宇津木麗華

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
オリンピック
女子 ソフトボール
2000 ソフトボール
2004 ソフトボール

宇津木 麗華(うつぎ れいか、1963年6月1日 - )は、ビックカメラ女子ソフトボール高崎所属選手(監督)。身長170cm。右投げ左打ち。北京市長辛店第三中学校群馬女子短期大学卒。来日前は中国代表として活躍。

中国北京出身。中国名は任彦麗

来歴[編集]

3番目の末っ子として誕生した。幼少期は文化大革命の混乱期だったが、きまじめな軍人の父から厳しい教育を受けた。「ウチのお父さんは“悪いことは絶対にしてはいけない”“人に迷惑をかけてはいけない”というのを口癖にしていたので、私自身もまっすぐな性格に育ちました」と宇津木はしみじみ言う。スポーツ好きの一面を持っていた父の影響もあり、麗華監督も小学校から中学にかけてのころは陸上競技に没頭していた。「やり投げの選手だったんですが、指導してくれた先生の旦那さんがサッカーのコーチだったんで、女子サッカーに誘われたこともあります」と本人も笑う。しかし、彼女が興味を持ったのはサッカーではなく、ソフトボールという未知なる競技。14歳のとき北京のチームの指導者がやり投げの大会に出場していた麗華監督を見初め、「やってみないか」と声をかけたのが始まりである。その誘いに応じ、練習に行ってみると、打撃もピッチングもとにかく面白い。宇津木は一瞬にしてソフトボールの魅力にはまった[1]

ソフトボールに転向して1年後、のちに家族同然の間柄となる宇津木妙子(以下、妙子)と出会う。「キャプテンでサードだった妙子さんは小柄なのによく打つ選手で、すごい人だと驚きました。そのときはただ横から見て憧れてただけだったんですが、中国ジュニア代表のキャプテンとして日本に遠征した18歳のとき、先輩から預かったお土産を妙子さんに渡して、初めて話ができました。当時は日本語が全然わからなかったんで、筆談で何とかコミュニケーションをとりましたね。中国は野球やソフトが日本ほど盛んではなく、優れた指導者がいなかったんで、妙子さんみたいな人に教えてもらえるのは本当にありがたかったです」と宇津木は若かりし日に思いをはせる。現役を引退して指導者に転身したばかりの妙子の方も麗華監督の頭抜けたソフトボールセンスを瞬時に感じ取ったようである。「15歳の麗華が人民服を着てこっちを見ていたのは記憶があります。初めて話した日本遠征のころから、自分で考えて判断できる頭のいい選手だと思っていました。実際、カナダのエドモントンで開かれた’81年世界ユースソフトボール選手権大会では打率6割という驚異的な数字を叩き出し、リーディングヒッターになってますからね」と妙子は若かりし日のエピソードを披露している[1]

妙子との交流は続き、25歳になった1988年、妙子を頼って来日。妙子の力強い援護射撃で、彼女が総監督を務めていたビックカメラの前身・日立高崎に入ることになったのだが、最初は問題が山積みであった。「麗華が日本に来たのは、忘れもしない’88年3月14日。パーマ頭でブルーのジャケットを着て、スーツケースを3つ抱えて空港に現れたんです(笑)。埼玉にある私の実家に連れていくとウチの母(恵美子さん)が手をついて“いらっしゃい”と挨拶した。彼女は目を丸くしていましたね。それから4~5年は埼玉と高崎を車で往復する生活を送りました。会社側は当初、“外国人選手は認めない”と頑なで、扱いも臨時職員的な待遇でしたが、麗華の打撃力が傑出していて1年で日本リーグ2部から1部に上がる原動力になったんで、すぐに正式採用の許可が下りました。月給は5万円。私のところに振り込まれるので、通帳をお母さんに渡して管理してもらっていました」と妙子は述懐する[1]

1994年、ソフトボールの日本リーグで三冠王達成。

1995年に帰化。元軍人の父には反日感情が少なからずあり、最初は娘の決断に反対していた。そこで宇津木は妙子を伴って北京へ赴き、「この人がいるから絶対に大丈夫」と必死に説得。承諾を取りつけることに成功した。「宇津木の名前を世界的に有名にします」とも約束して、尊敬する人から日本名の宇津木姓をもらったのである。当時32歳で、すでにベテランと呼ばれる年齢になっていたが、大きなリスクを冒して日本人になった以上、ソフトボールで恩返しするしかなかった。強い決意を胸に秘め、宇津木は2000年シドニー五輪へひたむきに走った[1]

2000年、主将として出場したシドニーオリンピックでは3連続本塁打の活躍でチームを銀メダルへと導いた。決勝で1-2という不覚を取り、銀メダルに終わってしまったが「3連続ホームランも自分の中ではただ頑張っただけ。結果的に金メダルも取れなかった。それなのに、日本に戻ってきたら空港に数えきれないほど大勢の人が集まって、力いっぱい激励してくれたんです。電車に乗っても、普通のおじいちゃん、おばあちゃんから“感動したよ”“あなたが必要だからもっと頑張ってください”と言われて、五輪の影響力の大きさを実感しましたね」と後に宇津木は振り返る[1]

2003年、ルネサスエレクトロニクス高崎選手兼任監督に就任[1]

