小笠原長清
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 応保2年3月5日(1162年4月20日) |
死没 | 仁治3年7月15日(1242年8月12日)[1] |
改名 | 豊松丸、加賀美長清、小笠原長清 |
別名 | 次郎 |
官位 | 正四位下[1]、信濃守[1]、左京大夫[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 阿波国守護[1] |
氏族 | 甲斐源氏加賀美氏、小笠原氏[1] |
父母 | 父:加賀美遠光[1]、母:杉本義宗の娘[注釈 1] |
兄弟 |
秋山光朝、長清、南部光行、加賀美光経、 大弐局 |
妻 | 上総広常の娘、藤原邦綱の娘?[2]、家女房 |
子 | 小笠原長経[1]、八代長光、小田清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、他 |
小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。
略歴
高倉天皇に滝口武者として仕えた父・遠光の所領のうち、甲斐国巨摩郡小笠原郷(現・山梨県北杜市明野町小笠原)を相続して、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。
ただし、『吾妻鏡』において長清が小笠原を名乗るのは元暦元年(1184年)以降で、建久6年(1195年)までは加賀美と小笠原の名乗りが混在している。なお、巨摩郡の小笠原という地名は現在の山梨県内に2か所知られ、長清が領した小笠原は今の南アルプス市小笠原にあった原小笠原荘と今の北杜市明野町小笠原にあった山小笠原荘のどちらにあたるかで研究者の間で論争になったが、古文書の研究から前者が正しいとされている[3]。
源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り、治承4年(1180年)の富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えられる[4]。また同じく知盛の被官であった橘公長らを鎌倉御家人に引き入れる仲介を担った[5]。
治承・寿永の乱において戦功を重ね、養和元年(1181年)2月1日には頼朝の仲介で有力御家人であった上総広常の娘を妻としている。なお、2年後に広常は頼朝に誅殺されるが、長清夫妻は罪に問われず長清の妻が父・広常の所領の一部を継承している[3]。その後、文治元年(1185年)、父・遠光は源頼朝の推挙で信濃守に任じられ、のちに長清も信濃守に補任された。また武田信光・海野幸氏・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。
建久5年(1194年)、頼朝が東大寺再建の木材調達と造像を御家人に賦課した際には多聞天を担当している[6]。
頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、建仁3年(1203年)9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は二代将軍源頼家・三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。
建保4年(1216年)には頼朝の菩提供養の御願寺の建立を実朝に申請し、許可を得ている[7]。
承久3年(1221年)6月の承久の乱では、幕府方の東山道大将軍として子息8名と共に京へ攻め上って功績を挙げ、「七ケ国管領」となる。同年7月、京方の公卿源有雅を甲斐山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑している。同年に阿波国守護となる。
『吾妻鏡』に拠れば長清は弓馬の術に優れ、建久4年(1193年)3月21日に鎌倉の鶴岡八幡宮にへ奉納された流鏑馬においては22人の射手が選ばれているが、この時に長清は武田信光とともに射手を務めたという[8]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373。
- 花岡康隆『信濃小笠原氏』 第18巻、戎光祥出版〈中世関東武士の研究〉、2016年1月。ISBN 9784864031837。 NCID BB20390099。全国書誌番号:22686218。
- 山梨県編、五味文彦「武士と庶民の生活」『山梨県史』 通史編 2 中世、山梨県、2007年3月。ISBN 9784897108353。 NCID BN15884946。全国書誌番号:21274883。