでは、1343年([[康永]]3年)に[[洞院公賢]]が自身の日記『[[園太暦]]』の中で、[[左大臣]]辞任の際に、書札礼に反して杉原紙に辞表を書いたことについての弁解を行った<ref name="木村仙秀"/>。

===一束一本===
中世に登場した、杉原紙と武士階級を結びつける重要な習慣が'''[[一束一本]]'''(一束一巻)である<ref name="歴史と技法118"/><ref name="源流158"/>。この一束一本に用いられる紙は原則として杉原紙とされていた<ref group="注">実際には、檀紙、引合紙、美濃紙など、杉原紙以外の紙が用いられた事例はある。</ref><ref name="歴史と技法118"/><ref name="紙の文化事典224"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="sugu"/><ref name="源流158"/>。

武家同士での贈答においては、[[水引]]をかけた紙1束(1束は10帖に相当する。1帖が紙何枚にあたるかは、紙の種類によって差があるが、概ね500枚。杉原紙の場合にはたいてい480枚となる。)に扇1本を添えて送るのが正式な作法とされた。扇1本のかわりに巻物(緞子)1巻とする場合もある<ref name="歴史と技法118"/><ref name="紙の文化事典224"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="sugu"/><ref name="源流158"/>。

著名な事例としては、[[醍醐の花見]]のときに[[豊臣秀吉]]と[[三宝院]]との間で一束一巻の授受があった例や、[[徳川家康]]と[[雲光院]]が二束を贈った例が知られている<ref name="木村仙秀"/>。

===近世の杉原紙===
戦国時代には各地で紙漉部落が形成されて地域の紙の需要を賄ったが、江戸時代になると、紙の消費者層として新たに庶民(町人)が加って生活必需品の一つとなり、紙の需要はますます伸びた<ref name="製法と原材料"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="書の和紙譜24"/>。江戸時代には[[浮世絵]]などにも利用された<ref name="PREF-HG-061215"/>。

一方、旺盛な需要を賄うために紙の生産が農村で奨励されたが、これといった特産品を持たない山村や農村では、コウゾさえあれば漉くことができる紙は貴重な現金収入源となった<ref name="製法と原材料"/>。コウゾ以外の原料から紙を漉く方法も広がり、増産のために稲わらなども用いられた。藩制のもとで各藩ごとの自給経済が営まれ、紙の専売制をしく藩も少なくなかった<ref name="製法と原材料"/>。特に需要の多い杉原紙は多くの藩で生産された<ref name="製法と原材料"/>。

===さまざまな杉原紙===
中世には、杉原紙の主要な産地は播磨国、加賀国、周防国だった<ref name="歴史と技法104"/>。

近世には、加賀国、周防国、石見国、備中国、豊前国、越後国などへ拡大し、江戸中期の『[[和漢三才図会]]』や『[[新撰紙鑑]]』には杉原紙の産地として[[令制国|20ヶ国]]ほどが挙げられている<ref name="歴史と技法141"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/>。例えば備中・備後の杉原紙では上等品として三好杉原、中等の足守杉原や備中杉原というように、同じ産地でも区別があった<ref name="類考"/>。

*'''杉原紙の主な生産国'''
:*九州 - [[豊後国]](豊後杉原)
:*四国 - [[阿波国]](阿波杉原)、[[伊予国]](伊予杉原)、[[土佐国]](土佐杉原)
:*中国 - [[因幡国]](因幡杉原)、[[出雲国]](出雲杉原)、[[備中国]](備中杉原、三好杉原、足守杉原)、[[備後国]](三好杉原)、[[安芸国]](広島杉原)
:*近畿 - [[丹後国]](丹後杉原、佐次杉原)、[[但馬国]](但馬杉原)、[[播磨国]](播磨杉原)、[[大和国]](吉野杉原)
:*中部 - [[越前国]](越前杉原)、[[加賀国]](加賀杉原)、[[美濃国]](美濃杉原)、[[信濃国]](信州杉原)
:*東国 - [[下野国]](那須杉原)、[[磐城国]]

*'''播磨杉原'''(尋常杉原)
::既述のように、播磨国杉原が杉原紙の原産地と考えられているが、杉原紙が各地で作られるようになると、各産地を冠して呼ばれるようになった。播磨国産の杉原紙は播磨杉原と呼ばれたが、ポピュラーなもの・他の杉原紙と区別して「尋常杉原」と呼ばれることもあった<ref name="歴史と技法104"/><ref name="歴史と技法118"/>。播磨杉原の呼称は『[[多聞院日記]]』などに見られる<ref name="歴史と技法118"/>。
::『新撰紙鑑』(1777年/[[安永 (元号)|安永]]6年)には、播磨杉原をさらに細かく分類している<ref name="歴史と技法141"/>。
:::*大広杉原、大物杉原、大中杉原、漉込杉原、大谷杉原(本谷杉原)、中谷杉原(小谷杉原)、荒谷杉原、八分杉原、久瀬杉原、思草杉原(しそう-)など<ref name="歴史と技法141"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="ダード95"/>。
:*'''鬼杉原'''
::漉込杉原は別名を「鬼杉原」といい、最上級品で、目上への一束一本に最適とされた<ref name="紙の文化事典224"/><ref name="紙の文化事典225"/>。10帖を1束とするので「十帖紙」とも称した<ref name="紙の文化事典224"/><ref name="紙の文化事典225"/>。ほかにも思草杉原も一束一本に適うものとされている<ref name="紙の文化事典225"/>。

:*'''大谷杉原'''
::大谷杉原は別名を本谷杉原という。播磨杉原ののなかでも最大で、約35センチメートル×52センチメートル(1尺1寸5分×1尺7寸)の寸法がある。これを半分にしたものが「'''[[半紙]]'''」の寸法に相当する<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="歴史と技法144"/>。
*'''加賀杉原'''
::「強紙」「強杉原」とも<ref name="歴史と技法118"/>。

