高橋瑞子
高橋 瑞子 (たかはし みずこ) | |
---|---|
生誕 |
1852年12月5日 三河国幡豆郡西尾 |
死没 | 1927年2月28日 |
死因 | 肺炎 |
教育 | 済生学舎 |
著名な実績 |
日本で第3の公許女医 済生学舎に女子入学を許可させる |
医学関連経歴 | |
職業 | 医師 |
分野 | 内科、外科、産婦人科、小児科 |
高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月28日[1])は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた[2][3]。「日本女医の開拓者[4]」「日本の女性医師育ての親[5]」「女医のパイオニア[6]」とも呼ばれる。その波乱万丈な生涯でも知られている[7]。戸籍名は高橋 瑞(たかはし みず)[8]。別名、高橋 みつ[9]。姉の息子(養子)に、避妊法「オギノ式」で知られる医学博士の荻野久作がいる[10][* 1]。
経歴
少女期 - 医学志願以前
三河国幡豆郡西尾[12](後の愛知県西尾市鶴ヶ崎町)で、中級武士である西尾藩藩士の家に誕生した[13][14]。幕末の動乱により、父は没落士族となり、生活は楽ではなかった[13]。9歳のときに父が病死し、母も間もなく死去した[15]。
高橋家の家督は、長兄夫妻が継いだ。瑞子は学問を望んだが、兄から「女に学問は不要」と希望を絶たれた。必須項目である裁縫の教えを兄嫁に乞うたが、兄嫁に無視されたため、瑞子は既成の着物を解いて構造を研究し、自力で裁縫を身につけた[16]。この頃より、他人に頼らず自力で道を突き進んでゆく性格は顕れていた[15]。
1877年(明治10年)、東京の伯母から「養女に迎えたい」と乞われて上京したが[* 2]、伯母の家ではすでに養子が迎えられており、結婚を前提とした話であった[14]。伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で[12]、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出た[13][14]。
生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められた[13][14]。相手は小学校の教員であり、生活の上でも不安がないと思われたが、これも失敗して離婚した。この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられている[14][* 3]。
産婆から医学への転身
当時の東京で、女性が1人で自活していくことは並大抵のことではなかった。瑞子は手に職を付けることを考え、産婆(助産師)への道を志した[18]。産婆会の会長である津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、瑞子は前橋に移り、知人の紹介により[17]、磯の助手として住み込みで勤めた[13][18]。瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至った[19]。約3年後、磯の勧めで産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾(後の東京産婆学校)で学んだ[13][18]。1882年(明治15年[* 4])、開業資格を取得した[18]。
磯は瑞子を自分の後継者にと考えており[18]、自分の息子の妻にと考えていたともいうが[19]、瑞子は前橋に戻らずに東京に留まり、医師を志した[18]。この理由について、後述の吉岡彌生は、産婆はあくまで医師としての開業までの資金を得るためだったと述べており[12][20]、他に高い向学心によるものとの説もある[18]。磯の夫が産婦人科医であり、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことも事情にあった[21]。
しかし当時、女性は医学校の入学も、医師開業試験も受験資格がなかった。1883年(明治16年)、瑞子は持ち前の行動力から、内務省衛生局長に直訴して、現状を訴えた。返事は「もうしばらく待て」とのことであった。瑞子はこれを良い感触と受取り、勉強のために大阪の病院での実地で内科、外科、産婦人科を学び[22]、前橋の磯のもとで再び助手として勤めて、学費を稼いだ[18][21]。
勉学時代
1883年(明治16年)10月、内務省で女子の開業医試験の受験が許可され、翌1884年(明治17年)、その報せが瑞子のもとに届いた。しかし受験には医学校での勉強が、条件として課せられていた[18]。
