平頼綱

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平 頼綱
時代 鎌倉時代中期 - 鎌倉時代後期
生誕 不詳
死没 正応6年4月22日1293年5月29日
改名 頼綱→杲円(こうえん)
別名 平新左衛門尉、平禅門
官位 左衛門尉
幕府 鎌倉幕府 侍所所司
主君 北条時頼長時政村時宗貞時
氏族 長崎氏
父母 父:平盛時
兄弟 頼綱長崎光綱?[1]
北条貞時乳母
宗綱飯沼資宗高頼為綱
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平 頼綱(たいら の よりつな)は、鎌倉時代後期の武士北条氏得宗家の御内人元寇蒙古襲来)時の鎌倉幕府8代執権北条時宗、9代執権北条貞時寄合衆執事で、貞時の乳母父である。父は歴代執権の執事を務めた平盛時[2]

御内人の筆頭格として北条得宗家の専制体制を補佐した。元寇時の時宗、貞時の寄合衆として政治を行った。平頼綱・平金吾と呼ばれる。また左衛門尉に任じられていたので、平左衛門尉とも称された。「頼綱」の名が5代執権北条時頼偏諱を受けたものとして、時頼の執権在職期間(1246~1256年)内の元服と推定されている。元服後は北条得宗家家司(けいし)(執事)、また侍所所司(次官)として、軍事、警察、政務を統括していた。

第8代執権北条時宗は、ごく少人数で行われた「寄合」と呼ばれる秘密会議で意思決定を行っており、平頼綱はこの秘密会議に参加する寄合衆に名を連ねている。(平頼綱の他は安達泰盛諏訪盛経太田康有佐藤業連のわずか5名。)

2度の蒙古襲来を退けた後の1284年に執権北条時宗が34歳の若さで死去すると、1285年に頼綱は出家し、以降「平左衛門入道」と呼ばれている。弘安8年(1285年)の霜月騒動では、対立した有力御家人安達泰盛を滅ぼした。元寇後、御家人等に対する恩賞問題が発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて国防を強化しなければならないなど、国内外に難題が積み重なっていた中、内管領として14歳で執権となった時宗の嫡子貞時を補佐し、得宗家の専制体制の強化、訴訟の公正化、異国警護、悪党禁圧等を行っている。蒙古襲来後に、訴訟が急増していた九州には、後に鎮西探題となる鎮西談議所を設置し、鎌倉、六波羅探題にかわる専門の訴訟機関を設置した。正応6年(1293年)頼綱の権勢に不安を抱いた執権貞時によって、鎌倉大地震(1293年4月12日)の混乱に乗じて、地震の10日後の4月22日に鎌倉・経師ヶ谷の頼綱邸を襲撃され、頼綱は自害し、その次男・飯沼資宗ら一族93名が滅ぼされた(平禅門の乱)。頼綱死後、頼綱に変わって長崎光綱が一族の惣領となり、得宗家執事となっている。光綱は頼綱の弟、甥、従兄弟等の説があり確定していない。頼綱死後、侍所所司は頼綱の長男・宗綱が任じられている。

生涯[編集]

時宗執事[編集]

頼綱は北条泰時に仕えた平盛綱の孫と言われている。頼綱は代々北条氏嫡流の得宗家に仕える御内人として時宗に仕え、時宗の命を実行に移す役割を担っていた。弘長元年(1261年)の頃に父盛時から侍所所司を継承し、文永9年(1272年)以前には得宗家の執事となっている。

生年は明確に分かってはいないが、次男資宗文永4年(1267年)の生まれであることから、仁治元年(1240年)頃に生まれたのではないかとされる[3]。その場合、泰盛と時宗の中間の世代に相当し、建長8年(1256年康元に改元)まで執権であった北条時頼偏諱(「頼」の字)を受けて元服したものと判断される。『吾妻鏡』では建長8年1月4日条の「平新左衛門三郎」を初見として4回登場する[4]

