ボイシ (軽巡洋艦)

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竣工時
艦歴
発注 ニューポート・ニューズ造船所
起工 1935年4月1日
進水 1936年12月3日
就役 1938年8月12日
除籍 1946年7月1日
その後 1951年1月11日アルゼンチンに売却。
性能諸元
排水量 基準:9,800トン
満載:12,700トン
全長 185.4m
水線長 182.9m
全幅 18.8m
吃水 6.94m
機関 バブコック・アンド・ウィルコックス重油専焼水管缶8基
+ウェスティングハウス式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力 100,000hp
最大速力 32.5ノット
航続距離 15ノット/10,000海里
燃料 重油:1,321トン
乗員 975名
兵装 15.2cm(47口径)三連装速射砲5基
12.7cm(25口径)単装高角砲8基
12.7mm単装機銃8丁
装甲 舷側:83~127mm(水線最厚部)
甲板:51mm(最厚部)
主砲:165mm(最厚部)
弾薬庫:51~120mm(側盾)、51~127mm(前後隔壁)
バーベット:152mm(最厚部)
司令塔:127mm(側盾)、51mm(天蓋)
航空兵装 水上機:4基
カタパルト2基

ボイシ (USS Boise, CL-47) は、アメリカ海軍軽巡洋艦ブルックリン級軽巡洋艦の1隻。艦名はアイダホ州の州都ボイシに因む。

艦歴

戦前

ボイシはバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工した。1936年12月3日にサロメ・クラーク(アイダホ州知事バージラ・W・クラーク英語版の娘)によって命名、進水し、1938年8月12日に艦長ベンジャミン・ヴォーン・マッキャンドリッシュ大佐の指揮下就役した。

1939年2月、モンロビアリベリアケープタウンへの整調巡航後、ボイシはカリフォルニア州サンペドロで第9巡洋艦分艦隊に配属される。1941年11月まで西海岸およびハワイ水域で交互に活動した。その後フィリピンマニラに向かう5隻の輸送船団を護衛し、12月4日に到着する。その途中の11月28日、ボイシはサイパン島近海でトラック諸島に向かう第六艦隊旗艦の軽巡洋艦香取清水光美中将座乗)とすれ違った[1]。ボイシは全ての砲塔を香取に向けつつ、煙幕を張って輸送船団を隠した[1]。香取はボイシと輸送船団が見えなくなってから、ボイシとの遭遇を打電した[1]

第二次世界大戦

開戦 - 1942年中旬

1941年12月8日の太平洋戦争勃発時、ボイシはセブ島沖にあった。東インド諸島で第5任務部隊に加わり、1938年からアジア艦隊英語版に配備されていた軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) および駆逐艦隊とともに、バリクパパン沖に集結した日本の攻略部隊と輸送船団を攻撃すべく進撃した。これらの部隊は、1942年1月の時点で連合軍艦隊が攻勢的作戦に使用できる、精一杯の勢力だった[2]。しかし、ボイシは1942年1月21日にセプ海峡英語版で暗礁に衝突し、マーブルヘッドも機関不調で後退してバリクパパン沖海戦には参加できなくなった。ボイシはコロンボおよびボンベイで応急修理の後、メア・アイランド海軍造船所へ向かった。修理が完了すると6月22日に出航し、船団護衛でニュージーランドオークランドに向かう。護衛任務終了後は真珠湾に帰投し、ガダルカナル島上陸に際して日本軍を攪乱する目的で7月31日から8月10日まで日本の勢力圏内を巡航した。8月にはフィジーおよびニューヘブリディーズ諸島への輸送船団を護衛し、9月14日から18日までガダルカナル島へ上陸する海兵隊の支援を行った。

サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)

サボ島沖海戦で損傷しフィラデルフィアに帰投したボイシ

10月11日から12日の深夜に行われたサボ島沖海戦は、ガダルカナル島争奪戦の中における一つの頂点である。南太平洋部隊司令官ロバート・L・ゴームレー中将は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将に突かれる形で[3]ニューカレドニアから3,000名の新たな陸軍部隊をガダルカナル島に送り込み、同時に「東京急行」を阻止する艦隊を出撃させることとした[4]。東京急行の「脱線」の命を受けた艦隊、第64任務部隊(ノーマン・スコット少将)は重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) を旗艦とし、重量艦はサンフランシスコのほかはソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25)、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) 、そしてボイシがいた。第64任務部隊は10月7日にエスピリトゥサント島に集結し、2日後にガダルカナル島近海に到着して警戒しつつ待機した。やがて、陸上偵察機により五藤存知少将率いる日本艦隊が「スロット」と呼ばれるコースを通って接近しつつあることを報告してきた。部隊には輸送船団は付属しておらず、ヘンダーソン飛行場砲撃を狙ってきた部隊と推定された[3]。これを受けて、第64任務部隊は接近を妨害すべくサボ島沖に移動した。第64任務部隊の弱点は、スコット少将が、新型レーダーを装備していないサンフランシスコを旗艦にしていたことだった[5]