*小広 - 吉野産の杉原紙<ref name="ダード95"/><ref name="類考"/>。
*大杉、中杉、小杉 - 土佐国・安芸国で作られた杉原紙だが、品質は劣る<ref name="ダード95"/><ref name="類考"/>。

杉原紙は大きさ(判)によって「小杉原」「中杉原」「大杉原」と区別され、大杉原は手紙や文書に用いられ、小杉原は鼻紙に使われた<ref name="紙の文化事典225"/>。

===呼称===
室町期には「すいは」という呼び方が生まれた<ref name="ダード95"/>。女性の間では「すい」という簡略形が好まれた<ref name="ダード95"/>。

===杉原紙の特徴===
杉原紙の産地が拡大し、製法や品質も多様化したが、結果として、後の時代からみると「杉原紙」固有の特徴というものはよくわからなくなっていった<ref name="製法と原材料"/>。[[享保]]年間の研究家、[[藤貞幹]]はその著『好古小録』のなかで、古代の杉原紙の特徴として「板漉き」をあげたが、幕末・明治期の研究者には「板漉き」がどのような技法を指すのかわからなくなっていた<ref name="歴史と技法118"/><ref name="書の和紙譜100"/><ref name="歴史と技法132"/>。

*'''原料'''
::杉原紙は、中世の多くの和紙と同じようにコウゾを原料とする。杉原紙以外では、稀少な[[ガンピ]]が用いられる和紙があった。近世から近代にかけては、増産のために稲わらを混ぜたり、[[ミツマタ]]を使用する和紙も出現したが、杉原紙はもっともポピュラーなコウゾを原料としている<ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法132"/>。

*'''[[填料]]'''
::主原料とは別に添加する材料を填料というが、杉原紙は[[米粉]]を添加する。杉原紙のほかに檀紙、奉書紙も米粉を使用する。米粉を添加する技法を「糊入れ」といい、糊入れが行われた和紙のことを「'''糊入れ'''」とも称した<ref name="sugu"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法132"/>。
::米粉を入れる目的は、薄くても粘りのある丈夫な紙を作るためであり、原料のコウゾを節約して大量の紙を生産するためでもある。極めて古い時代には「厚くて堅固」な紙が良いとされたが、米粉の添加は限られた原料でより多くの紙を生産するための技術として編み出された技法で、結果として産み出された杉原紙は、他の和紙とくらべて「薄くても丈夫」であることが良いとされたのである。とはいえ、同じ杉原紙の中では「厚いものがよい」とされており、播磨杉原を上回る最上級品とされた加賀杉原(強杉原)のよさは、その厚みにあった<ref name="sugu"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法124"/><ref name="歴史と技法132"/>。
::檀紙や奉書紙と比較すると、杉原紙は薄いものだったが、美濃紙と比べると厚い。檀紙、奉書紙、杉原紙と違い、美濃紙は米粉の添加を行わない紙で、米粉を添加しない代わりに、より長い時間をかけて複雑な漉き方を行うことで薄さと丈夫さを実現していた。しかしそのために生産量は少なく、「厚いもの」がよいとされる中近世には、杉原紙よりも安価で流通していた<ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法121"/><ref name="歴史と技法124"/><ref name="歴史と技法132"/>。
::古い時代には、丈夫さを出すために米粉を混ぜるというのは画期的な技術で、日本での紙文化の拡大に大きく寄与したと考えられている。一方、美濃紙のように複雑な工程を経ることで米粉を使わずに薄さと丈夫さを実現する技術から見ると、米粉を混ぜるのは安易で容易な手段であり、高い技術を要求されるものではなかった。高い技術を要求されないからこそ、杉原紙は容易に全国各地に生産が広がっていったのである。しかし紙漉き技術としては高度な技ではないために、近代になって安価で大量生産が可能な西洋紙が入ってくると、他の高度な技術を持つ和紙は西洋紙との差別化を図ることができたのに対し、杉原紙は西洋紙に駆逐されてしまった<ref name="歴史と技法132"/><ref name="製法と原材料"/>。
::米粉を添加することで虫害に弱いという欠点があり、これも近代に杉原紙が廃れる重要な要因になった<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法124"/><ref name="歴史と技法132"/>。

*'''漉き方'''
::江戸期の文献に拠ると、杉原紙の特徴の一つが「'''板漉き'''」と呼ばれる漉き方である。中世の主要な紙である杉原紙、檀紙、奉書紙、美濃紙、吉野紙、鳥子紙のなかで、「板漉き」を行うのは杉原紙だけで、ほかなみな「流漉き」が行われる<ref name="sugu"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法132"/>。
::しかし前述のように、この「板漉き」が実際にどのような技法であるかははっきりしない。明治初期の研究者である榊原芳野は「板漉き」は「紗漉き」のことであるとしている。紗漉きは[[簀の子|竹簀]]の上に[[紗]](薄絹)をおいて漉く方法である<ref name="sugu"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法132"/>。

*'''簾目'''
::できあがった杉原紙を他の紙と比べた時の特徴が、漉く際の竹簀の跡(簾目)が残らないことである。前述のように一口に杉原紙と言っても様々な厚さのものがあり、厚手の杉原紙は薄手の奉書紙よりも厚かったが、両者を見分ける最大の特徴は、簾目の有無だった。板漉き(紗漉き)の結果として簾目がつかない紙になったのだろうと考えられている<ref name="sugu"/><ref name="歴史と技法118"/><ref name="歴史と技法132"/>。

===日本から消えた杉原紙===
杉原紙からかなり遅れて、江戸時代の中期から後期には美濃紙の製法が全国へ広がった。米粉の添加によって虫害に弱い杉原紙に対し、美濃紙(米粉を添加しないことを「生漉き」と称する)は記録・保存用に向いていた<ref name="製法と原材料"/><ref name="紙の文化事典225"/>。また、近世に盛んになった印刷にも、薄口の美濃紙が適していた<ref name="歴史と技法124"/>。