文永8年(1271年)9月、元寇という国難に見舞われ、国内で一致団結した防衛が必要とされる中、過激な他宗批判を行い、国内の宗教対立を扇動する日蓮 が、口撃対象としていた浄土宗の僧、行敏に告訴されると、侍所の所司であった頼綱が取り調べを行っている。幕府は訴状を受理すると、次に『御成敗式目』の定めに従い、訴状に対する「陳状」(答弁書)を日蓮に求めた。日蓮は陳状を提出するが、「庵室に凶徒を集め弓箭(弓矢)・兵仗(武器)を貯えている」との行敏側の指摘は否定せず、蒙古襲来に対応するために防衛体制強化を行う幕府に異を唱える「悪党」とされ[5]御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪の判決がくだり、流罪を執行している。この時に日蓮が頼綱に宛てた書状で、頼綱を「天下の棟梁」と書いている。 余談となるが、日蓮はこの時に、龍ノ口で斬首されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物(発光物体)が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行が中止となり、流罪に減刑になったという逸話がある。但し、この話は日蓮宗側の研究者からも、その表現に奇跡性、潤色化などが随所に見られるところから、偽書説が指摘される「種種振舞御書」[6]が元となっており、実際は「御成敗式目」第12条「悪口(あっこう)の咎」 [7] による判決が最高刑である佐渡流罪であり、侍所の所司になって間もない頼綱に[8]、長官たる執権時宗が下した判決を覆す権限はなく、単に目的地である厚木市依智へ向かう途中で、竜ノ口へ寄ったものとする説や、時宗の妻(堀内殿)が懐妊中のため殺生を慎み減刑されたとする説等がある。また日蓮の時代には成立していた『平家物語』長門本に、平盛久が由比ヶ浜で処刑される時に「光り物」が現れて、奇跡的に処刑を免れる同種のエピソードがあり、何らかの関係性があるものと思われる。 日蓮は佐渡流罪から3年後の1274年に釈免され、鎌倉で頼綱と面会している。

安達泰盛との対立[編集]

弘安2年(1279年)の日蓮書状(聖人御難事)には「平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす」とあり、平等(平頼綱)の勢力が、有力御家人であった城等(秋田城介のこと。秋田城介とは官職による名で、ここでは、安達泰盛のことをいう。)の勢力と拮抗していた事を示している。蒙古襲来によって幕府の諸問題が噴出すると同時に、戦時体制に乗じて得宗権力が拡大していく中で、得宗権力を行使する御内人の勢力は増し、その筆頭である頼綱と、得宗外戚で伝統的な外様御家人を代表する泰盛との対立が深まっていた。弘安7年(1284年)正月には内管領就任が確認され、父から受け継いだ侍所所司・寄合衆・内管領を兼ねる得宗被官最上位として長崎氏一門が得宗家公文所・幕府諸機関に進出している。

弘安7年(1284年)4月、両者を調停していた執権時宗が死去する。得宗の死と同時に北条一族内で不穏な動きが生じ、六波羅探題北方の北条時村は鎌倉へ赴こうとして三河国で追い返され、探題南方の北条時国は悪行を理由に鎌倉へ召還され、頼綱によって誅殺された。時国の叔父の時光は謀反が露見したとして種々拷問を加えられて佐渡国へ流された。7月に14歳の貞時が執権に就任する。貞時の外祖父である泰盛は将軍権力の強化、得宗・御内人の権力を抑制する改革(弘安徳政)を行い、貞時の乳母父で内管領である頼綱との対立は更に激化する。弘安8年(1285年)11月、ついに鎌倉市街で武力衝突に至り、執権貞時を奉じる頼綱の先制攻撃によって泰盛とその一族を討ち、泰盛与党であった御家人層は一掃された。 これを霜月騒動弘安合戦)という。有力御家人500人が戦死したと伝えられており、この争乱は全国に広がり、全国を二分する争いとなった。

頼綱専制支配[編集]

この後頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが、弘安10年(1287年)に7代将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは専制政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)[9]

最期[編集]

頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後にはそれまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆を支配し、騒動から7年余りに及んだその権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制政治は貞時にも不安視され、正応6年(1293年)4月、鎌倉大地震の混乱に乗じて、鎌倉大地震の10日後、経師ヶ谷(鎌倉市材木座)の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。

保暦間記』によると、頼綱と不和だった嫡男の宗綱が「頼綱が次男の資宗を将軍にしようとしている」と貞時に讒訴したことが発端とされている。貞時は頼綱を滅ぼして権力を掌握すると得宗への権力集中を進めるが、これに反発する北条氏一門の庶家との対立が激しくなった。貞時は嘉元の乱で北条氏庶家の勢力を除こうとしたが失敗し、以後政務への意欲を無くした貞時は酒宴に明け暮れて政務を放棄したため、幕府の主導権は再び寄合衆に移り、得宗は将軍同様に装飾的存在に祭り上げられていった[10]

頼綱死後、頼綱に変わって長崎光綱が一族の惣領となり、得宗家執事となっている。光綱は頼綱の弟、甥、従兄弟等の説があり確定していない。頼綱死後、侍所所司は頼綱の長男・宗綱が任じられている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である。北条貞時は1293年6月に引付衆を廃止し、得宗の専制強化を進めるが、御家人の反発が強かったものと推測され、1295年10月には引付衆を復活させている。1297年には借金を棒引きとする永仁の徳政令を発するが、翌年には撤回するなど、幕府の政治は迷走した。1305年に嘉元の乱が勃発し、その後貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、幕府権力がますます弱体化していった。