女子も入学可の医学校としては、成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学)があったが、月謝半年分の前納が条件であったため、学費不足から断念した[12][23]。続いて月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である済生学舎の門を叩いた[17]。済生学舎は、後年に女子の入学を許可するものの、当時はまだ不許可であった。瑞子はその押しの強い性格から校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くした[3]。食事も睡眠もとらなかった[24]。3日目に校長の長谷川泰に会うことができたが、返事は「考えておきましょう」のみであったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可された。普段は男同然に振る舞う瑞子は、入学を許可されて初めて、声を立てんばかりに泣いたという[3]。
周囲の学生は男子ばかりであり、瑞子は紅一点といえば聞こえは良いが、後述のように大柄の上に化粧気もなく、男子学生たちからは嫌がらせの的となった。奇声、口笛、嘲笑、黒板の卑猥な落書きなどの嫌がらせが続いたが、瑞子はそれを無視して勉強を続けた[25]。骨の標本を観察しようとしたところ、男子学生が貸さないので、夜に墓場から骨を彫り出し、洗って用いたとの逸話もあった[25][* 5]。
男子たちよりも瑞子を苦しめたものは、資金面であった。頼れる親戚は皆無であり、産婆で稼いだ資金に、津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足であった[17]。瑞子は勉強の傍らも内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出した[13][19]。学校を終えて、19時頃に帰宅すると復習、その間に病院へも顔を出し、日付が変わる頃には内職に取り掛かった。翌朝はまだ暗い内から書物を背負って学校へ向かったため、怪しげな姿を、よく巡査から咎められた[26]。文字通り、不眠不休の生活であった[5]。
1885年(明治18年[* 7])に、医術開業前期試験に合格した。続く後期試験にあたっては臨床試験があったため、順天堂医院に実地研修の申し入れたが、やはり女子は不許可であった。偶然にも、当時の自宅の隣人が順天堂医院の院長である佐藤進の甥であり、瑞子の猛勉強ぶりを知っており[21]、この甥が佐藤に進言したことで受け入れが許可され[27][28]、同医院で女性初の医学実地研修生となった[29]。
順天堂では瑞子の窮状から、月謝が免除された。入学金のみ要したため、瑞子は「どうせ夜は本当に寝ないから」といって、夜具を売り払って入学金にあてた。佐藤進はその事情を同情し、その入学金も返金したが[28]、瑞子は「一度手元を離れた金だから」と、その金で夜具を買い戻すのではなく、以前から欲しかった聴診器を買った[27]。佐藤は、すべてを医学に捧げる瑞子に感心して、親身になって瑞子を指導した[28][30]。また佐藤の妻の佐藤志津は、窮状を抱える女性への支援を惜しまなかった人物であり、あまりに質素な瑞子の身なりを見かね、自分の古着を贈るなどして支援した[27][30]。
1887年(明治20年)3月には後期試験に合格、翌1888年(明治21年)、36歳にして日本で第3の公許女医として登録された[2][18]。
開業
同1888年(明治21年)、佐藤志津や知人たちの援助を得て、日本橋の元大工町に「高橋瑞子医院[31]」を開業した[6][27]。場所は魚河岸に近い町であり、周囲からは「女医さんなら山の手のような品の良い場所がいいのに」とも言われたが、瑞子は「粗野な自分には下町の気風が似合う。日本橋なら金回りは良いし、診察代の取りっぱぐれもない」と言い放った[27][32]。開業にあたっては借金もしたが、貸主は瑞子の将来性を見込み、無利子に等しい状態で貸したといい、これも瑞子の人望を物語っていた[27][32]。
開業初日には、順天堂での縁からか、大勢の医師たちが開業祝いに駆け付けて、下町の住人たちから驚かれた。後述のように瑞子が男のような気性であったため、江戸っ子気質の現地の人々から支持され、開業早々から盛況であった[33]。困窮者からはあえて診察料を受け取らず、かといって金持ちから必要以上の診察料を取りたてることもなく、患者たちから慕われた[27][34]。
ドイツ留学