"Pick Out the Biggest One and Fire!" – 戦時プロパガンダポスター、ボイシ艦長エドワード・J「マイク」モラン大佐。

10月11日の真夜中近くになり、第64任務部隊と五藤少将の艦隊はガダルカナル島のエスペランス岬北方海域で交戦。第64任務部隊は丁字戦法をとり、五藤少将の艦隊に対して有利な態勢となった。第64任務部隊の一斉射撃により重巡洋艦古鷹駆逐艦吹雪を撃沈して重巡洋艦青葉を撃破し、五藤少将を戦死させた。ボイシは古鷹と砲撃戦を行い、1、2、3番砲塔付近に直撃弾を受け大破し、107名が死亡した。その他、ソルトレイクシティも3発被弾し、前衛の駆逐艦ダンカン (USS Duncan, DD-485) とファーレンホルト (USS Farenholt, DD-491) は敵味方両部隊の間に迷い込んで双方からの砲撃を受け、ダンカンが沈没した。大破したボイシはその後フィラデルフィア海軍造船所に回航され、11月19日から1943年3月20日まで修理が行われた。

1943年 - 1945年

修復なったボイシは6月8日に地中海に向けて出航し、6月21日にアルジェリアアルジェに到着した。7月10日から8月18日までシチリア島上陸作戦において支援艦砲射撃を行う。9月にはイタリア戦線にはせ参じ、ターラント(9月9日、10日)およびサレルノ(9月12日 - 19日)でのイタリア本土上陸を支援した後、11月15日にニューヨークに向けて出航。その後再び南太平洋に向かい、12月31日にニューギニアミルン湾に到着した。

ニューギニアで砲撃中のボイシ

1944年の1月から9月までのボイシは、主にニューギニアの北部海岸沿いでの作戦活動に参加した。その中にはマダンへの砲撃(1月25日、26日)、フンボルト湾上陸(4月22日)、ワクデ島砲撃(4月29日、30日)およびワクデ島上陸(5月15日 - 25日)、ビアク島上陸(5月25日 - 6月10日)、ヌムフォア島英語版上陸(7月1日、2日)、サンサポア岬上陸(7月27日 - 8月31日)、モロタイ島占領(9月1日 - 30日)が含まれる。戦線がフィリピンへ移動するとボイシも北方へ移り、レイテ島上陸(10月20日 - 24日)を支援した。

10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、ボイシはフェニックス (USS Phoenix, CL-46) およびオーストラリア重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) と共にラッセル・S・バーキー英語版少将の第77.3任務群に属し、ジェシー・B・オルデンドルフ少将の第77.2任務群と共同して西村祥治中将率いる艦隊を撃滅した。その後ミンドロ島上陸(12月12日 - 17日)および礼号作戦への迎撃行動(12月26日 - 29日)に従事。1945年に入ってルソン島の戦いではリンガエン湾上陸(1945年1月9日 - 13日)の後31日まで支援活動を行い、さらにダグラス・マッカーサー元帥の「故地」バターン半島コレヒドール島の占領(2月13日 - 17日)、ミンダナオ島サンボアンガ上陸(3月8日 - 12日)に参加した。1945年1月5日にはスリガオ海峡で日本の特殊潜航に雷撃されたが、魚雷は命中しなかった[6]

ボイシは続いてボルネオの戦いに参加し、タラカンの戦い英語版(4月27日 - 5月3日)のためボルネオ島近海に移動した。6月3日から16日までボイシにはマッカーサー元帥が座乗し、中央、南部フィリピンおよびブルネイ湾を合計35,000マイル巡航した。ボイシはサンペドロに向かい、7月7日に到着した。

ボイシはサンペドロに留まり、10月までオーバーホールおよび訓練が行われた。10月3日に東海岸に向けて出航し、10月20日にニューヨークに到着する。ボイシは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。ボイシは大戦終結翌年の1946年7月1日に退役した。

アルゼンチン海軍時代

1951年1月11日、ボイシはアルゼンチンにフェニックスと共に売却され、ヌエベ・デ・フリオNueve de Julio)と改名された(「7月9日」の意。アルゼンチンの独立記念日。)。就役後にオランダ製レーダーの装着とヘリコプター2機の搭載が行われた。ヌエベ・デ・フリオは1955年9月19日、海軍と陸軍によるクーデターマル・デル・プラタの給油施設およびその他の目標に砲撃を行った。ヌエベ・デ・フリオはその後も任務に留まり、1978年に退役。武装撤去後に日本へと曳航されスクラップとして1983年に廃棄された。[7]

脚注

  1. ^ a b c 木俣『日本軽巡戦史』103、104ページ。原典は吉村昭『大本営が震えた日』
  2. ^ ニミッツ、ポッター, 34ページ
  3. ^ a b ポッター, 263ページ
  4. ^ ニミッツ、ポッター, 126ページ
  5. ^ ニミッツ、ポッター, 126、127ページ
  6. ^ 奥本剛、『図説 帝国海軍特殊潜航艇全史』、学習研究社、2005年、134ページ
  7. ^ 近代巡洋艦史(海人社), p. 145

参考文献

  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾共訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 世界の艦船 増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」(海人社)、1993年
  • 「世界の艦船 増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」(海人社)、2001年
  • 「世界の艦船 2010年1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社)

外部リンク