脚注[編集]

  1. ^ 保暦間記』では長崎円喜について、「正応ニ打タレシ平左衛門入道カ甥光綱子」(正応6年(1293年)の平禅門の乱で討たれた平左衛門入道杲円(頼綱)の甥で光綱の子)としている。この記述が正しければ頼綱と光綱は兄弟ということになる。
  2. ^ 頼綱の職務は盛綱の後継者と呼べるものだが、盛綱の卒去と頼綱の政治活動開始まで間隔が空きすぎるため、頼綱の父は盛時で、盛時が盛綱の子、盛綱は頼綱の祖父と推定される(細川重男説)。
  3. ^ 森幸夫「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994年)。森は資宗の生年を文永3年(1266年)としているが、弘安2年(1279年)9月に発生した鎌倉期日蓮宗弾圧として著名な熱原法難を伝える『弟子分帳』に「飯沼判官十三歳」(数え年)とある(細川、2000年、P.183)ことから、逆算すると生年は文永4年(1267年)が正確である。
  4. ^ 『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)による。登場箇所は、建長8年正月4日・9日条「平新左衛門三郎」、正嘉2年(1258年)1月11日条「平新左衛門三郎頼綱」、弘長3年(1263年)正月1日条「平新左衛門尉頼綱」の4箇所である。
  5. ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その行動と思想』90頁
  6. ^ 「種々御振舞御書」自体は、その表現に奇跡性、潤色化などが随所に見られるところから、後の人の加筆もあるとされ、真蹟遺文と比べると、資料としての信憑性に欠けるところがあり、この「種々御振舞御書」を日蓮の筆とせず、直弟子ないし孫弟子らによって書かれた初期の伝記本と解釈する研究(新倉善之)もある。日蓮宗大学教授、立正大学教授で日蓮遺文の研究に従事し、祖書学の体系化をはかり「日蓮宗全書」「日蓮宗宗学全書」の編集にあたった浅井要麟は、他の確実視される御書における記述と齟齬のある箇所が多くあり、本書を偽作と推定している。また日蓮自身が龍の口の法難の直後に相模国の依智から富木常忍に宛てた御真筆の土木殿御返事というお手紙の中で、「この十二日酉の時に御勘気をこうむり、武蔵守殿の御あずかりとなり、十三日丑の時に鎌倉を出て、佐渡の国へ流されることになった。当分は本間の領地の依智というところで、依智の六郎左衛門尉殿の代官で右馬太郎という者にあずけられており、いま四、五日はここにとどまるようである。」と書き記している。 光り物については、日蓮自身も「種々御振舞御書」の中では「光り物が出たから処刑が中止になった」とは書いてはおらず「『夜が明けてからでは見苦しいから、早く首を切ってくれ』と言ったが、誰も斬らなかった」と書いている。
  7. ^ 御成敗式目 第十二条  一、悪口咎の事    右、闘殺の基(もとひ)は悪口より起る。その重き者は流罪に処せされ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。問注(=裁判)の時悪口を吐けば、則ち論所 (=争点の領地)を敵人に付けらるべし。また論所の事、その理無き者は、他の所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は、流罪に処せられるべきなり。 (惡口咎事) 右鬪殺之基起自惡口、其重者被處流罪、其輕者可被召籠也、問注之時吐惡口、則可被付論所於敵人、又論所事無其理者、可被沒收他所領、若無所帶者、可處流罪 也
  8. ^ 文永期において侍所は、訴訟機関ではなく、刑罰の執行権を有するのみと考えられている。
  9. ^ ただし、惟康の立親王と追放は朝廷内部の対立に伴うもの(大覚寺統持明院統が分立し、大覚寺統が惟康の取り込みを図り、持明院統がその排除を求めた)とする説もある(曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) P238-242.)。
  10. ^ 細川重男『鎌倉幕府の滅亡』 126-133頁

参考文献[編集]

  • 網野善彦『蒙古襲来』 小学館文庫、2001年1月(1974年刊行)。
  • 筧雅博『蒙古襲来と徳政令』 講談社学術文庫、2009年5月(2001年刊行)。
  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』 吉川弘文館、2000年。
  • 細川重男「飯沼大夫判官と両統迭立 ―「平頼綱政権」の再検討―」(『白山史学』38号、2002年)
  • 細川重男「飯沼大夫判官資宗 ―「平頼綱政権」の再検討―」(所収:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(日本史史料研究会、2007年)第5章) ※2002年論文の改訂版。

関連作品[編集]

小説
  • 高橋直樹「異形の寵児」(『鎌倉擾乱』文藝春秋/文春文庫 所収)創作も交えているが長編に近い分量の中編であり、頼綱を描いた書としては最も長い。
テレビドラマ