近代に入ると、安価で大量生産可能な西洋紙が流入し、競争力の低い和紙の産地は淘汰されていった。杉原紙にとっては、武士階級の消滅によって、一束一本の贈答礼が廃れ、主要な消費層がいなくなった。明治20年代には美濃紙が圧倒的になり、杉原紙は市場から姿を消した<ref name="紙の文化事典225"/><ref name="製法と原材料"/>。兵庫県(旧・播磨国)の杉原谷では、生産する紙の種類を変えて紙漉きが続けられたが、やがてそれらの集落が無人化したりして、[[大正時代]]末期には完全に姿を消した<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/><ref name="SUGIHARA-history"/><ref name="和紙の里"/>。

==杉原紙の再興==
[[File:Shinmura Izuru.jpg|thumb|left|150px|杉原紙の起源を発見した新村出]]
杉原紙はかつて「天下の名紙」と称されたが、大正期に生産者がいなくなると由緒も製法もわからなくなって、「幻の紙」と言われるようになった<ref name="sugu"/><ref name="和紙の里"/>。

[[言語学者]]の[[新村出]]と[[英文学者]]・和紙研究家の[[寿岳文章]]は、失われた杉原紙のルーツを研究し、1940年(昭和15年)に兵庫県の杉原谷村(合併により、[[加美町 (兵庫県)|加美町]]を経て2014年現在は[[多可町]]の一部)が発祥の地であることを突き止めた<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/><ref name="和紙の里"/>。

1972年(昭和47年)に当時の加美町が出資し、町立杉原紙研究所を設立し、紙の生産を再興した<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/><ref name="紙の文化事典225"/>。加美町ではほぼ全戸にあたる1900戸の住人が[[コウゾ]]を栽培し(一戸一株運動)、杉原紙研究所に納めて紙漉きを行った<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/>。再興された杉原紙は「糊入り」や「紗漉き」を行っていないため、中近世の「杉原紙」とは質に違いがある<ref name="sugu"/><ref name="紙の文化事典225"/>。現在の杉原紙はコウゾだけを原料とすることで強靭さや独特の手触りが特徴である<ref name="sugu"/><ref name="PREF-HG-061215"/><ref name="和紙の里"/>。

再興後の杉原紙は、1983年(昭和58年)に兵庫県の無形文化財に指定され、1993年(平成5年)には兵庫県によって[[伝統工芸品|伝統的工芸品]]とされた<ref name="PREF-HG-061215"/><ref name="紙の文化事典225"/><ref name="和紙の里"/>。

現在、同研究所及び隣接する[[道の駅R427かみ]]などで販売されている。

==脚注==
===参考文献===
*『和紙類考』,渡部道太郎,物外荘,1933
*『岡山県大百科事典』,山陽新聞社・岡山県大百科事典編集委員会・編,山陽新聞社,1980
*日本書誌学体系31(3)『木村仙秀集3』,青裳堂書店,1984
*『和紙文化誌』,久米康生,毎日コミュニケーションズ,1990
*『和紙文化辞典』,久米康生,わがみ堂,1995
*『書の和紙譜』上巻解説編,竹田悦堂,雄山閣出版,1996
*『和紙文化史年表』,前川新一,思文閣出版,1998

*『すぐわかる和紙の見わけ方』,久米康生・著,東京美術,2003
*『和紙の源流』,久米康生,岩波書店,2004
*『紙の文化事典』,尾鍋史彦,朝倉書店,2006
*『和紙の歴史 -製法と原材料の変遷-』,宍倉佐敏,財団法人印刷朝陽会,2006
*『和紙つくりの歴史と技法』,久米康生,岩田書院,2008
*『和紙のすばらしさ -日本・韓国・中国への製紙行脚-』,ダード・ハンター・著,久米康生・訳,勉誠出版,2009
*『回想の和紙』,町田誠之,紙の博物館,2009
*『和紙の里探訪記 全国三百を歩く』,菊地正浩,草思社,2012
*『和紙文化研究事典』,久米康生,財団法人法政大学出版局,2012

*兵庫県
:*[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ac02/radio061215.html 企画県民部知事室広報課 伝統を守る-手漉き和紙「杉原紙」]
:*[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ie07/ie07_000000029.html 兵庫県 産業労働部産業振興局工業振興課 杉原紙]
*[http://www.tesukiwashi.jp/p/arekore31.htm 全国手すき和紙連合会 正倉院の紙こそ和紙の原点]

===注釈===
<references group="注"/>
===出典===
{{Reflist
|refs=



<!--杉原産 -->
*<ref name="紙の文化事典224">『紙の文化事典』p.224</ref>
*<ref name="紙の文化事典225">『紙の文化事典』p.225-226</ref>

*<ref name="歴史と技法87">『和紙つくりの歴史と技法』p.87-90「より薄く強靭な紙をつくる「流し漉き」」</ref>
*<ref name="歴史と技法91">『和紙つくりの歴史と技法』p.91-95「優美な和歌の料紙」</ref>
*<ref name="歴史と技法104">『和紙つくりの歴史と技法』p.104-109「優位を確立した地方産紙」</ref>
*<ref name="歴史と技法118">『和紙つくりの歴史と技法』p.118-120「武家社会にふさわしい杉原紙」</ref>
*<ref name="歴史と技法121">『和紙つくりの歴史と技法』p.121「高級な文書用の奉書紙」</ref>
*<ref name="歴史と技法124">『和紙つくりの歴史と技法』p.124-126「生漉きで用途の広い美濃紙」</ref>
*<ref name="歴史と技法132">『和紙つくりの歴史と技法』p.132-134「製法面からみた主要紙の特徴」</ref>
*<ref name="歴史と技法141">『和紙つくりの歴史と技法』p.141-143「近世の主要な紙種とその主産地」</ref>
*<ref name="歴史と技法144">『和紙つくりの歴史と技法』p.144-148「半紙・小半紙と半切紙」</ref>

*<ref name="源流145">『和紙の源流』p.145-146</ref>
*<ref name="源流152">『和紙の源流』p.152-153</ref>

