岩手軽便鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
岩手軽便鉄道
路線地図
1925年時点
路線範囲 岩手県
運行 1913年–1936年
後継 鉄道省国鉄を経て
JR東日本釜石線
軌間 762 mm
全長 65.4 km
テンプレートを表示
岩手軽便鉄道

1936年国有化直前を示す
*: 国有化と同時に廃止


extSTR
国有化後の開業区間

uSTR
花巻電気鉛線
uSTR STR
花巻電気花巻温泉線
umABZrg HSTq STRrf
電鉄花巻駅
uHST
西花巻駅
umKRZo BHFq
0.0 花巻駅
uSTR extSTR
東北本線
KBHFr extSTR
0.0 花巻 (軽鉄花巻)
STR extSTR
=中央花巻
BHF extSTR
0.6 鳥谷ヶ崎
STR2
extSTR3
STRc1
extSTRc4
BHF
3.7 似内
WBRÜCKE
北上川橋梁 238m
BHF
6.0 矢沢
BHF
8.4 小山田
BHF
12.8 土沢
BHF
16.0 晴山
eHST
17.8 淵ノ欠(臨) -1925
BHF
21.8 岩根橋
BHF
25.2 宮守
BHF
31.3 柏木平
BHF
33.8 鱒沢
DST
35.5 中鱒沢*
BHF
36.5 荒谷前
BHF
39.5 岩手二日町
BHF
41.1 綾織
BHF
46.1 遠野
BHF
49.3 青笹
eBHF
51.9 青笹(臨) 1914
BHF
52.2 関口
eBHF
52.7 赤川 -1927
BHF
54.4 岩手上郷岩手上郷
BHF
56.6 平倉
BHF
61.5 足ヶ瀬
extKRW+l
extLSTR eBHF
[注 1] 日ノ出 -1916年
BHF
65.4
0.0
仙人峠 -1950
extLSTR
extSTRlf eKRZt extSTRlg
KBHFe extSTR
3.6 大橋
KBHFa extHST
陸中大橋
STR
釜石鉱山鉄道

岩手軽便鉄道(いわてけいべんてつどう)は、後のJR東日本釜石線に相当する路線を運行していた、かつて岩手県に存在した鉄道事業者である。

歴史[編集]

岩手県では、北上川沿いに日本鉄道線(現在の東北本線)が最初に開通した。これに対して三陸海岸側への鉄道の開通は大きく遅れることになり、長らく海岸と内陸の連絡は青森県宮城県へ一旦鉄道で移動して海路を利用していた。1911年(明治44年)に当時の岩手県知事の岩井信一が、重要な製鉄所のある釜石への鉄道連絡を確立するため、県営鉄道の建設も視野に入れて調査を行わせたが、財政難から実現しなかった。しかしこれに呼応して民間で岩手軽便鉄道の構想が動き出すことになった。同年6月13日、岩手県稗貫郡花巻町(後の花巻市) - 上閉伊郡遠野町(後の遠野市) - 同郡上郷村沓掛(後の遠野市)間64.8kmの鉄道敷設の申請を行い、7月5日[1]に早くも免許が交付されると、10月12日[2]に資本金100万円で会社が設立された。本社は花巻町に置かれ、初代社長は金田一勝定盛岡銀行頭取[3]、筆頭株主は横山久太郎釜石製鉄所長)。宮沢賢治の母方の祖父も株主として出資していた[4]。株主の大半は沿線住民であった。

