川崎芳太郎
川崎 芳太郎(かわさき よしたろう、1869年2月17日(明治2年1月7日) - 1920年(大正9年)7月13日)は、明治から大正にかけての実業家。神戸川崎銀行頭取、川崎汽船社長などを歴任し、川崎商船学校(後の神戸商船大学、現・神戸大学海洋政策科学部)を創設した。旧姓は鬼塚。川崎造船所(現・川崎重工業)の創設者川崎正蔵の甥[1][2]。男爵。
人物・経歴
[編集]鹿児島生まれ[1]。鬼塚善兵衛の長男[3]。1886年(明治19年)に叔父の川崎正蔵が創設した神戸の川崎造船所の事務員になり[1][2]、1890年(明治23年)駐米公使・高平小五郎の援助により[4]、米国ニューヨークのイーストマン商業学校に留学[1][2]。
1892年(明治25年)に川崎正蔵の養嗣子となった[1]。
1896年(明治29年)に株式会社川崎造船所が発足すると副社長に就任する。性格は温厚で、社長の松方幸次郎を補助した[1]。
その後、1905年(明治38年)神戸川崎銀行頭取も務め[4]、1917年(大正6年)に、正蔵の遺志により芳太郎が川崎商船学校(後の神戸商船大学、現・神戸大学海洋政策科学部)を創立した[2][5]。
1919年(大正8年)には川崎汽船、国際汽船、大福海上の各社長に就任[1]。福徳生命の重役も兼任する[4]。
1920年(大正9年)1月13日これまでの功績により男爵の爵位を叙爵[7]。没後、長男の武之助が襲爵した[8][9]。
養嗣子としての芳太郎の生き方は「予が一代は堪忍を以て一貫の主義となすべし」という氏の言葉に残されている[1]。
その他
[編集]1917年には(大正6年)には、神戸の布引山下に川崎芳太郎邸の建築が計画され、ジョサイア・コンドルにより設計案が作られた。和風部分は実現されたが、コンドルの手による洋館は実現される前に施主の芳太郎も設計者のコンドルも他界している[10]。
家族
[編集]- 実父・鬼塚善兵衛 ‐ 鹿児島出身。川崎正蔵の妹の夫。[11]
- 岳父・川崎正蔵[11]
- 妻・ちか ‐ 正蔵の二女[11]
- 長男・川崎武之助 ‐ 男爵。兵庫県多額納税者。岳父に侯爵嵯峨公勝。[12]
- 二男・川崎芳熊 ‐ 川崎総本店(川崎財閥の持株会社)代表、川崎造船所・川崎重工業重役、神戸新聞社・神戸オリエンタルホテル社長。東京帝国大学法学部卒業後、約3年間欧米遊学、帰国後川崎造船所入社。岳父に岡部長職。娘に小説家の久坂葉子がいる[13]。
- 長女・福子(1898-1982) ‐ 成瀬正一 (フランス文学者)の妻。[11]
- 三男・川崎金蔵(1900-1978) ‐ 日本生命保険常務、日生不動産会長、日生ビル興業社長。岳父に鉱山技師・崎川茂太郎。[11]
- 四男・川崎芳虎(1902-1953) ‐ 岳父に男爵山内豊静。[11]
- 五男・川崎芳治(1905-1971)[11]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」 『川崎芳太郎』 ‐ コトバンク
- ^ a b c d 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 『川崎芳太郎』 ‐ コトバンク
- ^ 『人事興信録 5版』(人事興信所、1918年)か65頁
- ^ a b c 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」 『川崎芳太郎』 ‐ コトバンク
- ^ 神戸大学 『海事科学部の前身』(2023.10.23確認済み)
- ^ 徳富蘇峰記念館 『川崎 芳太郎』
- ^ 『官報』第2231号、大正9年1月14日。
- ^ 『官報』第2400号、1920年8月2日
- ^ 川崎武之助(第8版 昭和3(1928)年7月 の情報) - 『人事興信録』データベース
- ^ 産業技術史資料データベース 『川崎芳太郎邸(図面1枚)』
- ^ a b c d e f g 男爵川崎武之助『現代華族譜要』1929
- ^ 川崎武之助『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 連載 神戸秘話 ⑯ 神戸とオリーブと小妖精と父 久坂葉子と父 川崎芳熊 - 月刊 神戸っ子
日本の爵位 | ||
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