江川芳文
個人情報 | |
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愛称 | YOPS YOPPI |
国籍 | 日本 |
生誕 | 1972年3月20日(52歳) |
居住地 | 日本 アメリカ合衆国 |
家族 | 江川之雲(息子) |
スポーツ | |
国 | 日本 |
競技 | スケートボーディング |
チーム | T19 |
江川 芳文(えがわ よしふみ、1972年〈昭和47年〉3月20日 - )は、日本の俳優、スケートボーダー、デザイナー。YOPS(ヨップス)[1]、YOPPI(ヨッピー)[1]とも表記される。
HECTICディレクター、HombreNiňoディレクター、PLUS L by XLARGEディレクターなどを歴任した。
概要
[編集]子供の頃は俳優として活動していたが[2][3]、10代でプロのスケートボーダーとなり[4]、アメリカ合衆国や日本で活動する[3][5][† 1]。その後、「HECTIC」を起ち上げて裏原宿ブームの立役者となるなど[3][5]、日本のストリートカルチャーを牽引した一人である[3][4][6]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]東京都世田谷区にて育った[3]。幼い頃より俳優として活動していた[2]。1987年(昭和62年)に放送されたテレビドラマ『3年B組金八先生』スペシャル6では主要な役柄を演じており[7][8]、大塚製薬の「ポカリスエット」のコマーシャルにも出演するなど[3]、母校の中学校でも知られた存在であった[2]。雑誌『Fine』ではモデルとしても活動した[4]。
13歳の頃からスケートボーディングを始め[5]、15歳になると原宿の「ストーミー」に毎日のように通い[5]、そこで知り合った仲間たちと日本国外のスケートボーディングの映像を観て楽しんでいた[5]。休日にはストーミーのジャンプランプを原宿の歩行者天国に持ち込んで滑っていた[5]。
スケートボーダーとして
[編集]スケートボードを持参して一人で日本国外を旅し[5]、現地でスポンサーを探していた[2][5]。アメリカ合衆国では、初対面のトミー・ゲレロに「スポンサーミー!」[2]と声をかけ、ゲレロらと親交を深めた[2]。当時はスポンサーがつかないと大会に出場できなかったが[5]、サンノゼスケートボーディングやスランダーにスポンサーとなってもらい大会に出場していた[5]。1989年にはアメリカ合衆国のジョージア州にて「サバンナ・スラマー3」に出場した[2][5]。
また、日本ではスケートボードチーム「T19」に憧れており「ホコ天にいたスケーターからしてみれば、憧れの先輩を通り越して、も〜雲の上の存在。恐れ多くて気軽に話しかけられなかった」[5]という。しかし、T19主宰の大瀧浩史から「ウチにこいよ!」[5]と勧誘されたことから、T19に加入することになった[5]。当時、T19のメンバーの多くはデッキブランドがスポンサーとなっていたが[2]、江川にはデッキブランドのスポンサーがついていなかったため大瀧に相談したところ[2]、大瀧から「ならT-19でデッキ作ろう」[2]と誘われたという。
デザイナーとして
[編集]原宿の歩行者天国で活動していた頃、大川ひとみ[5]、藤原ヒロシ[5]、高橋盾[5]、といったクリエイターらと知り合う。22歳のとき真柄尚武から誘われ[5]、二人でセレクトショップ「HECTIC」を開き[5]、ディレクターとなった[3]。1994年(平成6年)の開店以来[3][9]、アメリカ合衆国のスケートボードコンテストでスケートボーダーやフォロワーたちが着用していそうなアイテムを現地で買い付け[5]、それを日本で販売した[5]。さらにはHECTICとしてのオリジナルブランドも起ち上げることにし[5]、「PKG」や「SEESAW」などを取り扱うようになった[10]。この戦略が当たり、開店前のHECTICには客が長蛇の列を作るようになった[5]。HECTICは1990年代から2000年代にかけての「ファッションシーンの話題を席巻するひとつの社会現象」[5]と評され「“裏原ブーム”の火付け役ともなった伝説的なブランド」[5]と称されるようになった。この頃、HECTICの事務所と「NEIGHBORHOOD」の事務所が同じビルに入居していたことから[3]、NEIGHBORHOODの西山徹と情報交換をしていた[3]。また、中村晋一郎とは音楽や絵画について語ったり[3]、Macintoshの使い方を教わったという[3]。