*<ref name="源流158">『和紙の源流』p.158-159「武家社会の象徴といわれる杉原紙」</ref>
*<ref name="源流160">『和紙の源流』p.160-162「生漉きで多様な美濃紙」</ref>
*<ref name="源流162">『和紙の源流』p.162-165「高級な文書用の奉書紙」</ref>
*<ref name="源流165">『和紙の源流』p.165-167「典雅さを誇る奈良・吉野の紙」</ref>

*<ref name="製法と原材料">『和紙の歴史 -製法と原材料の変遷-』p.73-79「近世の和紙」</ref>

*<ref name="書の和紙譜24">『書の和紙譜』上巻解説編 p.24-25</ref>
*<ref name="書の和紙譜100">『書の和紙譜』上巻解説編 p.100</ref>

*<ref name="ダード95">『和紙のすばらしさ -日本・韓国・中国への製紙行脚-』p.95</ref>

*<ref name="木村仙秀">『木村仙秀集3』p.214</ref>
*<ref name="類考">『和紙類考』p.61-71</ref>

*<ref name="和紙の里">『和紙の里探訪記 全国三百を歩く』p.128-130「公家が用いた杉原紙発祥の地」</ref>

*<ref name="sugu">『すぐわかる和紙の見わけ方』p.32-33</ref>
*<ref name="PREF-HG-061215">[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ac02/radio061215.html 兵庫県 企画県民部知事室広報課 伝統を守る-手漉き和紙「杉原紙」]2014年10月24日閲覧。</ref>
*<ref name="PREF-HG-IE07">[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ie07/ie07_000000029.html 兵庫県 産業労働部産業振興局工業振興課 杉原紙]2014年10月24日閲覧。</ref>

*<ref name="SUGIHARA-history">[http://www.town.taka.lg.jp/sugiharagami/rekishi.html 杉原紙研究所 杉原紙の歴史]2014年10月24日閲覧。</ref>

}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.takacho.jp/sugiharagami/index.html 杉原紙研究所]
* [http://www.takacho.jp/sugiharagami/index.html 杉原紙研究所]


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2014年11月20日 (木) 04:02時点における版

1970年代に再興された杉原紙

杉原紙(すぎはらがみ、すいばらがみ、椙原紙)は、和紙の一種である。

杉原紙、椙原紙、のほか、歴史的には単に「杉原」とするほか、「すいば」「すいはらがみ」「すいはら」「すい」や「水原」「水原紙」の表記もみられる[1][2]

九州から東北の各地で生産され、中世には日本で最も多く流通し、特に武士階級が特権的に用いる紙としてステータスシンボルとなった。近世には庶民にまで普及したが、明治に入ると急速に需給が失われ、姿を消した。

その後「幻の紙」とされていたが、近年になって、原産地が兵庫県であると考えられるようになり、現地で和紙の生産が再開された。再興後は「杉原紙」の名称で兵庫県の伝統工芸品とされている。

概要

「杉原紙」という名称は、歴史的に2つの異なる意味で用いられてきた。

ひとつは「杉原地域で生産された和紙」を指す語で、もうひとつは「杉原式の製法で作られた和紙」を指す語である。

後者の「杉原紙」は中世から近世にかけて、日本各地で作られるようになっており、「杉原紙」や単に「杉原」と呼称されていた。この杉原紙は、鎌倉幕府の公用紙となり、大量に流通した。この頃、武士階級に一束一本という贈答品の慣習が定着したが、ここでいう「一束」は通常「杉原紙を一束(一束は約500枚)を意味した。武士に対して手紙を書く際には杉原紙を用いるのが作法とされ、杉原紙は武家を象徴する和紙となった。

杉原紙は極めて大量に流通してあちこちで生産され、様々なバリエーションが登場して人気を博したため、「杉原紙の特徴」を特定して端的に説明することは難しい。しかしおおまかに言うと、コウゾを原料とし、米粉を添加し、凹凸(皺)のない和紙ということができる。

杉原紙は江戸中期には庶民も使うほどに普及し、需要を賄うため各地で様々な「杉原紙」が生産されるようになった。江戸期に「杉原紙」を生産していたのは、九州から東北まで20ヶ国に及ぶ。やがて明治期に至るが、その頃には「杉原紙」はきわめて一般的な紙になっていたので、「杉原紙」のルーツがどこにあるかは、もはやわからなくなっていた。たとえば江戸期や室町期の文献には、「板漉き」という製法が杉原紙の特徴であるとの記述があったが、幕末の研究者には「板漉き」というのがどのような技法であるか、わからなかった。「杉原紙」がなぜ「杉原紙」と呼ばれるのかも不明で、もともと「杉原」という土地で作られたのだろうとは推測したが、その「杉原という土地」がどこなのかは諸説あって定まらなかった。室町期に最良の杉原紙とされたのは「加賀杉原」といい加賀国で生産された杉原紙だったし、美濃国杉原村が発祥とする説(『新撰美濃志』1900年)もあった[3][4]

近代になって西洋紙が流入すると、手作業で小規模で生産される和紙は、大規模な工場で生産される西洋紙にとって換わられるようになった。武士階級が消滅したことで一束一本の慣習も廃れ、杉原紙の需要は激減し、大正時代には杉原紙の生産は全く行われないようになって姿を消した。杉原紙は「幻の紙」と呼ばれるようになった。

昭和初期に研究家が杉原紙のルーツを調べ、1940年(昭和15年)に兵庫県(旧播磨国)の杉原谷村(合併により、加美町を経て2014年現在は多可町の一部)が発祥の地であると結論づけた[5][6]。播磨国は古代から製紙が行われていた地域のひとつと考えられており、美濃国などとならび和紙の生産国として最も古い地域とする説もある。そのなかで杉原谷は藤原摂関時代に藤原氏の荘園(椙原庄)だった地域で、かなり古い時期から和紙の生産が行われていたとされる[注 1]

