横山久太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
よこやま きゅうたろう

横山 久太郎
生誕 1856年11月7日安政3年10月10日
日本の旗 遠江国
死没 1922年大正11年)3月3日
墓地 海晏寺(東京都品川区)
職業 釜石鉱山田中製鉄所初代所長
三陸汽船社長
任期 貴族院議員 1918年9月 - 1919年4月
配偶者 モト(茂登子、田中長兵衛二女)
子供 横山長次郎(長男)
横山虎雄(養子)
親戚 二代目・田中長兵衛(義兄)
吉田長三郎(義弟)
中大路氏道(姪の夫)
栄誉 緑綬褒章(1910年)
テンプレートを表示

横山 久太郎(よこやま きゅうたろう)は、明治期に日本近代製鉄の礎を築いた釜石鉱山田中製鉄所(新日鉄釜石)の初代所長。その熱意をもって主人・田中長兵衛を動かし、製鉄所の立ち上げに尽力。所長に任じられると32年の長きにわたってその職を全うした[1]

生涯[編集]

1856年(安政3年)遠江国山名郡[注 1]久努村大字村松[2](現在の静岡県袋井市村松)の横山源七郎とゆみの間に五男[3][注 2]として生まれた。家は代々農家の傍ら畳の仲買も行っていた。

7歳で父を亡くすと本家に財を奪われて家業を継げず、母の実家である樺原郡御前崎村の松林久左衛門に養われた。9歳の時に豊田郡野邊村の住職・富山和尚[2]の学僕となる。ここで読書や習字などを学んでいたが、12歳の頃に実業で身を立てることを決意。母と和尚の許しをもらい、13歳の年の10月、同郡中泉村の老舗金物商[2]・山田孫次郎商店で丁稚奉公を始めた。ここに長く勤めたが、主人が家業を疎かにした為[注 3]に次第と店は傾き、奉公を始めて8年も経つ頃には店の借金は二千五百円に達し、もはや身動きできない状況になっていた。主人の困難を座視するに忍びなしと退店した久太郎はその後一時灯台守となるが、やはり商人になりたいとの思いから東京の田中商店で働いていた義兄[注 4]を頼って上京[5]。明治8年(1875年)より同郷でもある田中長兵衛の店で義兄と共に働き始めた。久太郎の勤勉さは長兵衛に認められ、わずか3年後の明治11年(1878年)には横須賀支店の支配人に抜擢[注 5]。さらには長兵衛の次女・茂登子(モト)を嫁にもらうなど大きな信頼を得た。久太郎はこの横須賀支店時代に造船材料の輸入などに携わっており、日本国内での製鉄の重要性を大いに感じている。

明治16年(1883年)岩手県釜石で外国製高炉に外国人技術者、そして莫大な公費を注ぎ込んだ日本初の官営製鉄所が失敗に終わる。政府は設備等を安価で払い下げることとし、渋沢栄一は汽船、藤田伝三郎は鉄道レールやその付属品と次々に手を上げる者が現れた[9]。しかし、日本有数の大資本家である彼らですら製鉄所そのものの払い下げには手を上げなかった[注 6]中で、当時まだ小資本家でしかなかった田中長兵衛があえて乗り出した背景には長男の安太郎、そして横山久太郎の製鉄事業に対する熱意と粘り強い嘆願があった。久太郎は主人・長兵衛より総責任者に任命され釜石へと向かった。

釜石に腰を据えた久太郎は、官営時の技術者である高橋亦助またすけを高炉操業主任、村井源兵衛[注 7]を機械設備主任として雇い、2基の小型高炉を作製すると、明治18年(1885年)1月より挑戦を開始した。その苦闘は2年近くにわたり、度重なる失敗と資金難に悩まされながらも最後まで諦めなかった高橋亦助の功績もあり、明治19年(1886年)10月16日、49回目の挑戦でついに銑鉄の連続生産に成功した。釜石鉱山田中製鉄所(現新日鐵住金釜石製鐵所)の設立後はその初代所長の任を受け、日本の近代製鉄の基礎を築いた。

明治29年(1896年)6月15日、いわゆる明治三陸地震による大津波が三陸海岸一帯を襲った。場所によっては海抜45m地点まで到達したとも言われる津波の前に多くの家屋が流失または倒壊。釜石は沿岸で最も被害の大きかった地域で、人口6,528人中4,041人が亡くなった。田中製鉄所でも160名以上が亡くなるなど甚大な被害が出たが、所長・久太郎の指示により精錬場を救護所として開放。かがり火を焚いて漂流者の目印とし、炊き出しが行われた[15]

明治34年(1901年)に田中長兵衛が亡くなり、その息子・安太郎が長兵衛の名と社長職を継いだ後も、釜石を守り二代目を盛り立てた。そして製鉄に力を注ぐ傍ら、明治41年(1908年)には当時物流上孤立していた三陸沿岸地方での三陸汽船立ち上げに伴い、地元の人々に乞われてその代表に就いている。また明治44年(1911年)には岩手軽便鉄道の設立に関わり筆頭株主[16]を引き受け、大正元年(1912年)には釜石電燈株式会社の設立に伴い取締役に就任[17]