2008年(平成20年)、HECTICを展開していた「有限会社ヘクティク」から、ワールドにブランドを事業譲渡した[9]。それ以降は、ワールドの下でHECTICのデザインを手掛けていた[4]。2012年(平成24年)、ブランドとしてのHECTICは廃止されることになった。その後、一時的に「Supreme」のスタッフとして店頭に立つことになった[11]。既に著名人であった江川が店頭に立っていたため、Supremeに来店した客らが驚いたという[11]。
2012年(平成24年)からはアパレルブランド「HombreNiňo」を手掛けており[6][11]、ディレクターとなった[4]。スケートボードやBMXを通じて大人と子供が共有できるアイテムを展開している[6]。2015年(平成27年)にはアパレルブランド「PLUS L by XLARGE」を発足させ[6]、ディレクターに就任し[6]、デザインを担当している[4]。
ピストブームの立役者として
[編集]T19の間でピストバイクが流行すると「頭の中が競輪フレームのことしかなかった」[5]という。2000年代に入ると「空前のピストムーブメント」[5]と評されるようになったが、2007年(平成19年)には尾澤彰とともにピストバイク専門店「CARNIVAL TOKYO」を起ち上げるなど[2][12][13]、ピストのカルチャーを広める一翼を担った[3]。ピストバイクは乗ること自体も楽しいが[11]、ギアを選ぶなどさまざまな楽しみがあると指摘しており[11]、「30代中盤を迎えたタイミングでピストに出会えたのは幸運」[11]だったと語る。
人物
[編集]- 愛称
- 『Fine』の取材のため、T19のメンバーと各地のスケートパークを巡っていたところ[4]、全日本スケートボード協会を創設した秋山弘宣から「江川ヨピプピ」と呼ばれるようになる[4]。それ以来「江川ヨピプピ」こと「ヨッピー」と呼ばれるようになった[4]。当初は「YOPPY」[4]と表記されていたが、モデルのYOPPYと区別がつかなくなったことから[4]、江川が「YOPPI」[4]と名乗るようになった。その際、長尾智明が「A BATHING APE」でYOPPYとYOPPIで写真を撮ってくれたという[4]。
- 影響
- 憧れていたスケートボーダーとして、クリスチャン・ホソイ[3]、ジョバンテ・ターナー[3]、マイク・キャロル[3]、といった名を挙げている。なお、『Fine』の取材に同行してホソイの自宅を訪ねことがあり[3]、その際にホソイとビリヤードを楽しんだという[3]。また、衣服の制作に関しては「生産を請け負ってくれていた方が師匠」[3]と述べている。
- 文献渉猟
- 過去のファッション雑誌を参考にするために、PLUS L by XLARGEのスタッフとともに国立国会図書館で過去の文献を閲覧することもある[4]。しかし、HECTICは当時の雑誌に多数登場しており「見るのが恥ずかしいぐらい僕がことごとく出てて、俺祭りみたいになっちゃう」[4]という。
家族・親族
[編集]息子の江川之雲はモデルとして活動している[14]。
戦績
[編集]国内大会
[編集]- 1986年11月 - 東急ハンズCUP「HANDS STREET」オープンストリート4位[15]
- 1987年3月 - 第2回西武ラジカルストリートストリート5位[16]
- 1988年8月 - 第2回HOW日本ランドCUPプロストリート4位[17]
- 1989年9月 - AJSA SKATEBOARD SERIES 4プロミニランプ準優勝[18]
- 1991年8月 - 第11回全日本選手権プロストリート3位[19]
- 1991年11月 - チャンピオンシップス in AME'Sプロストリート3位[20]
- 1992年1月 - 全日本スケートボード選手権第1戦プロストリート5位[21]
- 1992年1月 - 全日本スケートボード選手権第1戦プロミニランプ3位[21]
- 1993年4月 - AJSA SKATEBOARD CIRCUIT第1戦プロストリート6位[22]
- 1994年8月 - AJSA SKATEBOARD CIRCUIT第4戦プロストリート8位[23]
国外大会
[編集]出演
[編集]テレビドラマ
[編集]映画
[編集]- 本場ぢょしこうマニュアル初恋微熱篇(1987年) - 落合雄 役
- ハッピーエンドの物語(1991年) - 木野雄介 役
脚注
[編集]註釈