1912年(大正元年)9月[5]に路線の建設工事が両端から開始された。花巻を出てしばらくのところで北上川を横断する北上川橋梁 (238m) は、当初は木製の予定であったが岩手県が3万円の補助金を支出して鉄製に改められた。その後も引き続き岩手県が補助金を投入して支援をしている。1913年(大正2年)10月25日[5]に最初の開業区間が花巻から土沢まで12.7kmが開通した[6]。残りの区間の建設工事もかなり進捗していたが、8月27日[5]に集中豪雨で完成した線路などが流失する被害を受けて、以後は部分開業を徐々に繰り返すことになった。これにより終点側での区間開業を行っており、一時期西線と東線で分離して運行していた。1914年(大正3年)4月16日[7][5]に土沢 - 晴山間3.2kmが延伸開通した。続いて1914年(大正3年)4月18日[8][5]にもっとも終点側の遠野 - 仙人峠間19.3kmが東線として開通した。ただし早瀬川第一橋梁完成まで仮橋経由で運行したため貨物営業のみで、旅客営業を開始したのは同年5月19日[9][5]となっている。さらに同年12月15日[10][5]、西線の晴山 - 岩根橋間5.8kmと東線の鱒沢(後に貨物駅の中鱒沢駅[11]となり国有化時に廃止) - 遠野間10.6kmが同時に延伸開業し、1915年(大正4年)7月30日[12][5]に東線の柏木平 - 鱒沢間4.2kmが延伸した。同年11月23日[13][5]、最後の岩根橋 - 柏木平間9.5kmが開通して、花巻 - 仙人峠間65.3kmが全通した。宮守トンネル (322m)、鱒沢トンネル (302m) の2箇所が難工事であったため、この区間が最後となった。

こうして花巻から仙人峠までが762mm軌間の軽便鉄道で結ばれた。また仙人峠駅から直線距離で4kmほどのところにある大橋までは釜石から既に1911年(明治44年)11月3日に釜石鉱山鉄道が開通していた。これにより、中間の徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。しかし標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅の間の標高差は大きく、さらに間に標高887mの仙人峠があることから、この間を直接鉄道で結ぶことができなかった。

代わりに岩手軽便鉄道では、この間を結ぶ貨物用の索道(ロープウェイ)を建設、1914年(大正3年)4月5日[5]開通させた。これは仙人峠まで鉄道が開通する13日前である。索道は玉村工務所製の単線循環式のもので、全長3.6km、ワイヤー径23mm、支柱30本、搬器約70個で、当初は仙人峠駅構内に設置した70馬力発動機で駆動しており、仙人峠から大橋へは100t、大橋から仙人峠へは40tの輸送能力があった。1923年(大正12年)8月に傍系の盛岡電気工業(後の東北配電東北電力))が釜石方面への電力事業を開始したのに合わせて電動機駆動に更新されている。この索道では貨物・郵便物・新聞などが輸送された。

一方旅客は、仙人峠を歩いて越えていた。仙人峠駅からは峠まで2.1kmを上がり、そこから九十九折の急坂を大橋駅まで3.4kmの、あわせて2時間半から3時間かかる道のりであった。また個人営業の駕籠の便もあったが、花巻 - 仙人峠間の特等運賃1円71銭よりも高い2円50銭を徴収していたとの記録がある。さらに駕篭かきの客に対する態度が悪く、悪評が新聞で叩かれるなどしたが、この区間の鉄道連絡が完成するまで駕籠の運営は続けられた。

仙人峠 - 大橋間を結ぶ鉄道を建設する動きは1920年代頃から見られるようになった。時の内閣総理大臣は岩手県出身の原敬であったが、同じ岩手県の山田線の建設には積極的に取り組んだことに対して、政治的な理由で仙人峠の鉄道に関しては冷淡な態度を取った。この頃、会社は国鉄に依頼して建設ルートの試算を行っている。それによれば、足ヶ瀬 - 仙人峠間の花巻起点39マイル58チェーン地点に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下をトンネルでくぐって東側でループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置してその先で大きく南へカーブを描き、釜石鉱山鉄道に沿って南東へ向かい、唄貝駅で釜石鉱山鉄道へ合流する7マイル24チェーンの路線が検討されている。軌間1,067mm、最急勾配40パーミル、電気動力の前提で、建設費300万円と試算された。しかしこの額は、岩手軽便鉄道には到底出せるものではなかった。