大正7年(1918年)には岩手県多額納税者として貴族院議員互選された[注 8]久太郎だが、その生活は極めて質素なものだった。この年は世界中でスペイン風邪が猛威を振るい、栗林の分工場でも患者続出で一週間の閉鎖。11月には製鉄所立ち上げ前の厳しい時期から30年以上にわたり横山を補佐、栗橋分工場長を務めていた高橋亦助もこれに感染、急逝した。製鉄一筋、長年共に打ち込んできた久太郎はこの死を聞いてひどく取り乱したという[19]。同年12月に療養のため東京へ移り、翌年大正8年(1919年)4月には所長を辞任。技師長だった中大路氏道が次の所長を務めた。

実直で現場を重んじ、体調を崩した後は「釜石の土になる」が口癖だったが、大正11年(1922年)3月3日、療養していた東京浅間台の別邸にて65歳でこの世を去る。二代目・田中長兵衛と田中鉱山株式会社は社葬[注 9]をもってその長年の功績に報いた。

久太郎は東京品川の海晏寺に葬られたが、高橋亦助の墓があり、釜石大観音で知られる石応禅寺にも遺髪と歯が収められ、墓碑が存在する[20]。また、その事績を称えて初代・長兵衛と横山久太郎の立像が釜石鈴子の公園内に建てられた[21][22]第二次大戦時に供出されたが、戦後再建。現在[23]は製鉄所の敷地内に2人の半身像が並び立っている。

逸話[編集]

久太郎の質素さは釜石で誰一人知らぬ者がないほど有名であったが、東京出張用の背広だけは銀座の山崎で仕立てた一級品だった。ある時、6人の子持ちで古着も買えない職員がその窮状を話したところ、自身の中古ではあるが一級品のその背広を与えられ、職員は「恩寵の上衣」だと周囲に自慢したという。

また1909年(明治42年)頃、内務省が勤労と貯蓄の奨励運動のため、当時有名だった金森通倫を釜石に派遣した時のこと。鈴子駅で町長らに出迎えられた金森は、油浸みた詰襟服に古靴を履いた猫背の好々爺に「製鉄所の所長さんは来られてませんか?」と尋ねたところ「その方が横山所長さんです」と町長が慌てて紹介し、金森も恐縮したという話が残っている[24]

家族・親族[編集]

妻のモト(1863年生)は田中長兵衛の二女[25]。長男の長次郎(1880-1946年)は横須賀で生まれ1902年に慶応義塾大学理財科を卒業。ハーバード大学へ留学し冶金学などを学ぶと、帰国後は父が所長を務める田中製鉄所で事務長職に就いた。日露戦争後の不況の際にはアメリカへ出張して海外販路の開拓も行った[26]

その後長次郎は製鉄の道から離れ、1916年(大正5年)に参松合資会社を設立[27]。日本で初めて酸糖化法によるブドウ糖生産の事業化に成功した。1919年(大正8年)からは体調の悪化した父に代わって三陸汽船の代表も兼任[28]している。

長次郎の妻、勝(1890年生)は慶應義塾長小泉信吉の娘で小泉信三の妹[25]。勝の姉・千(1886年生)は戦後憲法草案を作成したことで知られる法学者・松本烝治[注 10]の妻。勝の妹・ノブ(1894年生)は第一銀行第二代頭取・佐々木勇之助の次男で第一銀行副支配人、佐々木脩次郞[30]の妻。

婿養子の虎雄(1889年生)は六代・渋沢宗助の三男[31]で作家・澁澤龍彦の叔父。東京帝大建築科を卒業し、釜石鉱山田中製鉄所の第3代所長を務めた後に横山建築事務所を開く。関東大震災で倒壊した横浜市南区の西教寺本堂や、渋沢家の郷里である埼玉県深谷市血洗島の諏訪神社拝殿などを設計した[32]。長次郎は妻・勝が早世した後に美澤花(1891年生)[注 11]と再婚したが、子が出来なかったため叔父に当たる吉田長三郎[注 12]の五男・康吉(1913年生)が養子[35]となり家督を継いだ。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1896年(明治29年)に山名郡は新制・磐田郡の一部となる。
  2. ^ 堀内正名 著「横山久太郎:近代日本鉄鋼業の始祖」(1957年)によれば長男[4]
  3. ^ 疲弊していた分家の救済を続けた為とも言われる[5]
  4. ^ 横山政次郎[6]か。後に養子の横山金治[7]が田中鉱山(株)の監査役に就任している。
  5. ^ 横須賀支店の頃と思われる若き日の横山久太郎が和服姿で写っている写真が残っている[8]
  6. ^ 渋沢栄一は浅野財閥の浅野総一郎が釜石製鉄所払い下げの件で相談しに来た際、損をすることになるのでと諦めさせている[10][11]
  7. ^ 釜石製鐵所山神社の扁額にある年月日の文字は源兵衛によるもの。鋳物の腕は名人級であった。その息子・信平は東京高等工業学校[12][13]を出ると父と同じく釜石製鉄所で長く働き、後に横山康吉の依頼で「田中時代の零れ話」[14]を著した。
  8. ^ 大正7年(1918年)9月29日から大正8年(1919年)4月9日まで在任[18]
  9. ^ 3月6日、芝区車町45番地の横山家本邸で営まれた[20]
  10. ^ 欧州留学でベルリンにいた1906(明治39)年の秋、横山長次郎が従兄弟の田中長一郎と共に松本烝治のもとを訪れている[29]
  11. ^ 花の父はY校で知られる横浜商法学校の初代校長・美澤進。妹・ミツは神奈川大学の工学部教授で参松工業(株)の監査役も務めた小坂狷二[33]の妻。
  12. ^ 初代・田中長兵衛の三男[34]