[編集]- ^ スケートボーディング業界においては、スケートボーディングの選手を「ライダー」と呼称することも多い。しかし、一般の読者が他の競技と混同しかねないため、当記事においてはわかりやすさを優先し、引用部を除き記事本文では「スケートボーダー」と表記した。
出典
[編集]- ^ a b Mizuki Khoury, "T19 -- The OG Tokyo Skate Team", T19 - The OG Tokyo Skate Team — sabukaru, Adrian.
- ^ a b c d e f g h i j k 「東京スケート史に名を残す、三者三様のチーム事情。」『東京スケート史に名を残す、三者三様のチーム事情。 | feature | HOUYHNHNM(フイナム)』Photo by Shin Hamada、Illustration by Sho Miyata、Interview & Text by Yuho Nomura、ライノ。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「PLUS L by XLARGE――江川芳文、43歳。いまさらだけど『服づくり』を語る。」『PLUS L by XLARGE® 江川芳文、43歳。いまさらだけど「服づくり」を語る。』Photo by Hidemasa Miyake、Text by Hiroaki Nagahata、Edit by Hiroshi Yamamoto、ライノ。(1頁目)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「YOSHIFUMI "YOPPI" EGAWA -- HOMBRE NIŇO / DIRECTOR, XLARGE / DESIGNER」『YOSHIFUMI EGAWA|BILLY'S Meet Tokyo Creator VOL.51|BILLY’S ENT 公式通販』Interview by 佐藤敬太、Movie & Still by 五十嵐洸平、Text & Edit by 今野壘、Cooperation by ブルールーム、エービーシーマート。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 「江川“YOPPI”芳文というオトコの半生」『江川“YOPPI”芳文というオトコの半生.スケーター.オンブレ・ニーニョ.スケボー』Written by Hisanori Kato、Red Bull Japan、2017年4月17日。
- ^ a b c d e 「子育てを通してクリエイティビティーも成長した江川“YOPPI”芳文の今を追う!」『子育てを通してクリエイティビティーも成長した江川“YOPPI”芳文の今を追う!.息子.之雲くん』Written by Hisanori Kato、Red Bull Japan、2017年4月17日。
- ^ a b 「スペシャル6《新・十五歳の母》(1987年12月25日)」『金八先生、教師生活32年間の歩み|TBSテレビ:3年B組金八先生ファイナル〜「最後の贈る言葉」4時間SP』TBSテレビ。
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- ^ a b 「詳しすぎる? 裏原系年表」『裏原宿全史|なぜ世界が注目し影響を与えたのか?起源から終焉まで【裏原系ストリートファッションまとめ】 | Qkaku』Qkaku。
- ^ 「90年代の裏原宿と現在を定点観察! 《あんとき》の聖地巡礼ツアー! 【裏原宿】編」『90年代の裏原宿と現在を定点観察!《 あんとき 》の聖地巡礼ツアー! 【 裏原宿 】編 | 《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )』ミミック、2023年4月3日。
- ^ a b c d e f 「PLUS L by XLARGE――江川芳文、43歳。いまさらだけど『服づくり』を語る。」『PLUS L by XLARGE® 江川芳文、43歳。いまさらだけど「服づくり」を語る。』Photo by Hidemasa Miyake、Text by Hiroaki Nagahata、Edit by Hiroshi Yamamoto、ライノ。(2頁目)
- ^ 「MEDORRA――早すぎる感性ととんでもないスケートプロップスを持った尾澤彰氏のメドーラ」『MEDORRA|早すぎる感性ととんでもないスケートプロップスを持った尾澤彰氏のメドーラ | 《 あんときのストリート 》を発掘|MIMIC ( ミミック )』2023年2月22日。