2004年のアテネ五輪ソフトボール日本代表でも「宇津木ジャパン」の主砲として活躍。ピッチャーには22歳の上野由岐子、外野には20歳の山田恵里がいる中で宇津木は存在感を放った。「いつもサードでどっしり構えていて、打たれると“なんでそんなところに投げたの”と怒られてばかりでした」と上野が言えば、山田も「“プレッシャーは自分たちが背負うから、とにかく思い切ってプレーしなさい”と言ってくれたので、すごく心強かったです」と懐の大きさに感謝していた。この大会で銅メダル獲得後、現役を引退。日立&ルネサス高崎の監督に専任[1]

特にアテネオリンピックでは宇津木妙子のマネージメント的役割も兼務していた。現役引退後は監督として、宇津木妙子と共に後進の育成に努める[1]

2008年北京オリンピックで念願の金メダルを取る[1]

2011年日本代表監督(ソフトボール協会では「ヘッドコーチ」の肩書)に就任。翌2012年の世界選手権で42年ぶりの優勝をもたらす[1]

2014年第17回アジア競技大会、韓国仁川(インチョン)大会、全日本代表監督。

2015年よりビックカメラ女子ソフトボール高崎に所属[1]

エピソード[編集]

  • 宇津木と妙子の母は本当の親子のように仲が良く、宇津木の得意料理である餃子を一緒に作ったり、定期的に連絡をとったりと、心温まる交流が長く続いた。その母が2001年に死去した時も、直前に電話で話したのは妙子ではなく、宇津木だったという[1]
  • 妙子は2017年のインタビューで、来日したばかりの宇津木に関して「その後、シニアに上がってきて、日中両国の試合があるたびにコミュニケーションをとりましたけど、彼女は本当に一生懸命、日本語を覚えようとしていた。手紙も送ってくれました。私のほうもロクに話ができないのに国際電話をかけて、月20万円の電話代を請求されたこともあったかな。父にはものすごく怒られましたけどね(苦笑)」と明かしている[1]

上野由岐子とのエピソード[編集]

上野由岐子のことは九州女子高校(現・福岡大学付属若葉高校)時代より目をかけており、宇津木は後に週刊誌のインタビューで「アテネで金メダルを逃した原因を考えると、やはりピッチャーでした。もっとしっかりしたピッチャーがいれば私たちはより大きな自信を持って戦えたんじゃないかと感じたんです。そのためにも上野を世界一のピッチャーに育てて、自分の母国・中国で開かれる北京五輪を託すしかない。そう考えて、私は上野をアメリカに連れていきました」と答えている。その上野がその後、北京を最後にソフトボールが五輪種目からはずれたうえケガも重なり、燃え尽き症候群のような状態に陥った際には上野をなだめ、励まし、勇気づけながら、ソフトボールへの思いを取り戻させようと試みた。2010年世界選手権(ベネズエラ)を回避したいと上野が申し入れてきたときも「それならいいよ。すべて私が背負うから。逆に行きたくても行かせないよ。あなたは世界一なんだから、嫌なことを背負うために自分が横にいるから」と受け入れ、さまざまな批判の矢面にも立った。「自分の気持ちを尊重してもらいながら、うまく引っ張ってもらえました。麗華監督じゃなかったら、自分もここまで頑張り続けられなかった」と、上野自身も宇津木の存在感の大きさを改めて痛感したという[1]

ソフトボール論[編集]

結果を出すためには投げる・打つ・守る・走るといった技術面を磨き上げるのはもちろんのこと、人としての力を高めなければならないが、とりわけ宇津木は「人間力」を重視し、その必要性をミーティングでも口が酸っぱくなるほど選手たちに言い続けている。「ソフトボールはひとりじゃできないしチーム全体で戦えない。そのために各自が謙虚になって努力することをすすんでやらないといけない。常に周りを見て、目配り、気配りしながら、何をすべきかを考えられる人間力の高い選手がそろわないと本当に勝てるチームにはならない。私も麗華にもそういう信念があります。今の選手たちを見ると、技術は高いけど、自ら行動を起こしたり、チームを引っ張ろうとする力が弱い。麗華はすべてにおいて自分からアクションを起こして学ぼうとする意欲があった。そういう力を選手につけさせるのは、簡単なことではないと思います」と妙子は選手を操る難しさを口にする[1]

評価[編集]

妙子は後年のインタビューで「2012年世界選手権決勝のアメリカ戦も、最後にスクイズで勝ったんですけど、麗華は2ストライク・3ボールという追い込まれた状況でバントをさせるという大博打をやってのけた。根っからの勝負師なんです。バントやヒットエンドランなど常日ごろから選手にいろんなことをやらせてますし、ホームランだけじゃ勝てないこともよくわかっている。現役時代の彼女も何でもできる怖いものなしの選手だった。自分自身の経験を存分に生かしているんだと思います。一方で緻密さも持ち合わせている。それも選手時代から変わりません。作戦ノートには選手の一挙手一投足や相手の特徴などがこと細かく書いてある。試合前には毎回のように私にオーダーを送ってきますけど、“大丈夫だよ”と前向きに返してます。私に太鼓判を押されるとどこか安心するんでしょう。そんな一面もありますけど、あらゆる面で努力を惜しまない指導者だと感じます」と評価している[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 週刊女性2017年6月20日号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]