1925年(大正14年)に岩手軽便鉄道の取締役であった瀬川弥右衛門が貴族院議員に選ばれ、仙人峠の連絡鉄道の国鉄による建設を請願するだけではなく、岩手軽便鉄道全体の国有化の運動も始められた。加えて、当時当社を率いた金田一国士(勝定の養子)は、金田一財閥の拡張策で逼迫した資金を国による買収金で好転させるため、国有化に向けた政界工作を活発化させた[14]。これらの結果、1927年(昭和2年)第52回帝国議会で鉄道敷設法別表に花巻 - 遠野 - 釜石間の鉄道が追加されて予定線となり、さらに1929年(昭和4年)第56回帝国議会で建設線へ昇格した。続いて1936年(昭和11年)3代目社長の三鬼鑑太郎が買収論を掲げて代議士に当選し、第69回帝国議会で岩手軽便鉄道の国有化が決定され、169万5425円で買収されて同年8月1日に国鉄釜石線となった。仙人峠の索道もまた国鉄の経営するところとなった。これは国鉄史上唯一の索道[注 2]である。

国有化後は第二次世界大戦中の中断をはさみながら762mm軌間の1,067mm軌間への改軌が進められ、さらに仙人峠を越える鉄道の建設が行われて[注 3]、1950年(昭和25年)10月10日に花巻 - 釜石間が全通している。

年表[編集]

  • 1911年(明治44年)
    • 6月13日 免許申請
    • 7月5日 免許交付[1]
    • 10月12日 会社設立[2]
  • 1912年(大正元年)
    • 8月1日 仙人峠索道仙人峠 - 大橋間3.6km免許取得
    • 9月 路線建設工事着工
  • 1913年(大正2年)
    • 8月27日 集中豪雨により敷設済み線路などが流失
    • 10月25日 花巻 - 土沢間12.7km開通、花巻駅・矢沢停留場・幸田停留場・土沢駅開設[6]
    • 12月25日 似内停留場開設[15]
  • 1914年(大正3年)
    • 4月5日 仙人峠索道仙人峠 - 大橋間3.6km開通
    • 4月6日 幸田停留場が幸田停車場へ昇格
    • 4月16日 土沢 - 晴山間3.2km開通、晴山駅開設[7]
    • 4月18日 遠野 - 仙人峠間19.3km開通、貨物営業のみ、遠野駅・上郷駅・足ヶ瀬給水所・仙人峠駅開設[8]
    • 5月16日 日ノ出臨時停留場開設
    • 5月19日 遠野 - 仙人峠間旅客営業開始[9]
    • 10月14日 青笹臨時停留場開設
    • 10月25日 足ヶ瀬給水所が足ヶ瀬信号所へ変更
    • 10月26日 青笹臨時停留場廃止
    • 12月15日 晴山 - 岩根橋間5.8km、鱒沢 - 遠野間10.6km開通、岩根橋駅・鱒沢駅・二日町停留場・綾織駅開設[10]
  • 1915年(大正4年)
    • 4月10日 鳥谷ヶ崎停留場開設[16]
    • 5月1日 赤川停留場開設[17]
    • 7月30日 柏木平 - 鱒沢間4.2km開通、宇洞駅・柏木平駅開設[12]
    • 8月21日 淵ノ欠臨時停留場開設
    • 9月1日 青笹停留場開設[18](1914年の臨時停留場とは場所が異なる)
    • 11月23日 岩根橋 - 柏木平9.5km開通、花巻 - 仙人峠間全通、宮守駅・平倉停留場開設、幸田を小山田へ改称[13]、足ヶ瀬信号所を足ヶ瀬停車場へ昇格
  • 1916年(大正5年)
    • 2月10日 上郷を岩手上郷へ改称[19]
    • 2月25日 二日町停留場が二日町停車場へ昇格
    • 5月18日 日ノ出臨時停留場廃止
  • 1917年(大正6年)6月15日 赤川停留場休止
  • 1921年(大正10年)3月11日 鳥谷ヶ崎停留場移転
  • 1923年(大正12年)8月 索道の発動機を電動機に更新
  • 1924年(大正13年)
    • 8月29日 淵ノ欠臨時停留場休止
    • 12月16日 荒谷前駅開設、宇洞を鱒沢へ改称[11]

