東京12大学広報連絡協議会

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東京12大学(とうきょう12だいがく)は、東京に本部を置く有力私立大学12校共同による広報組織である。

東京にある有力12大学が共同開催し、各大学の学術研究機関としての研究実績・校風・受験情報等を広報することを目的としている。

“新聞や受験雑誌の連合広告、各種資料の配布、高校訪問などは、個々の大学が、それぞれ独自に活動するよりも、受験生の併願傾向に共通する、ステータスの同様の私立大学が共同して活動する方が、より広く、より適確に、より効率的に、目的を達成することができるであろう。”[1]。結成は、1964年昭和39年)。

加盟大学[編集]

五十音順

協議会ホームページのサイト名にも「東京12大学」を用いている。

東京12大学広報連絡協議会は、東京神田5大学広報会議を主体として結成され、所属校は東京六大学などの大学群とは無関係に構成されている。「東京12大学フェア」として加盟全大学が参加する進学相談会を日本国内7か所で毎年開催している[2]

活動内容[編集]

なお、各地での開催の一例として、大阪相談会を取り上げる。大阪相談会の開催は、昭和62年6月27日(土)「第一回東京十二大学フォーラム」初代幹事校:早稲田大学、副幹事校:國學院大學で催された。当相談会は大盛況[3]となり、「関西の私大をはじめ他の多くの私大へ刺激を与えたことも評価されてよかろう。」[4]と報道され、「新しい十二大学の出発点」となった[5]

入会条件[編集]

「旧制の大学」、「総合性のある大学」、「広報担当者の熱意」が挙げられている[6][7]

沿革[編集]

「東京12大学広報連絡協議会」に先立つ組織体として、東京・神田地区付近に設置されている、名門私立大学である5大学(明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・専修大学)が結成した東京・神田5大学広報会議[8]が存在している。

これとは別に、「青山学院・中央・日本・法政・明治・立教の六大学で、昭和38年初夏に駿河台の中央大学会館に参集し」、その後、早稲田大学・慶應義塾大学[9]の参加があり、翌39年「東京八大学広報懇談会」が結成された。そして、昭和42年、「上智大学がみなさんの異存がなく参加して九大学になりました」[10]

さらに國學院大學[11]、専修大学、東海大学が同時に加入した。 私立大学を志望する生徒の30%以上を占める組織体[12]であり、「各大学の教育・研究内容、校風や特色、入学試験などの正確な情報を広く社会に伝えていくこと」[12]というコンセプト[13]から広報組織を築いている。実際には旧制大学ではない青山学院大学や、「最後の旧制大学」(大学令に基づく旧制大学ではあるが、戦後になってから設立された)といわれる東海大学も加盟している。そして、加盟大学の数が12となったことから「東京12大学」という愛称が策定された。

脚注[編集]