杉原谷では、1972年(昭和47年)に当時の加美町(2014年現在は合併により多可町の一部)が出資し、町立杉原紙研究所を設立し、和紙の生産を再開した[5][6]。再開された和紙づくりでは、かつて武士階級の間で使われたとされる「杉原紙」の特徴的な製法(板漉きや米粉の添加)は行っていない。この再興された「杉原谷生産の和紙(杉原紙)」は、1983年(昭和58年)に兵庫県の無形文化財に指定され、1993年(平成5年)には兵庫県によって伝統的工芸品とされた[6]

「杉原紙」の衰亡史

紙の品質に対する価値観

きわめて古い時期には、「厚い紙」が堅固で良いものとされており、戸籍など保存性を要求される公文書に用いられていた[7][8]。しだいに紙の需要が増大すると、中国ではを原料とすることで紙の増産を実現したが、日本では原料がもっぱらコウゾに限られていた[8]。日本では、限られた原料からより多くの紙を生産するために、紙を薄く漉く技術が編み出されていった[8]。薄い紙を漉くための技法にはいくつかあり、紙の生産地ごとに異なる方法が磨かれていったが、たいていその技法は門外不出とされており、紙の名称は産地を表すと同時に、特定の製法で漉かれた紙を指していた[8]その代表が美濃紙で、もとは美濃国産の紙のことだったが、美濃で薄い紙を漉くようになると、美濃で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになり、やがて美濃紙の製法が各地へ広まると、美濃産でなくとも、その製法で漉かれた薄い紙を「美濃紙」と呼ぶようになった[8]

こうした薄い紙を作り始めたのが早かったのは、筑紫国播磨国、それに越国だった[8]。記録では746年(天平18年)に播磨国から薄紙(播磨で産したので「播磨紙」と呼んだ)が正倉院へ納められている[8][9]。こうした薄紙は写経に用いられたほか、屏風神輿にも使われた[8]

平安時代になると、新たな紙の消費者層として公家の女性が登場した[10]。彼女たちは薄く滑らかな紙を好み、特に「薄様」と呼ばれた斐紙を愛好した[10]。『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『宇津保物語』などには薄い紙の良さへの言及がある[10]

これに対し、公家の男性は厚手のコウゾの紙を好み、コウゾをふんだんに使った厚い紙は高級紙としてステータスシンボルでもあった[10][11][7]

杉原紙の登場

古代には、公用紙を生産するために全国各地から紙の原料であるコウゾを納める制度があり、中央には紙屋院が設けられて朝廷で用いる記録用の高級紙(紙屋紙)を生産していた。中央集権化がすすんで各地の国・国府が整備されるようになると、地方でも公用紙の需要が起きたが、紙はそれぞれの地方で調達することとされ、各地の農産地でも紙漉きが行われるようになった[11][12]

平安時代には、貴族階級が地方に所有する荘園が発達し、それによって中央への貢納が衰えるようになった。紙も同様で、有力な貴族は地方の荘園で紙を独占してしまい、中央の紙屋院へ納められる原料は減っていった[11][12]。一方、各地の紙産地では独自の製紙法がうまれ、産地固有の紙が登場するようになった[11][13]。例えば越前国では奉書紙が、美濃国では美濃紙が、備中国では檀紙が、大和国では吉野紙・奈良紙が生み出されていった[14][11][15][16][17][13]

杉原紙が初めて記録に登場するのもこの時期である[2]。平安後期に藤原氏の頂点にいた藤原忠実(1078年 - 1162年)の日記『殿暦』のなかで、1116年(永久4年)[注 2]に忠実が子の藤原忠通泰子に「椙原庄紙」を100帖[注 3]贈ったという記述がある[1][19][18]。椙原庄(杉原荘)というのは播磨国にあった藤原家の荘園で、現在の兵庫県多可町(以前の加美町にある杉原谷)に相当する地域である[11][19][20][18][4]


この「椙原庄紙」が具体的にどのような特徴を持っていた紙なのか、中世・近世の「杉原紙(杉原式の和紙)」と同質のものであったのかは不明である。椙原庄紙にかぎらず、古代の紙の実物が現存する例は少なく、当時の文献も紙質に関する言及は極めて乏しい[21][22]。「厚い」「粗い」などの表現も稀にあるが、何と比較して厚い薄いと述べているのかは不明で、杉原紙をはじめ多くの紙が古代から中世・近世・近代と製法が変わってきているため、同じ名称でも古いものと新しいものが同じ特徴を持っているかもよくわかっていない[21][22][注 4]

武士階級の台頭と杉原紙

中世に入ると、公家が地方に所有する荘園の支配権を、武士階級(守護地頭)が簒奪することで公家と武家の社会的地位の逆転が起きたが、それは紙の動向にも反映された[13]。律令制度に基づく紙屋院への紙原料の貢納は衰微し、紙屋院はもっぱら中古紙[注 5]を漉き直しての再利用(宿紙)を行うようになり、高級紙としての紙屋紙はほとんど姿を消した[11][12]。また、紙の産地や原料の産地を武士階級がおさえることで、高級な「厚い紙」を使うという特権は、公家から武家のものになった[11][13][12]

武家年代記』、『鎌倉年代記』、『北条九代記』によると、鎌倉幕府が成立から約30年後の1219年(承久1年)に「杉原紙」が鎌倉幕府で使われるようになった[19][1][5][9][18]。杉原紙は幕府の公用紙となり、武家階級にも文書用紙として広まった[18]。鎌倉時代から室町時代を通じて杉原紙が全国の武士階級へ普及していくのにともなって、「杉原紙」は全国で生産されるようになった[19]。その結果として近世・近代には「杉原紙」の原産地がどこなのかわからなくなってしまった[19]

室町時代初期の書札礼である『書札作法抄』では、武家に手紙を出す際には「杉原紙」を用いなければならないと定められており、武士階級の間で定着していたことが示されている[1][11]。将軍や執権など、武士階級の中で上位にある者が下位の武士へ送る文書を「御教書」と呼び、これにも杉原紙が用いられたことから「御教杉原」「御教書杉原」という表現が頻繁に登場する[15]