- ^ 「NITTO(ニットー)ドロップハンドルの美しすぎる造形美」『NITTOドロップハンドルの美しすぎる造形美|自転車パーツ連載Vol.5【尾澤 アキラ(スケートボーダー)】』Written by Hisanori Kato、Red Bull Japan、2023年12月1日。
- ^ 「江川親子(芳文&之雲)が世代を超えて語るG-SHOCKストーリー」『江川親子(芳文&之雲) が 世代を超えて語るG-SHOCKストーリー | G-SHOCK 腕時計』カシオ計算機。
- ^ 「1986.11/2 東急ハンズCUP『HANDS STREET』 東急ハンズ町田店屋上」『index1986.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「1987.3/27 第2回西武ラジカルストリート 池袋西武百貨店特設会場(東京)」『index1988.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「1988.8/27-28 第2回HOW日本ランドCUP 日本ランド特設会場(静岡)」『index1988.html』日本スケートボード協会。
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- ^ 「1991.8/10-11 第11回全日本選手権 平塚ビーチパーク(神奈川湘南)」『index1991.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「1991.11/3-4 チャンピオンシップス in AME'S AIM'S(東京都江東区)」『index1991.html』日本スケートボード協会。
- ^ a b 「1992.1/19 全日本スケートボード選手権-第1戦 AIM'S(東京都江東区)『index1992.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「1993.4/25 AJSA SKATEBOARD CIRCUIT第1戦 ハノーバー庭園(広島)」『index1993.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「1994.8/20-21 AJSA SKATEBOARD CIRCUIT第4戦 TRANPACK CUP in 仙台 仙台市台原森林公園(宮城県)」『index1994.html』日本スケートボード協会。
- ^ 「T19初のプロライダーにして、スケートを取り巻くさまざまなカルチャーに精通した最重要人物。'90年代初頭に東京のスケートシーンを牽引し、海外のコンテストで好成績を残したパイオニア。日本のスケート史はこの人なくして語れない。」『[VOICE OF FREEDOM] AKIRA OZAWA / 尾澤 彰 | VHSMAG』photo by Iseki、Archive photos courtesy of Akira Ozawa、VHSMAG、2021年9月2日。
関連人物
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Yoshifumi"YOPPI" Egawa (@yoshifumiegawa) - Instagram
- 江川芳文 - オリコン
- 江川芳文 - KINENOTE
- 江川芳文 - allcinema
- 江川芳文 - テレビドラマデータベース
- 江川芳文 - 映画.com
- 江川芳文 - 日本映画製作者連盟
- T19 "The Presence" (Yoshifumi Egawa) - YouTube(江川の登場するムービー)
- YOSHIFUMI EGAWA [VHSMAG] - YouTube(江川へのインタビュー)
- BILLY'S Meets Tokyo Creator Vol.51 江川芳文 Hombre Niñoディレクター/XLARGEデザイナー - YouTube(江川へのインタビュー)
- 西山徹 x 藤原ヒロシ x 江川芳文|Nike x FPAR® Blazer Low 発売記念対談・鼎談(1/2) - YouTube(江川らの対談)
- 西山徹 x 藤原ヒロシ x 江川芳文|Nike x FPAR® Blazer Low 発売記念対談・鼎談(2/2) - YouTube(江川らの対談)