1890年(明治23年)、38歳のとき[1]、ドイツのベルリン大学で本場の医学を学ぶことを望んだ[33]。理由は、瑞子は多くの患者を診察する内に、自分の未熟さを痛感し、より医学を学ばなければならないと考えるようになったため[27]、または後述のような男装姿を警官から不審に見られ「本当に医者か」「免許を見せろ」などといわれ、国外の勉強で男以上の実力をつけることを望んだため[35]、などの説がある。
留学資金の調達には、開業時の借金の貸主の援助があった[32]。また言葉の問題については、恩師の津久井磯の義孫がドイツ語を学んでいたため、家庭教師を乞い、付け焼刃ながらドイツ語を学んだ[35]。瑞子は喘息持ちで体が弱く、ドイツは気候面で不安があり、周囲は反対したが、瑞子は「死んでもいいから行きたい」と、その反対を振り切って日本を発った[35]。
紹介状すらない独断での渡航であり、ドイツでもどの大学も女子の入学を許可していなかった。そもそも当時のドイツは、女子の医術開業自体を禁止しており、医学や技術自体はともかく、女医の道の点では日本に後れをとっていた[33]。
その瑞子の窮状が、ベルリン大学のコッホ研究所に勤めていた北里柴三郎の耳に届いた。北里は「40歳近くでドイツ語もうろ覚えの女性が、ベルリンに医学を学びに来た」と聞き、驚いて椅子から転げ落ちそうになったとも伝えられる[36]。北里は佐々木東洋と共に、オーストリアへの留学を手引きしようとしたが、瑞子の願いはあくまで、ドイツでの勉学だった[37]。
当時の瑞子の下宿先は、薬学者の長井長義がドイツ留学時に滞在した場所であり、そこの女主人は、日本人から「日本婆さん」と呼ばれるほどの親日家、且つ聡明な人物であった。この女主人が瑞子に同情すると、瑞子はこう言い切った[38][39]。
女主人は、瑞子の真摯さに心を打たれて、瑞子を連れてベルリン大学の医学部教授のもとを訪れ、こう訴えた[39][40]。
先生、なんと嘆かわしいことでしょう!ドイツは頑固で、愚かしい制度によって、日本の尊敬すべき女性医師を死に追い込もうとしています。私はベルリンの誠実なる一市民として、今やドイツが犯さんとしている殺人行為を、神の御名において阻止することを誓います。
汝、殺すなかれ、アーメン! — 石原あえか「明治の『杏林女傑』高橋瑞子とその周辺」、石原 2012, pp. 156–157より引用
この女主人の尽力の末に、瑞子はベルリン大学に受け入れられた。入学こそできなかったものの、聴講生としての受講、臨床実験の見学も許可され[40][41]、産婦人医学を修めることができた[22]。北里らはその勇気と執念深さに驚くと共に、感心した[42]。岡見京のようにアメリカにわたって女医となった例はあるが、医師の資格を得てからドイツへ留学した日本女性は、瑞子が初であった[6][33]。
帰国 - 日本での再開業
翌1891年(明治24年)、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血した。滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、重症のまま帰国した[37]。一時は命すら危ぶまれたものの[33]、帰国後は病状が奇跡的に回復した。日本橋での再開業後は、ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり[18][37]、同業者の間でも羨望の的となった[33]。
ベルリン滞在期間は、佐藤進や長井長義と比較すると非常に短期間だが、短期だからこそ、現地で得られるものを徹底的に得ようと努力していたようで、帰国から引退までに、産婦人科医および小児科医として、症例研究を扱った発表した論文が、後年にいくつか発見されている。当時、女医としての医学雑誌への投稿は、非常に珍しいことであった[8]。
貧窮者への支援として、小児科医として種痘医の資格を所持していたことから、予防接種のために孤児院へも出向いていた。産科に限って、貧窮者にも施療を行っていたことが、1898年(明治31年)7月5日の東京朝日新聞などに記録されている[8]。
瑞子の医院には女性が勤めたことがあったが、夜道の往診で危険な目に遭った経験から、以後、瑞子は男性のみを内弟子に雇った。「男ならどこへ放り出しても大丈夫」との弁だった。女性はかえって世話が焼けるといい、「女は駄目だ」が口癖だった[37]。
晩年
「歳をとって、万が一にも誤診をしては大変なことになるから、60歳で廃業する」と以前から宣言しており、その言葉通り1914年(大正3年)、潔く引退した[33][37]。引退後は青年期とは対照的に、和歌を嗜むなど、静かな余生を送った[37]。和歌は父譲りの趣味であり、自ら和歌を詠う傍ら、父の遺稿集『春河流集』を発行した[43]。