一、(中略)武家には杉原ならでは文をかかぬこと也。引合檀紙などにては努々(ゆめゆめ)書くべからず。但し女性のもとへの文には、又引合、檀紙にて書て、杉原にては書くべからず、女性も又杉原にては文書く事なし[11][4]

― 『書札作法抄』(『和紙つくりの歴史と技法』p.105より)

武家は杉原紙を用い、公家や女性は檀紙や引合紙を用いるというしきたりは鎌倉時代に形成された[11]。その結果として杉原紙を生産が各地に広がったのだが、必ずしも需給が見合ったわけではなく、特に建武の新政以降、公家が杉原紙を用いたり、武家が檀紙や引合紙を用いた例はある[11][注 6]。江戸期の『玉勝間』が伝えるところでは、1343年(康永3年)に洞院公賢が自身の日記『園太暦』の中で、左大臣辞任の際に、書札礼に反して杉原紙に辞表を書いたことについての弁解を行った[23]

一束一本

中世に登場した、杉原紙と武士階級を結びつける重要な習慣が一束一本(一束一巻)である[19][18]。この一束一本に用いられる紙は原則として杉原紙とされていた[注 7][19][24][1][5][18]

武家同士での贈答においては、水引をかけた紙1束(1束は10帖に相当する。1帖が紙何枚にあたるかは、紙の種類によって差があるが、概ね500枚。杉原紙の場合にはたいてい480枚となる。)に扇1本を添えて送るのが正式な作法とされた。扇1本のかわりに巻物(緞子)1巻とする場合もある[19][24][1][5][18]

著名な事例としては、醍醐の花見のときに豊臣秀吉三宝院との間で一束一巻の授受があった例や、徳川家康雲光院が二束を贈った例が知られている[23]

近世の杉原紙

戦国時代には各地で紙漉部落が形成されて地域の紙の需要を賄ったが、江戸時代になると、紙の消費者層として新たに庶民(町人)が加って生活必需品の一つとなり、紙の需要はますます伸びた[22][1][13]。江戸時代には浮世絵などにも利用された[6]

一方、旺盛な需要を賄うために紙の生産が農村で奨励されたが、これといった特産品を持たない山村や農村では、コウゾさえあれば漉くことができる紙は貴重な現金収入源となった[22]。コウゾ以外の原料から紙を漉く方法も広がり、増産のために稲わらなども用いられた。藩制のもとで各藩ごとの自給経済が営まれ、紙の専売制をしく藩も少なくなかった[22]。特に需要の多い杉原紙は多くの藩で生産された[22]

さまざまな杉原紙

中世には、杉原紙の主要な産地は播磨国、加賀国、周防国だった[11]

近世には、加賀国、周防国、石見国、備中国、豊前国、越後国などへ拡大し、江戸中期の『和漢三才図会』や『新撰紙鑑』には杉原紙の産地として20ヶ国ほどが挙げられている[25][1][5][6]。例えば備中・備後の杉原紙では上等品として三好杉原、中等の足守杉原や備中杉原というように、同じ産地でも区別があった[4]

  • 杉原紙の主な生産国
  • 播磨杉原(尋常杉原)
既述のように、播磨国杉原が杉原紙の原産地と考えられているが、杉原紙が各地で作られるようになると、各産地を冠して呼ばれるようになった。播磨国産の杉原紙は播磨杉原と呼ばれたが、ポピュラーなもの・他の杉原紙と区別して「尋常杉原」と呼ばれることもあった[11][19]。播磨杉原の呼称は『多聞院日記』などに見られる[19]
『新撰紙鑑』(1777年/安永6年)には、播磨杉原をさらに細かく分類している[25]
  • 大広杉原、大物杉原、大中杉原、漉込杉原、大谷杉原(本谷杉原)、中谷杉原(小谷杉原)、荒谷杉原、八分杉原、久瀬杉原、思草杉原(しそう-)など[25][1][3]
  • 鬼杉原
漉込杉原は別名を「鬼杉原」といい、最上級品で、目上への一束一本に最適とされた[24][1]。10帖を1束とするので「十帖紙」とも称した[24][1]。ほかにも思草杉原も一束一本に適うものとされている[1]
  • 大谷杉原
大谷杉原は別名を本谷杉原という。播磨杉原ののなかでも最大で、約35センチメートル×52センチメートル(1尺1寸5分×1尺7寸)の寸法がある。これを半分にしたものが「半紙」の寸法に相当する[1][26]
  • 加賀杉原
「強紙」「強杉原」とも[19]
  • 小広 - 吉野産の杉原紙[3][4]
  • 大杉、中杉、小杉 - 土佐国・安芸国で作られた杉原紙だが、品質は劣る[3][4]

杉原紙は大きさ(判)によって「小杉原」「中杉原」「大杉原」と区別され、大杉原は手紙や文書に用いられ、小杉原は鼻紙に使われた[1]

呼称

室町期には「すいは」という呼び方が生まれた[3]。女性の間では「すい」という簡略形が好まれた[3]

杉原紙の特徴

杉原紙の産地が拡大し、製法や品質も多様化したが、結果として、後の時代からみると「杉原紙」固有の特徴というものはよくわからなくなっていった[22]享保年間の研究家、藤貞幹はその著『好古小録』のなかで、古代の杉原紙の特徴として「板漉き」をあげたが、幕末・明治期の研究者には「板漉き」がどのような技法を指すのかわからなくなっていた[19][2][21]