出典[編集]

  1. ^ 釜石製鉄所・初代所長 横山久太郎袋井市教育委員会
  2. ^ a b c 真道会 1943, p. 2.
  3. ^ 横山久太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 堀内 1957, p. 2.
  5. ^ a b 実業 1911.
  6. ^ 『日本紳士録 第1版』 p.232 交詢社、1889年
  7. ^ 『人事興信録 6版』 よ之部 p.17 (横山金治の項) 人事興信所、1921年
  8. ^ 『鉄鋼界 26(6)』 p.39 日本鉄鋼連盟、1976年6月
  9. ^ 堀内 1957, p. 11.
  10. ^ 富士製鉄 1955, p. 42.
  11. ^ 『渋沢栄一全集 第5巻』 p.459-462 平凡社、1930年
  12. ^ 郡正一 編『蔵前校友誌』蔵前校友誌編纂所、1962年12月、ムの部 3頁。NDLJP:1020829/293 
  13. ^ 『蔵前工業会誌』568号、蔵前工業会、1962年12月、47頁。NDLJP:1805593/25 
  14. ^ 『田中時代の零れ話』村井信平 著、1955年10月
  15. ^ 『かまいし千夜一夜 : 企業城下町物語』 p.76 岩手東海新聞社、1984年
  16. ^ 帝国興信所 編『帝国銀行会社要録:附・職員録』(大正元年・初版)、1912年、岩手県 3頁。NDLJP:974389/580 
  17. ^ 商業興信所 編『日本全国諸会社役員録』(第21回)、1913年、下編 667頁。NDLJP:936465/919 
  18. ^ 『貴族院要覽 昭和21年12月増訂 丙』 p.28 貴族院事務局 1947年4月発行
  19. ^ 堀内 1957, p. 41-42.
  20. ^ a b 堀内 1957, p. 45.
  21. ^ 『横山久太郎翁伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 『横山久太郎翁伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  23. ^ 2008年9月現在。
  24. ^ 『かまいし千夜一夜 : 企業城下町物語』 p.119 岩手東海新聞社、1984年
  25. ^ a b 横山久太郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  26. ^ 『日本鉱業会誌 23 (270)』 資源・素材学会 1907年8月
  27. ^ 『帝国銀行会社要録 : 附・職員録 大正5年(5版)』 p.237 帝国興信所、1916年
  28. ^ 『官報 1919年10月24日』 第2167号
  29. ^ 松本烝治関係文書目録” (PDF). 国立国会図書館憲政資料室. p. 5/101. 2023年2月24日閲覧。
  30. ^ 『人事興信録 第8版』 [昭和3(1928)年7月]
  31. ^ 横山虎雄『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  32. ^ ヘリテイジスタイル2021 秋号” (PDF). 公益社団法人横浜歴史資産調査会. p. 3. 2023年3月16日閲覧。
  33. ^ 『人事興信録 第19版 上』 こ之部 p.8、1957年
  34. ^ 『大衆人事録 (全国篇) 12版』 p.730、1937年
  35. ^ 『人事興信録 昭和9年版』 ヨ之部 p.12 (横山長次郎の項) 人事興信所、1934 年

参考文献[編集]

  • 大日本實業學會 編『実業の日本 14(1)』実業之日本社、1911年1月。 NCID AN00320745 
  • 釜石製鉄所産業報国真道会 編『横山久太郎翁伝』1943年10月。 (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 『釜石製鉄所七十年史』富士製鉄株式会社釜石製鉄所、1955年。 NCID BN05767130 
  • 岡田益吉 『東北開発夜話』第2巻 河北新報社、金港堂出版(1977年再刊)。
  • 堀内正名『横山久太郎 : 近代日本鉄鋼業の始祖』岩手東海新聞社、1957年。 NCID BA73996297 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]