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早川龍介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早川 龍介
はやかわ りゅうすけ
生年月日 1853年9月14日
(旧暦嘉永6年8月12日
出生地 三河国下中嶋村
(現・愛知県岡崎市中島町
没年月日 (1933-09-22) 1933年9月22日(80歳没)
称号 勲四等瑞宝章

選挙区 旧愛知8区ほか(戦前)
当選回数 通算10回
在任期間 1890年7月1日 - 1893年12月30日
1894年9月1日 - 1897年12月25日
1898年8月10日 - 1903年12月11日
1908年5月15日 - 1917年1月25日
1920年5月10日 - 1924年1月31日

当選回数 1回
在任期間 1915年4月17日 - 1915年11月30日

選挙区 碧海郡選挙区
当選回数 4回
在任期間 1880年 -
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早川 龍介(はやかわ りゅうすけ、嘉永6年8月12日[1][2]1853年9月14日) - 1933年9月22日)は、明治から大正期の政治家衆議院議員を通算10期務めた。そのほか愛知県会副議長や碧海郡六ツ美村長などを歴任した。

概要

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三河国下中嶋村(現・愛知県岡崎市中島町)に早川藤太夫の長男として生まれた。早川家は祖父以来、旗本小笠原伊勢守の代官を務めていた。9歳の時に父を失い、14歳で代官見習となった。明治維新後、静岡の藩儒、宮原寺三郎の塾に入り静岡大学校に通学した[3]

1871年(明治4年)、帰郷。1872年(明治5年)に額田県第二大区三小区戸長に就任し、地租改正に尽力。1876年(明治9年)、愛知県十四等出仕となる[2]

1880年(明治13年)5月、愛知県会議員の補欠選挙で初当選。同年10月にも補選で当選[4]。1884年(明治17年)5月の県議選で3選。1890年(明治23年)4月22日の県議選で4選[5]。このあいだ県会副議長として活躍した。また1885年(明治18年)、農商業視察員として渡米。耕地整理の必要を痛感して帰国し、耕地整理法案の議会通過に努力した。1899年(明治32年)の法案成立後、全国に率先して六ツ美村大字中島地内の耕地整理事業を実施した。

1890年(明治23年)7月1日に行われた第1回衆議院議員総選挙に立候補し初当選を果たした。以後、第2回衆院選(1892年)、第4回衆院選(1894年)、第6回衆院選(1898年)、第7回衆院選(1902年)、第8回衆院選(1903年)、第10回衆院選(1908年)、第11回衆院選(1912年)、第12回衆院選(1915年)、第14回衆院選(1920年)において当選。代議士を通算10期務めた。そのあいだ閣龍世界博覧会(1893年開催)委員、パリ万国博覧会(1900年開催)委員として海外でも活躍した。

1914年(大正3年)3月6日、大正天皇即位の大典に際し大嘗祭に献穀する悠紀斎田(ゆきさいでん)が六ツ美村大字下中島字上丸ノ内に決定された。早川は衆議院議員在職中であったが、村民に請われ翌1915年(大正4年)、種まき直前の4月17日に六ツ美村長に就任した[6]。八幡社境内に斎田事務所を寄付して指導監督にあたり、10月16日に新穀を京都御所に供納、11月14日、大嘗祭悠紀殿供饌(ぐぜん)ノ儀に参列した[3]。大任を務め終えた早川は11月30日、村長の辞表を東京の定宿から送り、村議会は同日付で辞職を承認した[7]

1916年(大正5年)4月1日、勲四等瑞宝章を受章[8]

1933年(昭和8年)9月22日、死去。80歳没。1966年(昭和41年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[9]

脚注

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  1. ^ 早川龍介 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. 名古屋大学. 2019年7月10日閲覧。
  2. ^ a b 新編 岡崎市史 総集編 20』 305頁。
  3. ^ a b 岡崎の人物史』 150-151頁。
  4. ^ 愛知県議会史 第一巻』 394頁。
  5. ^ 愛知県議会史 第一巻』 357頁。
  6. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 614頁。
  7. ^ 野々山克彦『大嘗祭 悠紀斎田』野々山克彦、2014年4月1日、115頁。 
  8. ^ 野々山克彦『大嘗祭 悠紀斎田』野々山克彦、2014年4月1日、36頁。 
  9. ^ 新編 岡崎市史 総集編 20』 615頁。

参考文献

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  • 『岡崎の人物史』岡崎の人物史編集委員会、1979年1月5日。 
  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。 
  • 『愛知県議会史 第一巻』愛知県議会、1953年12月20日。 

関連項目

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