  • 原料
杉原紙は、中世の多くの和紙と同じようにコウゾを原料とする。杉原紙以外では、稀少なガンピが用いられる和紙があった。近世から近代にかけては、増産のために稲わらを混ぜたり、ミツマタを使用する和紙も出現したが、杉原紙はもっともポピュラーなコウゾを原料としている[19][21]
主原料とは別に添加する材料を填料というが、杉原紙は米粉を添加する。杉原紙のほかに檀紙、奉書紙も米粉を使用する。米粉を添加する技法を「糊入れ」といい、糊入れが行われた和紙のことを「糊入れ」とも称した[5][19][21]
米粉を入れる目的は、薄くても粘りのある丈夫な紙を作るためであり、原料のコウゾを節約して大量の紙を生産するためでもある。極めて古い時代には「厚くて堅固」な紙が良いとされたが、米粉の添加は限られた原料でより多くの紙を生産するための技術として編み出された技法で、結果として産み出された杉原紙は、他の和紙とくらべて「薄くても丈夫」であることが良いとされたのである。とはいえ、同じ杉原紙の中では「厚いものがよい」とされており、播磨杉原を上回る最上級品とされた加賀杉原(強杉原)のよさは、その厚みにあった[5][19][14][21]
檀紙や奉書紙と比較すると、杉原紙は薄いものだったが、美濃紙と比べると厚い。檀紙、奉書紙、杉原紙と違い、美濃紙は米粉の添加を行わない紙で、米粉を添加しない代わりに、より長い時間をかけて複雑な漉き方を行うことで薄さと丈夫さを実現していた。しかしそのために生産量は少なく、「厚いもの」がよいとされる中近世には、杉原紙よりも安価で流通していた[19][27][14][21]
古い時代には、丈夫さを出すために米粉を混ぜるというのは画期的な技術で、日本での紙文化の拡大に大きく寄与したと考えられている。一方、美濃紙のように複雑な工程を経ることで米粉を使わずに薄さと丈夫さを実現する技術から見ると、米粉を混ぜるのは安易で容易な手段であり、高い技術を要求されるものではなかった。高い技術を要求されないからこそ、杉原紙は容易に全国各地に生産が広がっていったのである。しかし紙漉き技術としては高度な技ではないために、近代になって安価で大量生産が可能な西洋紙が入ってくると、他の高度な技術を持つ和紙は西洋紙との差別化を図ることができたのに対し、杉原紙は西洋紙に駆逐されてしまった[21][22]
米粉を添加することで虫害に弱いという欠点があり、これも近代に杉原紙が廃れる重要な要因になった[1][19][14][21]
  • 漉き方
江戸期の文献に拠ると、杉原紙の特徴の一つが「板漉き」と呼ばれる漉き方である。中世の主要な紙である杉原紙、檀紙、奉書紙、美濃紙、吉野紙、鳥子紙のなかで、「板漉き」を行うのは杉原紙だけで、ほかなみな「流漉き」が行われる[5][19][21]
しかし前述のように、この「板漉き」が実際にどのような技法であるかははっきりしない。明治初期の研究者である榊原芳野は「板漉き」は「紗漉き」のことであるとしている。紗漉きは竹簀の上に(薄絹)をおいて漉く方法である[5][19][21]
  • 簾目
できあがった杉原紙を他の紙と比べた時の特徴が、漉く際の竹簀の跡(簾目)が残らないことである。前述のように一口に杉原紙と言っても様々な厚さのものがあり、厚手の杉原紙は薄手の奉書紙よりも厚かったが、両者を見分ける最大の特徴は、簾目の有無だった。板漉き(紗漉き)の結果として簾目がつかない紙になったのだろうと考えられている[5][19][21]

日本から消えた杉原紙

杉原紙からかなり遅れて、江戸時代の中期から後期には美濃紙の製法が全国へ広がった。米粉の添加によって虫害に弱い杉原紙に対し、美濃紙(米粉を添加しないことを「生漉き」と称する)は記録・保存用に向いていた[22][1]。また、近世に盛んになった印刷にも、薄口の美濃紙が適していた[14]

近代に入ると、安価で大量生産可能な西洋紙が流入し、競争力の低い和紙の産地は淘汰されていった。杉原紙にとっては、武士階級の消滅によって、一束一本の贈答礼が廃れ、主要な消費層がいなくなった。明治20年代には美濃紙が圧倒的になり、杉原紙は市場から姿を消した[1][22]。兵庫県(旧・播磨国)の杉原谷では、生産する紙の種類を変えて紙漉きが続けられたが、やがてそれらの集落が無人化したりして、大正時代末期には完全に姿を消した[5][6][20][28]

杉原紙の再興

杉原紙の起源を発見した新村出

杉原紙はかつて「天下の名紙」と称されたが、大正期に生産者がいなくなると由緒も製法もわからなくなって、「幻の紙」と言われるようになった[5][28]

言語学者新村出英文学者・和紙研究家の寿岳文章は、失われた杉原紙のルーツを研究し、1940年(昭和15年)に兵庫県の杉原谷村(合併により、加美町を経て2014年現在は多可町の一部)が発祥の地であることを突き止めた[5][6][28]

1972年(昭和47年)に当時の加美町が出資し、町立杉原紙研究所を設立し、紙の生産を再興した[5][6][1]。加美町ではほぼ全戸にあたる1900戸の住人がコウゾを栽培し(一戸一株運動)、杉原紙研究所に納めて紙漉きを行った[5][6]。再興された杉原紙は「糊入り」や「紗漉き」を行っていないため、中近世の「杉原紙」とは質に違いがある[5][1]。現在の杉原紙はコウゾだけを原料とすることで強靭さや独特の手触りが特徴である[5][6][28]

再興後の杉原紙は、1983年(昭和58年)に兵庫県の無形文化財に指定され、1993年(平成5年)には兵庫県によって伝統的工芸品とされた[6][1][28]