、二日町を岩手二日町へ改称[20]

  • 1925年(大正14年)2月20日 淵ノ欠臨時停留場廃止
  • 1926年(大正15年)8月15日 関口停留場開設[21]
  • 1927年(昭和2年)12月13日 赤川停留場廃止
  • 1927年(昭和2年) 花巻 - 遠野 - 釜石間が鉄道敷設法の予定線となる
  • 1928年(昭和3年)6月1日 中鱒沢駅廃止
  • 1929年(昭和4年) 花巻 - 遠野 - 釜石間が建設線へ昇格
  • 1930年(昭和5年)7月16日 中鱒沢駅開設(1928年廃止の駅とは場所が異なる)、貨物駅
  • 1936年(昭和11年)
    • 3月25日 平倉停留場が平倉停車場へ昇格
    • 8月1日 国有化、国鉄釜石線となる

路線データ[編集]

  • 路線距離:花巻 - 仙人峠間 65.4km
  • 駅数:22駅(全通時)、24駅(国有化直前、貨物駅、臨時停留場を含む)
  • 軌間:762mm
  • 複線区間:なし
  • 電化区間:なし
  • 動力:蒸気
  • 最急勾配:25パーミル
  • 最小曲線半径:120m

車両[編集]

蒸気機関車[編集]

岩手軽便鉄道では蒸気機関車を合計で10両所有していた。

1号から6号の6両は、南満州鉄道から購入したボールドウィン・ロコモティブ・ワークス製の13t級C形サイドタンク機関車である。もともとは京釜鉄道速成線用として1904年2月から4月にかけて100-129の30両[注 4]が製造され、同鉄道の建設計画変更により日本陸軍臨時軍用鉄道監理部麾下の臨時鉄道大隊の手で日露戦争のために建設され、1905年に完成した安東県沙河鎮 - 下馬塘間110マイルを皮切りに、安東から奉天まで建設された第4軍用鉄道安奉線(後の瀋丹線)で運用されたが、戦後の1907年4月1日の南満州鉄道への移管後に、標準軌へ改軌された際に不要となって売却[注 5]され、岩手軽便鉄道へ来たもの[注 6]である。満鉄時代の番号は1号、13号、15号、17号、39号、2号で、岩手軽便鉄道ではこの順に1号から6号となった。一時期盛岡電気工業(花巻電鉄)の電気工事遅れによる電車運転不能を救済するために客車と一緒に貸し出されていた車両もある。国有化後はケ231形のケ231 - ケ236になった。

7号と8号は1916年(大正5年)大日本軌道鉄工部製、9号は1919年(大正8年)雨宮製作所製のほぼ同形式のC形機関車であるが、国有化時には形式が分けられてケ237形ケ237・ケ238とケ239形となった。

11号は1913年(大正2年)オーレンシュタイン・ウント・コッペル製の9t級B形ウェルタンク機関車で、1915年(大正4年)に東京電気(後の東芝)から購入した。入換専用に用いられ、国有化時にケ92形となった。

これらの機関車は、11号以外は国有化後の改軌が完了した時点で全車廃車となった。11号(ケ92形)は、1937年(昭和12年)4月に松浦線へ転属し、さらに工事用機関車として車蒸84号に改称されて北海道や大阪で使用されて1958年(昭和33年)7月1日に廃車された。

客車[編集]

遠野駅にて停車中の並等の客車

客車は全部で25両を使用していた。記号としては、特等の客車がイ、並等の客車がロ、荷物車がニ、郵便車がユであった。このうち、特等は1934年(昭和9年)12月13日の届出により廃止され、並等に編入されている。