瑞子が済生学舎の門戸を開いたことで、済生学舎は1901年(明治34年)に全女子学生を締め出すまでに、約百人の女医を輩出した[4]。中途退学者や、途中で挫折した学生も含めれば、その数は400から500人にまで上った[44]。医師を志す女性の学ぶ場所を瑞子が獲得したといえ[17]、こうして女性が医学を学ぶ道を拓いたことこそを、瑞子の最大の功績とする声もある[42]。しかし当の瑞子自身は「500や600のお産を見た程度で専門家気どりとは、近頃の娘さんはいい度胸だね。私なんざ、開業までに2万人を手がけたよ」などと毒舌も吐いていた[37][45]。
産婆として学んでいた津久井磯は瑞子にとって終生の恩師であり、没後(1910年〈明治44年〉死去)の顕彰碑の建立のために奔走した。1920年(大正9年)、前橋で顕彰碑の除幕式に参列した[37]。
晩年は病気がちとなり[13]、1927年(昭和2年)2月23日に風邪をひき、24日に肺炎を併発した[15]。同1927年2月28日、肺炎により76歳で死去した[13]。なお、直接の死因は肺炎だが、胸腺に悪性腫瘍も認められたため、半年ももたなかったろうと診断されている[46]。
没後
瑞子は東京女医学校(後の東京女子医科大学)設立者である吉岡彌生と親交があり、晩年の病床を見舞った吉岡に、「私の体を解剖して、学生たちの研究に役立ててほしい。骨も焼いては勿体ないので、標本にして教材にしてほしい」との遺言を遺していた[18][37]。遺志に基づき、遺体は東京女医学校で解剖実習に供された。遺骨は骨格標本「高橋先生のお骨」として、東京女医学校の校宝として保存され、太平洋戦争の空襲で病院が焼失する中でも守り抜かれた[47]。吉岡は「死してなお医学のために尽くそうとするこの大先輩の意気に打たれないではいられませんでした」と、瑞子を称えた[33]。女性史研究家の村上信彦は自著『明治女性史』において、瑞子をこう嗟嘆した[37]。
昭和の若い女子医学生その前に立ち、眺め、経歴をよむ。ただし幾人がそれを読破できたであろうか。明治の先駆者の茨の道を追体験するにはあまりに遠く、激烈であった。 — 村上信彦、杉本苑子「ガラスケースに立つ骸骨」、佐藤 & 円地 1981, p. 48より引用
瑞子の開業の前年に日本第2の公許女医となった生沢クノは、1943年(昭和18年)の『日本女医会雑誌』からのインタビューに対して、瑞子と荻野吟子を引き合いに出し、「日本女医の道を開いたのは、荻野さん1人の力だけではなく、その中には高橋瑞子さんと私とが加わっていると思います」と偲んだ[48][49]。
墓碑は郷里の愛知県西尾市にある。ただし、上述の通り検体して東京女子医科大学に遺骨が保存されていること、また独身で子供もおらず、遺骨を持ち帰る遺族もいなかったであろうことから、この墓に遺骨は収められていないと考えられている[50]。西尾市の盛厳寺、東京都世田谷区の豪徳寺にそれぞれ、記念碑が建立されている[50][51]。
晩年に嗜んでいた短歌は、没後に私家版の歌集『瑞雲集』として発行された。喘息の療養のために滞在した熱海の梅園、1923年(大正12年)に体験した関東大震災なども短歌に詠まれている[46]。
2020年(令和2年)7月、歴史社会学者の田中ひかるが、瑞子を主人公とした伝記物語を著し、『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』として発行した[52]。ノンフィクションノベルとされるが、資料の乏しい箇所は、田中の想像を交えて脚色されている[53][54]。
人物
骨太で男勝りの体格であり、髪も短髪であった[55]。ドイツ留学時、日本公使館の館員たちは、瑞子を見て驚き、後年「板額の生まれ変わりみたいな中婆さん[* 8]」と回顧した[35][37]。50歳を越える頃には肥満が進行し、裾がはだけて歩きにくいので、袴を着用した[37][45]。没後の遺体解剖所見の内容を一部要約すると「身長約145センチメートル、骨太、大変な肥満」であった。また「脳髄の発育は極めて良好」「脳内質に異常なし」とあることから、76歳の老体にもかかわらず、思考や感性の衰えはなく、痴呆の傾向もなかったことが示されていた[15]。瑞子を主人公とした小説『骸骨哄笑』を著した杉本苑子も、その容姿を「商売を切って回す大店(おおだな)のお内儀、大きな料亭で睨みをきかす、やり手の女将(おおおかみ)」と表現した[17]。
済生学舎への入学やドイツ留学の逸話が物語るように、型破りな個性の持ち主であった[55]。男物の服を身につけ、道を行く際には、荷物を風呂敷で包んで首に巻き付け、肩を揺さぶって歩いた。酒もたばこも好んだ[55]。人力車に乗り、走り方が少しでも遅いと「這ってるのかい? もっとキリキリ飛ばさんかい」と、太くて低い、凄みのある声で叱咤した[15]。その姿は日本橋の名物の一つともいわれ、下町の女性たちからも憧れられた[32]。
