川崎正蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
川崎正蔵(1900年代初頭)

川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、天保7年7月10日1836年8月10日) - 大正元年(1912年12月2日)は日本実業家政治家神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。男爵。幼名・磯治。従五位

人物[編集]

薩摩国鹿児島城大黒町鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。17歳の時長崎に出て貿易に従事、藩命によって金・米を扱った。鹿児島町吏、さらに大坂の蔵屋敷用達を命ぜられたが、貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船数隻を購入して薩摩国産物を畿内に輸送、巨利を博した。明治4年(1871年)上京し、明治6年(1873年)帝国郵便汽船会社副社長となり、東京、琉球間の郵便航路開始に尽力した。同社は明治11年(1878年)に三菱汽船会社と合併する。明治10年(1877年)大阪に官糖取扱店を開き、また琉球反物の運送販売により巨利を得て、念願であった造船業を開始。明治11年(1878年)築地造船所、明治13年(1880年)兵庫川崎造船所を開業、明治19年(1886年)には官営兵庫造船所の払い下げを受けて、明治20年(1887年川崎造船所(現・川崎重工業)を設立。明治29年(1896年)川崎造船所を株式に改組し、自らは顧問に退き、松方幸次郎松方正義の三男)を初代社長に、川崎芳太郎(娘婿で養子)を副社長に抜擢した。一方、明治23年(1890年)9月29日に貴族院多額納税者議員[1]、明治31年(1898年)「神戸新聞」を創刊、明治38年(1905年神戸川崎銀行を開設、監督に就任した。また美術品の収集でも知られ、1890年、神戸の自邸内に川崎美術館とその付属館である長春閣をつくった。

川崎美術館と長春閣・美術蒐集家としての正蔵[編集]

明治29年に第一線を引退してからの川崎正蔵は、造船事業家としてよりもむしろ美術蒐集家として社会的に有名であった。正蔵は仕事で他家を訪問するごとに、家屋や庭園、さらに床の間の書画、置物、装飾品にいたるまで、深い注意を払うのを常とし、これがおのずから美術鑑賞眼を養った。そして、家屋、庭園、美術品は川崎の唯一ともいうべき趣味であり、自分の大志を励ます何よりの刺激剤であった。川崎の美術蒐集は、彼の造船業への参入の動機と同じように、明治時代に生きた人間らしいナショナリズムに基づくもので、すなわち明治維新後には日本の伝統的な美術品は欧米の美術愛好者のために輸出されることが多くなり、多くの名品が日本で見られなくなる状態が出現しつつあった。川崎はこのような伝統的美術品が国外へ流出することを恐れる心情も手伝って、明治11年に築地造船所をの経営に着手したころからおりにふれて美術品を蒐集し始め、生涯にわたって2000余点の名品を買い集めた。そして明治18年から着工した神戸の布引の豪壮な本邸内に美術館を建てて、自分の蒐集した名品を陳列し、一般に公開した。その所蔵品の中でも、とくに中国の元時代の名画家である顔輝の「寒山拾得二幅対」や、春日基光画「千手千眼観音」(いずれも後に国宝に指定された)は世間で有名であった。しかし彼の蒐集した美術品の多くは、後に昭和2年の金融恐慌の際に川崎家が危機に陥った時に、売却される運命にあった。川崎は美術愛好家として高名であっただけでなく、自ら美術品の製作にも乗り出している。彼は明治29年ごろから、明代万暦七宝に匹敵できる七宝焼を完成することを志し、尾張七宝焼の後継者であった梶佐太郎一族を30年に神戸に呼びよせ、布引山に七宝焼の工場を設けて研究させ、3年後には見事な七宝の製作に成功した。そして明治33年にパリで開催された万国博覧会に大花瓶と大香炉を出品して名誉大賞を獲得した。彼はその後も七宝の名品を多く製作したが、1品も売却せず、「川崎の宝玉七宝」と名づけて美術愛好家に贈ることを喜びとしていた。このパリ万国博覧会に出席するために、川崎は7人の一族を引き連れてヨーロッパを巡遊し、イギリスの造船業と諸国の美術工芸を見てまわった。そしてこれが最後の華々しい社会的活動であった。その後は体調を崩し、健康の回復を第一の目標として、全国各地の別荘をめぐる「富豪の隠居」が川崎正蔵の実像であった。[2][3][4]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第2179号、明治23年10月2日。
  2. ^ 「造船王 川崎正蔵の生涯」、三島康雄、1993、同文館出版
  3. ^ 「幻の五大美術館と明治の実業家たち」、中野明、2015、祥伝社新書
  4. ^ 「長春閣鑒賞」第1集~第6集、川崎芳太郎編集、1914、国華社
  5. ^ 『官報』第1437号「叙任及辞令」1888年4月18日。
  6. ^ 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
  7. ^ 『官報』第104号「叙任及辞令」1912年12月4日。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]