開業時に導入されたのが大日本軌道鉄工部製造のイロ1-3とロ4-10で、種類によらず番号を連続して振っていた。後に種類ごとに番号を振ることになり、1917年(大正6年)にロ8-10がロ1-3へ繰り上げられた。イロ1-3は後にイロ10-12へ改番され、さらに特等廃止時にロ10-12になった。

続いて、1918年(大正7年)8月22日認可で名古屋電車製作所製造のロニ20-23が導入された。また1919年(大正8年)に魚沼鉄道から1894年(明治27年)平岡工場製のロ30-33、イ40、ニ50を導入した。これは元々青梅鉄道が導入したもので、魚沼鉄道が路線延長時の増備用にあらかじめ購入したが、1,067mmへの改軌が決まったため実際に魚沼鉄道で使用されることなく岩手軽便鉄道へ流れてきたものである。イ40は特等廃止時にロ40となった。

最後に増備されたのが1927年(昭和2年)3月5日認可の日本車輌製造支店製造のロニ24・25と、同年9月15日認可の名古屋電車製作所製ユ80-82である。

これらの25両の車両はすべて国有化時に国鉄へ引き継がれ、改軌が完了するまで使用された。

貨車[編集]

貨車は大半が1913年(大正2年)から1914年(大正4年)にかけて大日本軌道鉄工部で製造された。国鉄に引き継いだのは有蓋車35両、無蓋車75両で、改軌完了後大半がアメリカ軍によって韓国へ持ち込まれている。朝鮮戦争の軍事輸送[注 7]に使用されたものと考えられている。

車両数の推移[編集]

年度 機関車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1913 2 4 3 16
1914 5 10 15 40
1915 7 10 15 60
1916-1917 9 10 25 60
1918 9 14 25 100
1919 10 20 25 100
1920-1927 10 20 35 90
1928-1935 10 25 35 75

運行[編集]

1913年花巻 - 土沢間開業時点
  • 全線2往復
  • 所要43分
  • 運賃並等23銭
1934年11月1日ダイヤ改正時点
  • 全線2往復、花巻 - 遠野間区間列車2往復半、花巻 - 晴山間区間列車1往復
  • 全線所要 4時間15分(下り)、3時間40分(上り)
  • 全線運賃並等1円14銭、特等1円71銭

輸送・収支実績[編集]

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1913 18,723 2,732 7,632 6,808 824 索道681
1914 101,195 19,719 37,024 37,152 ▲ 128 索道3,489
重役退職慰労金1,000
4,955 32,632
1915 142,956 32,792 75,599 65,928 9,671 索道3,005 23,320 48,483
1916 177,527 43,822 132,806 86,938 45,868 索道1,756 35,240 60,218
1917 250,243 53,677 155,341 101,224 54,117 索道4,420雑損117 34,047 39,439
1918 320,344 53,300 218,530 150,536 67,994 索道777 29,408 12,381
1919 347,475 63,240 300,778 203,563 97,215 索道4,562 5638政府補助返納金110 27,673
1920 331,655 70,456 362,620 267,312 95,308 積立金繰入10,000 索道1,799 26,796
1921 325,203 59,810 363,658 253,199 110,459
1922 339,142 58,948 377,807 245,608 132,199
1923 353,976 66,437 418,695 255,472 163,223 索道7,229 21,098 2,209
1924 361,578 63,752 418,195 254,271 163,924 索道6,583 政府補助金返納2 21,995 5,183
1925 372,057 60,028 412,887 255,831 157,056 索道11,365
準備金繰入15,000
21,865 6,842
1926 390,242 57,348 410,045 259,355 150,690 索道11,516 雑損4491 16,326
1927 400,796 57,688 399,145 252,154 146,991 索道7,882 16,562
1928 383,269 61,368 399,073 248,091 150,982 索道2,660 23,400
1929 384,165 54,018 375,349 226,919 148,430 索道707
準備繰入22,147
雑損その他22,554 23,400
1930 302,457 37,147 280,673 195,908 84,765 雑損6,756索道9,264 23,374
1931 312,394 36,966 238,512 158,750 79,762 雑損7,349
索道自動車15,562
21,847
1932 197,856 38,772 223,397 154,270 69,127 雑損18,527
自動車運送7,481
22,774
1933 284,137 39,691 238,085 176,770 61,315 索道自動車13,258 24,018
1934 286,441 46,151 246,281 181,215 65,066 雑損29,395
索道自動車15,087
22,811
1935 265,145 38,183 234,582 182,553 52,029 索道その他15,749 22,323
1936 70,215 10,270 66,733 112,058 ▲ 45,325 自動車その他5,233
預金売却差損金24,117
7,229
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

