小泉信吉

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こいずみ のぶきち
小泉 信吉
Koizumi nobukichi.jpg
生誕 1853年3月12日
日本の旗紀伊国名草郡宮村(現・和歌山県和歌山市
死没 (1894-12-08) 1894年12月8日(満41歳没)
出身校 慶應義塾
職業 慶應義塾塾長
横浜正金銀行支配人
配偶者 小泉千賀
子供 小泉信三

小泉信吉

  1. 小泉信吉(こいずみ のぶきち、1853年3月12日嘉永2年2月3日) - 1894年明治27年)12月8日) 第2代慶應義塾塾長横浜正金銀行支配人。小泉信三の父。
  2. 小泉信吉(こいずみ しんきち、1918年大正7年)1月17日 - 1942年昭和17年)10月22日小泉信三の長男。1.の孫。海軍主計大尉。第二次世界大戦中南太平洋方面で戦死。

以下、1.について詳述。

小泉信吉(こいずみ のぶきち)[編集]

慶應義塾長。横浜正金銀行支配人。

紀伊国紀州藩士紀州徳川家侍医で250石を食む小泉文庫の子として紀伊国名草郡宮村(現在の和歌山市)に生まれる。母は板谷氏。

武よりも文にすぐれ、江戸に出て1866年(慶応2年)に当時、鉄砲洲にあった福澤諭吉が開いて間もない蘭学塾(のちの慶應義塾)に入り、洋学を学んだ。紀州藩から慶應義塾への藩費留学生は当時多く居たが、特に小泉は紀州でも神童と言われ、戊辰戦争が始まると多くの藩士が帰郷する中、福澤諭吉が紀州藩の執政に頼んで、江戸に留まることができた。

長じて大阪舎密学校大学南校開成学校教授に就任。1876年(明治9年)、紀州徳川家の援助を受けて、英国ロンドンに留学した。1878年(明治11年)に帰朝し井上馨に抜擢されて、大蔵省奏任御用掛となった。英国における生命保険事業について研究。1879年(明治12年)横浜正金銀行が設立されると、副頭取となり経営に携わる。1880年(明治13年)に大蔵省に戻り、奏任御用掛、主税官を歴任する。また、1890年(明治23年)日本銀行取締役に就任。日銀第二代総裁の富田鉄之助が、横浜正金銀行経営の問題で時の大蔵大臣松方正義と意見があわずに辞職したとき、松方は大蔵省から藤井佳久長崎剛一郎、帝国海軍から片岡直輝、外務省から河上謹一鶴原定吉、民間からは小泉信吉、高橋是清山本達雄を日銀に入れた。1892年(明治25年)には横浜正金銀行本店支配人に就任した。

この間、交詢社の設立発起人となり、1887年(明治20年)に慶應義塾評議員の第一会選挙で当選し、慶應義塾塾長となる。1890年(明治23年)に慶應義塾に大学部を創設し、私立の大学としての基礎を固める。当時の教え子に柳荘太郎三井銀行重役・第一火災海上保険会社社長)など。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり、短期辞任に追い込まれた。

福澤から伊藤博文井上馨の参議から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けられていたように福澤諭吉の信頼は厚く、『能く本塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物』と評された。他、紀州ゆかりの徳川頼倫山口熊野鳥山啓和田義郎鎌田栄吉吉川泰次郎滝本誠一松山棟庵山東直砥三宅米吉下村房次郎森下岩楠関直彦と共に、和歌山学生会を結成して在京特別会員となった。

1894年(明治27年)、腹膜炎により41歳で死去した。墓所は多磨霊園

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]