楠木正遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
楠木正遠
時代 鎌倉時代末期
生誕 不明
死没 不明
別名 正康?、正玄?
通称:河内楠入道?
幕府 鎌倉幕府 河内国観心寺地頭職
主君 北条得宗家北条時宗?、北条貞時?、北条高時?)
氏族 楠木氏
俊親?、正成正季
テンプレートを表示

楠木 正遠(くすのき まさとお、13世紀後半 - 1320年前後?)は、駿河国出身、河内国鎌倉幕府御家人北条得宗家御内人悪党楠木正成楠木正季の父。ただし「正遠」の名は一次史料には見られず、『尊卑分脈』所収『橘氏系図』等に拠るもので、他系図では「正康」「正玄」などともあり一致しないため、確実ではない。一次史料における河内楠入道(かわちのくすのきにゅうどう)を正成の父に比定する説もある。

経歴[編集]

20世紀後半から21世紀現在支持されている学説は、楠木氏北条得宗家に仕える御内人であったことである[1][2][3]

楠木氏は駿河国入江荘楠木(現在の静岡県静岡市清水区楠)を本貫とし[4]、遅くとも建久元年(1190年)には源頼朝に奉公し御家人となっていた(『吾妻鏡建久元年11月7日条)[5]

その後、弘安8年(1285年)11月17日に霜月騒動で有力御家人安達泰盛北条氏に滅ぼされると、安達氏の所領の一つ河内国観心寺(現在の大阪府河内長野市観心寺)も北条得宗家の支配下となった[4]。そして、得宗から地頭職として観心寺に送り込まれたのが楠木正成の先祖であると言われ[1][4]、このときの楠木氏惣領が正成父か正成祖父かは不明だが、いずれにせよ年代的には正成父はこのとき駿河国から河内国に移ったと考えられる。

東国御家人と違い、西国御家人には、商売で財を為す者も多かった[4][6]永仁3年(1295年)1月の東大寺への訴状で、播磨国賀東郡大部荘(現在の兵庫県小野市一帯)の前々雑掌である河内楠入道という人物が荘民から非難されており(『筒井寛聖氏所蔵文書』)、この人物が正成の父祖もしくは一族と見られ、この頃には悪党化していたようである[7]

死没年は不明だが、嫡子の正成が元亨2年(1322年)に執権北条高時から起用され、楠木党を率いて戦っていることから(『鎌倉将軍家譜』『高野春秋編年輯録』等)[8]、この年までには死没もしくは隠居し正成に家督を譲っていたと考えられる。

後代の説[編集]

軍記物太平記』では敏達天皇橘諸兄の子孫で本姓橘氏の土豪とされ、また史実としても嫡子の正成が自筆文で公的に橘正成を名乗っているため、後代の説では橘氏の系図に繋げるものが多い。しかし、橘氏後裔とするのは、正成の代に兵衛尉に任官するために捏造したものと見られている[9]

洞院公定尊卑分脈』第11巻所収『橘氏系図』では、正成父は「正遠」とされ、掃部助である橘盛仲の子で、従五位上、息子に俊親、正成、正氏がいたとされている[10]

群書類従』所収『橘氏系図』では、正成父は「正遠」とされ、掃部助である橘盛仲の子で、正遠の代に初めて(楠木ではなく)「楠」を名乗ったとされる[11]。従五位上。息子に俊親、正成、正氏(後に正季に改名)がいたとされている[11]

系図纂要』(橘氏系図)は正遠を藤原純友の乱で武功のあった橘遠保10世の末裔盛仲の子とし、「弘長三年生 楠五郎 刑部左衛門少尉 従五上」とある。また、嘉元2年(1304年鎌倉で死去したとある[要出典]

正成を橘遠保系統とする系図では、正成父の名を正遠ではなく、正康や正玄とするものもある[12]

諸系図の疑わしさは江戸時代の徳川光圀編『大日本史』で既に指摘されており、同書では正成父の名を仮に正康としているものの、系図同士の異説が多くこれらの系図は後代の創作ではないか、とされている[13]

歴史的事実である可能性は低いものの、能の大家観阿弥の母方の祖父であるという説もある。伊賀の有力家系上嶋氏の『上嶋家系図』によれば、橘入道正遠なる人物の娘が、伊賀服部氏に嫁ぎ、その息子がの大成者観阿弥であるという[14]。「橘」を名乗るのは前述の通りおそらく正成の代からのため、この記述をそのまま鵜呑みにすることは全く出来ない[14]表章らからの偽書説もある。ただ、楠木氏の勢力が伊賀にまで及んでいたことは一次史料から確実なため(『光明寺残篇』)、楠木氏と服部氏の間で何らかの縁戚関係は結ばれていたとは考えられる[14]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 網野 1994.
  2. ^ 新井 2011.
  3. ^ 生駒 2016.
  4. ^ a b c d 新井 2011, pp. 57–60.
  5. ^ 新井 2011, pp. 60–62.
  6. ^ 生駒 2016, pp. 177–179.
  7. ^ 生駒 2016, pp. 168–173.
  8. ^ 新井 2011, pp. 50–57.
  9. ^ 新井 2011, pp. 60-63.
  10. ^ 藤原 1903.
  11. ^ a b 橘氏系図 1893.
  12. ^ 藤田 1938, pp. 4–6.
  13. ^ 徳川 1900.
  14. ^ a b c 新井 2011, pp. 86–89.

参考文献[編集]

関連項目[編集]