  1. ^ 上智大学財務担当理事付部長 鈴木成一「十二大学手帖」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.32-33 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  2. ^ 法政大学の進学相談会情報ページなどを参照
  3. ^ <パネルディスカッション終了後、梅田センタービル・クリスタルホールから出口へ向かってドッと流れ出る人、各大学の資料を手に入れようとする人、人、人で会場は一瞬のうちに大混乱。パネラーも控室へ引き上げようと立ち上がったものも身動きが取れず腰を下ろしてしまう模様。その間をぬって相談会用に整理をする各校の面々。一方、会場への入り口は入場待ちの受験生で長蛇の列。まさに満員御礼札止めの状況。>早稲田大学学生部奨学課長 志水泰夫「大阪相談会開始」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.45-46 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  4. ^ 同年6月28日朝日<東京>
  5. ^ 「当相談会は、個々の幹事校の努力から十二大学の組織の力としての総合力に変わったという点において実に画期的な企画であり、新しい十二大学の出発点であったといえよう。」早稲田大学学生部奨学課長 志水泰夫「大阪相談会開始」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』p47 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  6. ^ 出席者 元日本大学広報部長西脇隆英 元立教学院事務局長伊達宗浩 中央大学管財部長柴崎寅男 元青山学院大学学生部事務部長山田茂 司会日本大学広報部広報課長川田茂<司会 翌年には九大学に加えて國學院、専修、東海の三大学を迎えて、現在の十二大学になったわけです。当時は一つの申し合わせ的な基準として、旧制の大学であるとか、総合性のある大学であるとか、というものがありましたね。 西脇 そうしたことはありましたね。 柴崎 最初、東海の尾郷さんが非常に熱心で、何とか入れてもらえないかということでしたね。と同時に専修に八木さんがおられて、何とかしてくれと行く先々でアタックされてました。そんなことで42年の暮れに集まったのです。 西脇 東海を入れるというのは、連盟加盟校の問題でちょっとおかしな点もあったのですが、それはとにかく、担当者の熱意ですね。広報担当者の熱意が、伊達さんとか山田さんとか、私なども動かしたことが東海を迎えることにつながったと思います。 司会 國學院には高藤さんがおられて、連盟の広報委員のみなさんと顔見知りですから、聞きつければ当然黙ってはいない人ですから(笑)。國學院と専修が参加する時に、東海もあんなに一生懸命になっているんだから、入ればちょうど十二になって数がいいじゃないかと。伊達さんそうでしたね。 伊達 東海の参加を推進したことは覚えていますよ。>「第一章 草創の頃(座談会)」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.10-11 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  7. ^ 東海大学財務部長 尾郷良幸<「私立大学広報懇談会」(当時はそう呼ばれていた)のメンバーは、歴史・伝統・規模からいっても日本の私立大学を代表する九大学で構成され、しかも私立大学連盟に所属する大学であった。ところが東海大学は私立大学懇話会加盟の大学で、加入の可否に当たっては当然、異論もでたことであろうし、懇談会のメンバーに複雑な波紋を投げかけたのではないかと思う。その意味では誠に申し訳ない仕儀となったのであるが、当時の私としては、何としても加入を認めてもらいたかったのである。なぜなら、少なくとも広報活動の面で東京の主要私立大学とともに同一歩調をとれるか否か、当時の東海大学にとって重要な課題であり、一般社会に与える影響はもちろん、イメージアップの面でも大きな落差が生じかねない状況にあったからである。それだけに、加入が認められたという知らせを受けた時、それまでの緊張が一挙にほぐれ、茫然自失の思いにひたったことを今でもハッキリ憶えている。と同時に、ここに至る間、ご親交をいただいた先輩各大学の広報担当者の皆様に心からなる感謝を申しあげたことをいまあらためて憶いおこしている。>「第二章 十二大学結成へ」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.20-21 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  8. ^ 2009年時点においても「東京12大学フェア」とは別個に共同で進学相談会を開催している。
  9. ^ 元慶應義塾大学塾監局部長 土橋俊一<十二大学広報連絡協議会のように、その多くが百年を超す歴史と伝統を持つ私学ともなると、自己の属する大学を、わが母校とする帰属意識の極めて根強いことを、大学紛争を通じてあらためて教えられたのであった。そこに共通の意識として浮かんできたことは、受験生への今後の働きかけのなかで、国公立大学を優先するいわゆる不本意入学者をどれだけ排除してゆくかであった。進学相談会での、受験生、高校の教員、父兄を対象とした肌理細やかな懇談は、さしあたってのその第一歩だった。>「第二章 十二大学結成へ」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.18-19 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  10. ^ 東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.8-10 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  11. ^ 元國學院大學事務局長 高藤昇<……昭和42年の暮れ近く、日本大学の西脇隆英さんから、八大学で組織している入試広報関係の会に今度東海大学さんが入るので、國學院は入る気はないか、十二大学というのが区切りがよいという話も出ていると耳打ちがあったので、その場で入れてほしいと返事をしておいた。 年が明けて、昭和43年の1月16日に、慶應義塾大学の関口研日磨さんから電話があって、國學院の入会について考慮したいので、ついては八大学の方へ話を通してほしいということで、それから一週間程のうちに、改めて日大、立教、明治、中央、早稲田、青山学院、法政、上智と次々に電話で依頼し、どうやらその月末に入会を許され、2月8日に初めて私と、当時入試担当の宇井恒治君と二人で専修大学の例会に出席した。>「第二章 十二大学結成へ」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』pp.22-23 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  12. ^ a b 東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』p6 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行
  13. ^ 「このコンセプトは、1986年新しい連合企画を出発させるにあたって、当時の協議会で決定し、同時に、新しい十二大学をシンボライズしたマークを定めたものである」東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌編集部会『東京十二大学広報連絡協議会二十五年誌』p6 東京十二大学広報連絡協議会 1991(平成三)3月発行

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]