駅一覧[編集]

国有化した1936年時点を基準に、それ以前の廃止駅はカッコ内に示す。これ以前に改称している駅も多数ある。

淵ノ欠、日ノ出は臨時停留場。花巻駅は国鉄の花巻駅の前にあった。

接続路線[編集]

小説[編集]

一般に、宮沢賢治の小説「銀河鉄道の夜」は、岩手軽便鉄道の沿線風景をモチーフにしたとされている[22]

脚注[編集]

注釈[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 日ノ出臨時停留場は平倉から2.9 マイル、仙人峠まで0.1 マイルと記録されているが、これは平倉 - 仙人峠間の距離と矛盾している
  2. ^ 恒久施設としての営業路線としては唯一。災害復旧の輸送代行としては磐越西線松野トンネル崩壊事故で使用された例がある。
  3. ^ 1946年11月、風水害により山田線が壊滅的な被害を受けた(全線復旧は1954年)ことにより、代替ルートの確保が急がれたことも一因である。
  4. ^ 製番は順に23728・23731・23746-23749・23941-23944・23963・23964・23974・23975・23983-23985・23995・24005・24018・24025・24038・24045・24046・24053-24055・24062-24064。
  5. ^ この時点までに増備で13t級機は55両に達していた。
  6. ^ その他の一部は朝鮮総督府鉄道局へ譲渡され、「ナキサ」形と命名された。
  7. ^ 朝鮮総督府所轄エリア内の鉄道網には、朝鮮京東鉄道や朝鮮鉄道といった私鉄が建設した少なからぬ数の762mm軌間の線区が存在していた。しかもこれらは主に地形的な事情から軽便鉄道規格が採用されており、短期間での自動車輸送への転換は困難であった。特に車両についてはアメリカ国内では事実上皆無に近い規格であったこともあり、輸送力を早急に強化するためには、同規格を採用するこれらの不要貨車の投入は有用であったと見られる。

出典[編集]

  1. ^ a b 「鉄道免許状下付」『官報』1911年7月8日『鉄道院年報. 明治44年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第20回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 『宮沢賢治』 扶桑社ISBN 4-594-02108-5
  5. ^ a b c d e f g h i j 営業報告による。日付は資料により相違する。
  6. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年10月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年4月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年4月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ a b 官報では5月15日「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年5月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年12月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ a b 「地方鉄道駅設置並駅名変更」『官報』1925年1月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年8月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ a b 「軽便鉄道運輸開始停留場新設並停車場名称変更」『官報』1915年11月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 小川功金融恐慌と銀行重役陣の私財提供 (PDF) 」 、『日本金融学会2002年度秋季大会報告』2002年しかし、国有化が実現する前に岩手県の金融恐慌で金田一はその財を失っている。
  15. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1914年1月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年4月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年5月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1915年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「軽便鉄道停車場名称変更」『官報』1916年2月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「地方鉄道駅名改称」『官報』1924年12月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 官報では旅客営業「軽便鉄道駅設置」『官報』1926年9月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 「銀河鉄道の夜」地上モデルは?WEBみんぽう・苫小牧民報(2016年11月28日)2016年11月29日閲覧

参考文献[編集]

関連項目[編集]