思い切りが良く、思い立ったら行動に移した。物おじもせず、負けん気が強い性格であった[55]。窮状を抱えても決して表情には出さず、むしろ笑い飛ばした。順天堂医院に研修を断られたときも、隣人(佐藤進の甥)から同情されても「女は駄目だって言われてしまいました」と笑うだけだった。彼が佐藤に研修を進言したのは、この性格を気に入ったためとの説もある[30]。豪徳寺の記念碑にも、その人物像を「女傑」と刻まれている[55]。
その一方で、ドイツからの帰国後に何度か移転し、瑞子の家を買った者が、関東大震災で家を失うと、瑞子は不運な買い手への慰謝として、残金を棒引きにした上に、見舞金まで贈るなど[37][45]、人情家の一面もあった。周囲からは「瑞さん」の名で呼ばれ、親しまれた[55]。窮状を救ってくれた恩人へは礼を尽くし、医師として名を成した後には、書生たちを一人前に育て上げるために学費を援助し、その支援により工学博士や医学士となった者も多かった。その1人を自分の姪(姉の子)と縁組させたこともあった[46]。
医師としては親切な態度で患者に接したため、評判が良かった。短髪で羽織袴姿であったことから「男装の女医さん」とも呼ばれた[13]。『風俗画報』の「新撰東京名所図会」にも取り上げられた[56]。文芸評論家の勝本清一郎は、少年期に瑞子の患者の1人であり、ドイツ留学から帰国した頃の瑞子のことを、以下のように回想した[32]。
はかまをはいて短い断髪だったからいまでいえば宝塚スタイル。この先生の大きなガラガラ声が「どうしたね」などと玄関で響き渡ると、下痢したりせきをしたり熱をだしていた幼い私は、思わずほっと救われた感じがしたものだ。 — 勝本清一郎、石原あえか「明治の『杏林女傑』高橋瑞子とその周辺」、石原 2012, p. 149より引用
離婚後に生涯を独身で通したことについては、瑞子は以下の言葉を遺した[34]。
男なんざ、まっぴらだね。くだらない亭主を持って、あくせく苦労するより、やりたいことを存分にやれる独りぐらしのほうが、どれだけさばさばしてるかしれないよ。 — 高橋瑞子、杉本苑子「たった一人の女子学生」、佐藤 & 円地 1981, p. 24より引用
論文
- 「母体ノ脚氣ト小兒ノ腸胃症トノ關係(通常會所演)」(PDF)『順天堂医学』M25巻第141号、順天堂医学会、1892年、1006-1010頁、NAID 130005081026、2020年10月9日閲覧。[8]
- 「小兒ノ疫咳ニ併發セル肺炎及腦溢血患者ノ一例」(PDF)『順天堂医学』M36巻第361号、1903年、72-74頁、NAID 130005082700、2020年10月9日閲覧。[8]
- 「稀有ナル半身麻痺ノ一例」『児科雑誌』第69号、日本小児科学会、1906年2月、25-28頁、全国書誌番号:00009743。[8]
関連作品
脚注
注釈
- ^ 瑞子の姉の1人(生没年は不詳)の夫が、西尾藩士で漢学者の荻野忍であり、荻野夫妻が子供に恵まれず、荻野久作を養子とした[10][11]。
- ^ 兄嫁との衝突が原因で上京したとの説もある[14][16]。
- ^ この車屋の逸話は、吉岡彌生は自伝で「何かの間違いだろうと思う」と述べている[12]。瑞子自身が過去の語りを嫌う性格であったため[17]、この頃の逸話は半ば伝説じみており、諸説あり、真偽のほどは定かではない[15]。
- ^ 明治16年9月との説もある[12]。
- ^ この墓場の骨の逸話は、瑞子ではなく、日本の女医第4号である本多銓子の逸話だとする説もある[25]。
- ^ こうした窮状は瑞子に限った話ではなく、当時の女性の医学生は大なり小なり、こうした生活であったとの説もある[23]。
- ^ 明治19年3月との説もある[26]。
- ^ 「板額」には、鎌倉時代の勇婦として伝わる板額御前の他に、顔が醜く体格の逞しい女性を嘲て言う意味もあるが、中年でも勉学を望んで国外にわたる瑞子の姿に、前者の板額御前の姿を重ねたものと推察されている[35]。
出典
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参考文献
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関連文献
- 田中ひかる『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』中央公論新社、2020年7月20日。ISBN 978-4-12-005320-7。