現在、同研究所及び隣接する道の駅R427かみなどで販売されている。

脚注

参考文献

  • 『和紙類考』,渡部道太郎,物外荘,1933
  • 『岡山県大百科事典』,山陽新聞社・岡山県大百科事典編集委員会・編,山陽新聞社,1980
  • 日本書誌学体系31(3)『木村仙秀集3』,青裳堂書店,1984
  • 『和紙文化誌』,久米康生,毎日コミュニケーションズ,1990
  • 『和紙文化辞典』,久米康生,わがみ堂,1995
  • 『書の和紙譜』上巻解説編,竹田悦堂,雄山閣出版,1996
  • 『和紙文化史年表』,前川新一,思文閣出版,1998
  • 『すぐわかる和紙の見わけ方』,久米康生・著,東京美術,2003
  • 『和紙の源流』,久米康生,岩波書店,2004
  • 『紙の文化事典』,尾鍋史彦,朝倉書店,2006
  • 『和紙の歴史 -製法と原材料の変遷-』,宍倉佐敏,財団法人印刷朝陽会,2006
  • 『和紙つくりの歴史と技法』,久米康生,岩田書院,2008
  • 『和紙のすばらしさ -日本・韓国・中国への製紙行脚-』,ダード・ハンター・著,久米康生・訳,勉誠出版,2009
  • 『回想の和紙』,町田誠之,紙の博物館,2009
  • 『和紙の里探訪記 全国三百を歩く』,菊地正浩,草思社,2012
  • 『和紙文化研究事典』,久米康生,財団法人法政大学出版局,2012
  • 兵庫県

注釈

  1. ^ 「和紙」をどう定義するかによっても、これらの起源に関する説は異なったものになる。大陸から紙の製法が伝来したと考える説に従うと、はじめは渡来人が大陸風の紙漉きを日本で行ったことになるが、これを「和紙」とみなすかどうかによって差異が生じる。「和紙」固有の特徴として「流し漉き」という製法があり、長いあいだ一般に「流し漉き」が「和紙」の概念の主要な部分を占めていた。この考え方に従えば「流し漉き」の発祥が「和紙」のルーツということになる。しかし近年になって、「流し漉き」の技法は東南アジアなどにも存在していたことがわかってきており、「流し漉き」は日本にしかない製法とはいえないことが明らかになりつつある。
  2. ^ 1116年(永久4年)7月11日 (旧暦)の条。[18]
  3. ^ 1帖は紙の量を表す単位で、紙の厚みなどで1帖の枚数は異なる。中世では杉原紙は48枚で1帖だが、この殿暦での時点でも同様であるかは不明。仮に同じだとすると約5000枚ということになる。
  4. ^ 近年、江戸期から明治期の和紙を分類して製法や成分、基礎性質を分析する試みが行われたことがあるが、試料が断片であるために有意な成果を得られなかった。[22]
  5. ^ 主に書き損じた紙のことを「反故」という。
  6. ^ 当時の紙の流通量に関する直接的な言及や調査はないが、紙の博物館の創設者の一人である関義城が、室町中期の朝廷関連の文献記録に文書の作成や贈答として紙が登場する回数を調べたところ、杉原紙が約2000回、檀紙が約700回、引合紙が約500回、美濃紙が約200回などとなっており、檀紙や引合紙の不足から公家も杉原紙を使用していたことがわかる[11]。とはいえ、たとえば公家の日記『看聞御記』に限定すると、杉原紙37回、檀紙・引合紙が171回となり、檀紙のほうが好まれていたことがよみとれる[11]
  7. ^ 実際には、檀紙、引合紙、美濃紙など、杉原紙以外の紙が用いられた事例はある。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『紙の文化事典』p.225-226
  2. ^ a b c 『書の和紙譜』上巻解説編 p.100
  3. ^ a b c d e f 『和紙のすばらしさ -日本・韓国・中国への製紙行脚-』p.95
  4. ^ a b c d e f 『和紙類考』p.61-71
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『すぐわかる和紙の見わけ方』p.32-33
  6. ^ a b c d e f g h i j k 兵庫県 企画県民部知事室広報課 伝統を守る-手漉き和紙「杉原紙」2014年10月24日閲覧。
  7. ^ a b 『和紙の源流』p.145-146
  8. ^ a b c d e f g h 『和紙つくりの歴史と技法』p.87-90「より薄く強靭な紙をつくる「流し漉き」」
  9. ^ a b 兵庫県 産業労働部産業振興局工業振興課 杉原紙2014年10月24日閲覧。
  10. ^ a b c d 『和紙つくりの歴史と技法』p.91-95「優美な和歌の料紙」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『和紙つくりの歴史と技法』p.104-109「優位を確立した地方産紙」
  12. ^ a b c d 『和紙の源流』p.152-153
  13. ^ a b c d e 『書の和紙譜』上巻解説編 p.24-25
  14. ^ a b c d e 『和紙つくりの歴史と技法』p.124-126「生漉きで用途の広い美濃紙」
  15. ^ a b 『和紙の源流』p.162-165「高級な文書用の奉書紙」
  16. ^ 『和紙の源流』p.160-162「生漉きで多様な美濃紙」
  17. ^ 『和紙の源流』p.165-167「典雅さを誇る奈良・吉野の紙」
  18. ^ a b c d e f g h 『和紙の源流』p.158-159「武家社会の象徴といわれる杉原紙」
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『和紙つくりの歴史と技法』p.118-120「武家社会にふさわしい杉原紙」
  20. ^ a b 杉原紙研究所 杉原紙の歴史2014年10月24日閲覧。
  21. ^ a b c d e f g h i j k l 『和紙つくりの歴史と技法』p.132-134「製法面からみた主要紙の特徴」
  22. ^ a b c d e f g h i j k 『和紙の歴史 -製法と原材料の変遷-』p.73-79「近世の和紙」
  23. ^ a b 『木村仙秀集3』p.214
  24. ^ a b c d 『紙の文化事典』p.224
  25. ^ a b c 『和紙つくりの歴史と技法』p.141-143「近世の主要な紙種とその主産地」
  26. ^ 『和紙つくりの歴史と技法』p.144-148「半紙・小半紙と半切紙」
  27. ^ 『和紙つくりの歴史と技法』p.121「高級な文書用の奉書紙」
  28. ^ a b c d e 『和紙の里探訪記 全国三百を歩く』p.128-130「公家が用いた杉原紙発祥の地」

外部リンク