林元善

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
林元善
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄元年(1558年
死没 慶長14年12月6日1609年12月31日
別名 林元喜
通称:与次
官位 従五位下志摩守木工允
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤原北家隆家流 菊池氏庶流林氏
父母 父:林就長
兄弟 元善、女(入江元親室)
児玉元貫の娘
元直元由元之、女(小幡就里室)
テンプレートを表示

林 元善(はやし もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。牛の皮城主。父は林就長

生涯[編集]

永禄元年(1558年)、毛利氏家臣である林就長の子として生まれ、元亀3年(1572年)に石見国邇摩郡の金剛山安楽寺の諸堂と七坊を再興する。

天正6年(1578年6月21日播磨国上月城の戦いにて功を立て、6月28日毛利輝元より感状を得る。

豊臣政権下においては、父・就長と共に毛利家と豊臣家の渉外を任されており、天正16年(1588年)7月、豊臣秀吉によって父・就長が従五位下肥前守に任じられるのと同時に、元善も従五位下・志摩守に叙任された。

文禄3年(1594年9月3日毛利輝元より備後・安芸・周防の3ヶ国で合計2290石の所領[1]を安堵される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が2ヶ国に減封されると、元善も周防国へ移って毛利秀就に仕え、慶長14年(1609年12月6日に52歳で死去。12月16日に嫡男の元直が家督と知行[2]を継ぎ、次男の元由には200石の地が分知された。また同日には、三男の元之にかつて林就長が知行していた120石が与えられた。子孫は萩藩大組として残る。

脚注[編集]

  1. ^ 備後国甲奴郡の上下村(現・府中市)417石2斗、矢野村(同)224石、計増矢多田村(同)199石、伊永村(同)138石8斗、小塚村(同)145石。備後国神石郡木津和村(現・神石高原町)262石、田頭村(同)210石。備後国世羅郡の小谷幡立原(現・世羅町)29石8斗。備後国御調郡の守光先給593石4斗。安芸国安北郡の伴村・阿土村の内の36石6斗。周防国都濃郡矢地(現・周南市)・長穂(同)35石。合計2290石。
  2. ^ 周防国都濃郡の所々における887石5斗余り、周防国吉敷郡深野村(現・山口市)174石1斗8升、長門国厚狭郡鴨庄(現・山陽小野田市)51石8斗9升。合計1113石6斗。

参考資料[編集]