宇津木麗華

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オリンピック
女子 ソフトボール
2000 ソフトボール
2004 ソフトボール

宇津木 麗華(うつぎ れいか、1963年6月1日 - )は、中国北京出身の日本国籍ソフトボール選手・指導者[1]。帰化前の名前は任彦麗(ニン エンリ)。ビックカメラ女子ソフトボール高崎監督。身長170cm。右投げ左打ち。北京市長辛店第三中学校群馬女子短期大学卒。日本にやってくる前はソフトボール中国代表として活躍した。その後25歳で来日し、ソフトボール日本リーグ三冠王達成の翌年に帰化

来歴[編集]

3番目の末っ子として誕生した。幼少期は文化大革命の混乱期だったが、きまじめな軍人の父から厳しい教育を受けた。スポーツ好きの一面を持っていた父の影響もあり、小学校から中学校にかけてのころは陸上競技のやり投に没頭していたが、14歳の時にソフトボールを始めた[2]。ソフトボールに転向して1年後、のちに家族同然の間柄となる宇津木妙子(以下、妙子)と出会った[2]

妙子との交流は続き、25歳になった1988年、妙子を頼って来日。同年、妙子が総監督を務めていたビックカメラ高崎の前身・日立高崎に入団し、1年で日本リーグ2部から1部に上がる原動力となった[2]。1994年、ソフトボールの日本リーグで三冠王達成。

32歳だった1995年には日本に帰化し、妙子から日本名の宇津木姓をもらった。元軍人の父には反日感情が少なからずあり、最初は娘の決断に反対していたが、妙子の説得により父からの承諾を取りつけた[2]

2000年、主将として出場したシドニーオリンピックでは3試合連続本塁打の活躍でチームを銀メダルに導いた[2]

2003年、ルネサスエレクトロニクス高崎選手兼任監督に就任[2]

2004年のアテネ五輪ソフトボール日本代表でも「宇津木ジャパン」の主砲として活躍。投手には22歳の上野由岐子、外野には20歳の山田恵里がいる中で、41歳の宇津木は存在感を放ち、チームは銅メダルを獲得した。オリンピック後に現役を引退し、日立&ルネサス高崎の監督に就任した[2]

特にアテネオリンピックでは宇津木妙子のマネージメント的役割も兼務していた。現役引退後は監督として、宇津木妙子と共に後進の育成に努める[2]

2011年、日本代表監督(ソフトボール協会では「ヘッドコーチ」の肩書)に就任。翌2012年の世界選手権で42年ぶりの優勝をもたらす[2]

2014年、韓国・仁川(インチョン)で行われた第17回アジア競技大会のソフトボール全日本代表監督を務める。

2015年よりビックカメラ女子ソフトボール高崎に所属[2]

2021年7月、2020年東京オリンピックにおいて女子ソフトボール史に残る金メダル獲得に導いた[3]。11月24日、群馬県の県民栄誉賞を受賞[4]

2021年開催の東京オリンピック ソフトボール女子日本代表(SOFT JAPAN)監督としてチームを金メダルに導いた功績と栄誉をたたえ、2021年12月1日、群馬県高崎市の高崎下大類郵便局前に記念のゴールドポスト(第15号)が設置された(ゴールドポストプロジェクト[5])。

エピソード[編集]

  • 麗華と妙子の母は本当の親子のように仲が良く、麗華の得意料理である餃子を一緒に作ったり、定期的に連絡をとったりと、心温まる交流が長く続いた。その母が2001年に死去した時も、直前に電話で話したのは妙子ではなく、麗華だったという[2]
  • 妙子は2017年のインタビューで、来日したばかりの麗華に関して「その後、シニアに上がってきて、日中両国の試合があるたびにコミュニケーションをとりましたけど、彼女は本当に一生懸命、日本語を覚えようとしていた。手紙も送ってくれました。私のほうもロクに話ができないのに国際電話をかけて、月20万円の電話代を請求されたこともあったかな。父にはものすごく怒られましたけどね(苦笑)」と明かしている[2]

上野由岐子とのエピソード[編集]

上野由岐子のことは九州女子高校(現・福岡大学付属若葉高校)時代より目をかけており、宇津木は後に週刊誌のインタビューで「アテネで金メダルを逃した原因を考えると、やはりピッチャーでした。もっとしっかりしたピッチャーがいれば私たちはより大きな自信を持って戦えたんじゃないかと感じたんです。そのためにも上野を世界一のピッチャーに育てて、自分の母国・中国で開かれる北京五輪を託すしかない。そう考えて、私は上野をアメリカに連れていきました」と答えている。その上野がその後、北京を最後にソフトボールが五輪種目からはずれたうえケガも重なり、燃え尽き症候群のような状態に陥った際には上野をなだめ、励まし、勇気づけながら、ソフトボールへの思いを取り戻させようと試みた。2010年世界選手権(ベネズエラ)を回避したいと上野が申し入れてきたときも「それならいいよ。すべて私が背負うから。逆に行きたくても行かせないよ。あなたは世界一なんだから、嫌なことを背負うために自分が横にいるから」と受け入れ、さまざまな批判の矢面にも立った。「自分の気持ちを尊重してもらいながら、うまく引っ張ってもらえました。麗華監督じゃなかったら、自分もここまで頑張り続けられなかった」と、上野自身も宇津木の存在感の大きさを改めて痛感したという[2]

評価[編集]

妙子は後年のインタビューで「2012年世界選手権決勝のアメリカ戦も、最後にスクイズで勝ったんですけど、麗華は2ストライク・3ボールという追い込まれた状況でバントをさせるという大博打をやってのけた。根っからの勝負師なんです。バントやヒットエンドランなど常日ごろから選手にいろんなことをやらせてますし、ホームランだけじゃ勝てないこともよくわかっている。現役時代の彼女も何でもできる怖いものなしの選手だった。自分自身の経験を存分に生かしているんだと思います。一方で緻密さも持ち合わせている。それも選手時代から変わりません。作戦ノートには選手の一挙手一投足や相手の特徴などがこと細かく書いてある。試合前には毎回のように私にオーダーを送ってきますけど、“大丈夫だよ”と前向きに返してます。私に太鼓判を押されるとどこか安心するんでしょう。そんな一面もありますけど、あらゆる面で努力を惜しまない指導者だと感じます」と評価している[2]

脚注[編集]

  1. ^ 五輪ソフトボール 捕手の清原、韓国から国籍変更「最後までチームのために全力で」(神戸新聞NEXT)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2021年7月20日閲覧。 “自身も中国から国籍を変えた宇津木麗華・日本代表監督(58)は「オリンピックへの思いに感動した。彼女は人生を懸けていると分かった」と振り返る。”
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 週刊女性2017年6月20日号
  3. ^ ソフト宇津木監督「正直言うと怖かった。国民の皆さんの支持が1番の力になった」(2021年7月27日)西日本スポーツ、2021年7月28日閲覧
  4. ^ ソフト五輪代表に県民栄誉賞 群馬”. 産経ニュース (2021年11月24日). 2021年11月24日閲覧。
  5. ^ ゴールドポストプロジェクト”. 首相官邸 オリンピック・パラリンピックレガシー推進室. 2022年6月9日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]