村井信平

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村井 信平(むらい しんぺい、1884年 - 1969年3月24日)は岩手県釜石出身の機械技術者。父は日本最初の民間製鉄所である釜石鉱山田中製鉄所の立ち上げに関わった村井源兵衛であり、自らも明治・大正・昭和にかけて父と同じ釜石製鉄所に長く勤めた。第十四期釜石町会議員[1]

略歴[編集]

村井信平は日本で3番目に鉄道[注 1]が走った釜石で1884年(明治17年)に生まれた[2]。父・源兵衛は地元釜石にできた日本初の官営製鉄所[注 2]に採用されたが、1880年9月の操業開始から実働わずか97日で現場は頓挫。1882年3月に再開するもやはり上手くいかず、政府は1883年(明治16年)に製鉄所廃止の判断を下した。その後、製鉄所と鉱山を引き受けてその再建を計る事となった東京の田中長兵衛が釜石に横山久太郎を送り込んだ際に、源兵衛は経験者として機械設備主任を任される。同じく釜石出身で官営製鉄所でも共に働いた高橋亦助も高炉操業主任となり横山を補佐、長い困難の末の1886年(明治19年)10月16日、49回目の挑戦にしてついに連続出銑。成功に至る。

翌1887年(明治20年)には政府より設備等の正式な払い下げを受けて釜石鉱山田中製鉄所が発足。父・源兵衛は所長に任じられた横山久太郎、そして高橋亦助らと共に日本唯一の近代式製鉄所を支えた。1894年(明治27年)には国内初のコークス銑の出銑に成功し、その初湯で山神社の扁額を鋳造。扁額の右に書かれた「明治二十七年十一月」は源兵衛の文字である[3]

また製鉄所には従業員の生活のため鉄瓶や鍋釜などを造る鋳物場があったが、源兵衛はそこの技術指導にもあたり、その腕前から鋳物の神様と呼ばれていたという[3]

製鉄所の社宅で育った信平はその後、書生として東京の田中長兵衛邸に住み込み東京高等工業学校の機械科に進学。端艇部[4]で汗を流し1908年(明治41年)に卒業した[5]。その後は父と同じ釜石製鉄所に入り、田中、三井、日鉄と母体の会社が変わっても30年以上にわたり変わらず勤め続け、釜石製鉄所の生き字引と呼ばれた[2]。製鉄所での役職は圧延課課長など。

1933年(昭和8年)5月には三鬼隆らと共に釜石製鉄所真道会の推薦を受け、釜石町会議員選挙に出馬し当選[6]。この2ヶ月前に起きて甚大な津波被害をもたらした昭和三陸地震の災害復旧に尽力した。後年、初代・田中長兵衛の孫に当たる横山康吉より依頼され「田中時代の零れ話」を執筆。晩年は東京三鷹市に暮らした。1969年(昭和44年)3月24日没[7]

余談[編集]

後に慶應義塾長を務める小泉信三は横山久太郎の長男・長次郎の義兄[注 3]にあたり、その縁で信三はたびたび釜石へ遊びに来ていた。当時釜石-室蘭間は製鉄所で使う石炭を運ぶため田中家所有のゲルト号という汽船で定期運航が行われており、信平は学生時代のある夏休みに、4つ年下で慶應テニス部のキャプテンだった信三と2人で釜石港からこの汽船に乗り室蘭へ遊びに行っている[8]

また信平がすでに製鉄所を辞めていた第二次大戦当時、戦災で家が焼けて困りはてた信平の妻が釜石時代の同胞であり当時日本製鉄界の重鎮となっていた三鬼隆の家へ相談に行ったところ、「それは知らなかった」と家じゅうから掻き集めた相当な額の現金を渡された。嬉しいやら驚くやらで信平は三鬼の親切心に涙したという[9]

著書[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1番目は新橋-横浜、2番目は大阪-神戸。釜石(大橋-釜石港桟橋の18㎞と小川口-小川製炭場の5㎞に鉄道が敷設された)は3番目で官営製鉄所の操業開始と同じ1880年(明治13年)に運行開始となった。
  2. ^ 釜石の製鉄所開設に当たり、政府は当時の金額で二五〇万円という大予算を投じた上でイギリスやドイツからのお雇い外国人技術者をそろえたが失敗に終わった。
  3. ^ 信三は長次郎の妻・勝の兄だが年齢は長次郎の方が8つ上。

出典[編集]

  1. ^ 加茂久一郎 編『釜石大観:市制記念』釜石大観編纂部、1938年、38頁。NDLJP:1112180/39 
  2. ^ a b 半澤周三『大島高任:日本産業の礎を築いた「近代製鉄の父」』PHP研究所、2011年11月、95頁。 
  3. ^ a b 郷土資料よもやま話』釜石市郷土資料館https://www.city.kamaishi.iwate.jp/kyoudo/column/column-kyoudo4.html2023年12月17日閲覧 
  4. ^ 『蔵前工業会誌』568号、蔵前工業会、1962年12月、47頁。NDLJP:1805593/25 
  5. ^ 加茂久一郎 編『日本工業要鑑』(明治42年 第4版)工業之日本社、1909年、工学者及技術者 155頁。NDLJP:803744/137 
  6. ^ 菊池弘『かまいし千夜一夜:企業城下町物語』岩手東海新聞社、1984年11月、217-218頁。NDLJP:9571337/118 
  7. ^ 『蔵前工業会誌』644号、蔵前工業会、1969年6月、73頁。NDLJP:1805669/38 
  8. ^ 村井信平『田中時代の零れ話』1955年10月、19頁。 
  9. ^ 山本祐二郎 編『人間三鬼隆』三鬼会、1956年、18頁。NDLJP:3046951/16