太巻き祭り寿司
太巻き祭り寿司(ふとまきまつりずし)は、九十九里平野南部の山武・長生郡市を中心とし千葉県全域で作られる郷土料理である[1][2]。ふるさとおにぎり百選と農山漁村の郷土料理百選に選定されており[3][4]、名称は太巻き寿司であるが、雑誌などの紹介記事では、「太巻き祭り寿司」、「房総巻き」、「房総太巻き寿司」、「飾り巻き寿司」、「祭りずし」など様々に呼ばれる[3][注 1]。
概要[編集]
農家など一般家庭に伝えられてきた寿司の一種であり、歴史は寛政年間(1789年-1801年)頃まで遡り、イワシを追いかけて来た紀州の漁師の弁当のめはりずしをそのルーツとする説もある[3][5]。この地方は古くからの稲作地帯であり、また九十九里浜では漁業も盛んであったことから発達し、冠婚葬祭などのご馳走、あるいは弁当などとして食べられ、もてなし料理にも使用される[2][5]。
切り口が金太郎飴のように華やかで楽しめるようになっており、切り口に絵柄や文字が出るようにするため、直径10センチメートルの太さになるものも存在する。絵柄は、椿、あやめ、チューリップなどが定番だが、パンダやアンパンマンなどのキャラクター、飛行機や新幹線など、こどもが喜ぶものならどのようなものでも考え出す人はいる。楽しいものにしようとすればその分手間がかかり、コスト高になるため売り物には向かないが、商業主義全盛の昨今その良さが見直されており、作ることを楽しむ料理でもある[1][2]。
作り方[編集]
- 飯を炊き、炊けたらすぐに合わせ酢を混ぜ冷ましておく。
- 薄焼き卵を作る。
- 巻き簾の上に海苔を敷き、酢飯を適度に広げる。
- 中央に溝を作るように酢飯で仕切りを作る。そこに薄焼き卵を酢飯に合わせて敷く。
- 中央の溝の部分に桜でんぶを入れ、仕切りの外側には高菜を敷く。
- 巻き簾の両脇をもち、強く巻き寄せ、残りの酢飯は被せて巻く。
- 最後に強く巻き、食べやすく切り分けて出来上がり。
切り口に様々な模様を作るため、作る絵柄によって使用する材料や巻き方が異なり、同じ絵柄でも地域や家庭によって違いがある。また、薄焼き卵が厚めになっている場合があり、敷いてあるのは卵でなく海苔であったり、高菜を使わずに胡瓜や干瓢を入れたりするなどのバリエーションがある。外側が黒い海苔巻きより、黄色い薄焼き卵巻きの方がより華やかになる[5]。
高菜や薄焼き卵が使われるなど材料や作り方が一般の寿司とは若干異なるが、江戸時代に海苔は農家が手に入れられるようなものではなく、自家栽培の高菜が使われた[注 2]。その後も入手し難くいことに変わりなかった海苔ばかりでなく、飼っているニワトリの産んだ鶏卵で作った薄焼き卵も使われ、特に外側を巻くのに薄焼き卵が使われた。現在は干瓢が使われるが、これも昔は干した芋茎が使われた[注 3]。しかし、貴重品であった砂糖は多めに使われた。もてなし料理であることに加え、糖分の作用でデンプンの老化を遅らせすし飯が固くなるのを防ぎ、日持ちを良くするのに役立つからである[1]。お客のお土産に持たせ、持ち帰ったものを翌日に食べることもでき、何かのイベントの時に作られることが多いが、前日に作っておけば当日は作り手もイベントに参加できる利点もある。
内房海岸の海苔[編集]
千葉県の海苔づくりは、江戸時代末期、江戸・大森の海苔養殖業者・近江屋甚兵衛(1766年-1844年)が、1822年(文政5年)に君津の人見部落の名主の力を得て始めたのが起源とされる[6]。1894年(明治27年)の海苔解放争議 を経て養殖は富津から北上し、木更津では1896年(明治29年)に、現市原の五井村で1909年(明治42年)から海苔養殖が始まり、青柳、松ヶ島、椎津、八幡へと広がった[7]。内房海岸部では半農半漁的な農村生活が戦後の高度経済成長期まで営まれていた。このことから、この地域の海苔等を用いた文様表現の始まりは早くても明治後期〜大正以降と推定されるが、その詳細は定かではない。なお、太平洋の荒波にさらされる外房では海苔は採れない。しかし大正末〜戦前には既にシンプルな文様有の太巻き寿司が(上総外房に)伝播していた可能性がある[8]。千葉県の太巻き寿司の特徴は絵柄や文字などの文様が海苔や干瓢を用いて表現されていることである。外巻き具材としては海苔以外に薄焼き卵があるが[注 4]、基本的に海苔なしでは内側の文様は表現できず、かつて上総海苔の一大生産地であった富津〜市原の内房海岸部でも、現在ではきれいな文様の太巻き寿司が盛んに作られている。
大東まつり寿司[編集]
沖縄県の大東諸島にも、卵焼きで巻くなど千葉県のものと酷似した太巻き寿司が存在する。大東島は主として八丈島と沖縄からの移民によって開拓された島であるが(少数だが鹿児島県、静岡県、山口県、長野県、千葉県など日本本土からの移住者もいた[9]。沖縄返還の1972年にも千葉県出身の島民が存在している[10])、関連性や伝搬の経緯などは不明である。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 『母と子の楽しい太巻き祭りずし作り方教室』 121-124、148-153頁
- ^ a b c 千葉の郷土料理-太巻き寿司/JA山武郡市
- ^ a b c く太巻ずし 千葉県/ うちの郷土料理 - 農林水産省
- ^ 農山漁村の郷土料理/農林水産省
- ^ a b c ちばのふるさと料理-太巻き寿司/千葉県
- ^ あきらめない熱意が上総ノリを誕生させた/自治労連おどろき・おもしろミュージアム
- ^ 鶴岡信男『市原のたべもの・味100年』技報堂、1988年、150頁
- ^ 日本の食生活全集編集委員会編『聞き書 千葉の食事』農文協、1989年、187頁、296頁、305頁。
- ^ 進 尚子「<研究ノート>複数のオキナワ・アイデンティティ 沖縄南大東島の事例」『沖縄文化研究』第44巻、法政大学沖縄文化研究所、2017年3月31日、219頁、NAID 120006027961。
- ^ 平岡昭利「大東諸島の開拓とプランテーション経営 その歴史的展開を中心にして」『人文地理』第29巻第3号、1977年6月28日、16頁、NAID 130000996155。
参考文献[編集]
- 『房総のふるさと料理』千葉県農業改良協会、 1987年
- 龍崎英子 『母と子の楽しい太巻き祭りずし作り方教室』 東京書店、2009年、ISBN 978-4-88574-976-6