大阪府立清水谷高等学校

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大阪府立清水谷高等学校
Osaka Prefectural Shimizudani High School.JPG
過去の名称 大阪府第一高等女学校
大阪府清水谷高等女学校
大阪府立清水谷高等女学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪府の旗 大阪府
併合学校 大阪市立第二高等女学校
設立年月日 1900年明治33年)4月25日
1901年4月15日
創立記念日
開校記念日
4月28日6月12日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
高校コード 27143J
所在地 543-0011

北緯34度40分29.5秒 東経135度31分29.3秒 / 北緯34.674861度 東経135.524806度 / 34.674861; 135.524806座標: 北緯34度40分29.5秒 東経135度31分29.3秒 / 北緯34.674861度 東経135.524806度 / 34.674861; 135.524806
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大阪府立清水谷高等学校(おおさかふりつ しみずだにこうとうがっこう、: Osaka Prefectural Shimizudani Senior High School)は、大阪府大阪市天王寺区にある公立高等学校1900年明治33年)、府立で最初の高等女学校として創立した。

概要[編集]

同校は、最初の府立高女「大阪府第一高等女学校」として1900年明治33年)9月5日、文部省告示第194号[1]で設置を認可された。その後、同年5月に開校の「大阪市立第二高等女学校」を合併し、翌1901年3月12日「大阪府清水谷高等女学校」と改称(文部省告示第50号)。4月17日に入学式を行った。この時、市立第二高女の生徒も入試を経て清水谷高女の生徒となっている。

創立時、義務教育ではない高等女学校(修業4年間、後に5年間)への進学率は2%[2]で、昭和期になっても1935年で16.5%[3]という時代のため、限られた船場資産家の令嬢が通う名門[4][5]として、文部省も官報で紹介する[6]など「日本第一の学校として称えられ」、第一回卒業生から早くも5人が日本女子大学に進学した。

教師たちは「日本の清水谷」「世界の清水谷」と発破をかけ[7]早稲田大学創設者で内閣総理大臣を務めた大隈重信伯爵若槻禮次郞男爵、近代日本経済の父渋沢栄一男爵、東京帝国大学総長を務めた物理学者山川健次郎男爵、国際連盟事務次長を務め著書『武士道』で知られる新渡戸稲造らが来校し、将校や芸術家、外国人も含め少なくとも各界110人が講演[8]。知的刺激を与え続けた結果、東北帝国大学(現・東北大学)に進み女性数学者の先駆けとなった森本治枝など、多くの才媛を輩出した。大阪市長池上四郎も娘の紀子秋篠宮悠仁親王殿下の曾祖母)を通わせ、後継市長で「大阪の父」と呼ばれた關一も娘3人を通わせている[9]

また、バスケットボールテニスの全国大会で優勝したり、梶山悦子(鎌倉悦子)が1932年ロス五輪競泳飛込競技で女子高飛込6位、女子飛板飛込7位と入賞。1903年の第5回内国勧業博覧会では皇族の前でテニスや卓球の模範演技を行したりしており、スポーツ活動も盛んな文武両道だった[10]

太平洋戦争第二次世界大戦)後の1948年昭和23年)学制改革により新制高校の「大阪府立清水谷高等学校」となり、近隣の大阪府立高津高等学校旧制府立高津中学校)と生徒・教職員を交流(男女共学化)。平成を経て令和の現在に至る。

教育方針[編集]

清水谷高校は3学期制を採用し、50分間授業を実施している。

過去、府立で最も早く1995年平成7年)度から65分授業を、2学期制(前期・後期)も3例目[11]で導入[12][8]。半期で単位認定する科目も開講していたが、2011年から「深く考える力」と集中力を育成するため、再び3学期制と50分授業を導入した[13]

7時限目の開講などにより、他校と比較して多くの授業時間を確保し、各学期末に学習の「振り返りHR」活動も設定するなど「質量ともに充実した授業を展開」しており、さらに授業レベルを超えた高み・目標への「背伸び」を生徒に楽しんでもらう[14]

部活動、学級・HR、自治会[編集]

授業のほかにも、「『愛と恕』他者を愛し他者を心から思うという初代校長大村忠二郎が掲げた精神」[15]の校訓のもと「未来を育み120年」の心で、部活動ホームルーム(HR)活動自治会(生徒会)活動にも注力している。

「『普通』を学び文武両道 各賞に輝く清水谷生」を掲げる部活動は、運動系17と文化系15のクラブがあり、生徒の9割近くが入部。「部活動を通じて身につけた協調精神や礼儀・気力・体力そして先輩後輩関係で培われた人間力は、進路決定の際に大きな力を発揮する」[16]

HR活動では、行事を生徒自身が企画立案し運営。各クラスの学級・総務委員が週1回、各クラスの状況を情報交換し学年全体の案を作成。ホームルーム合宿(修学旅行)を始め、各行事の叩き台を考える[17]

「自分を見つめ、磨く楽しさ」を掲げる自治会(生徒会)活動では、各HR活動の延長で「自主自立をモットーとして」記念祭(体育祭・文化祭)を企画・実施している[18]

図書室活動では、部活動的「学校図書委員」とHR活動的「学級図書委員」で運営され、「資料センター」の役割と、生徒の「文化的」発達を促す「文化センター」の役割を担当。図書室には約3万冊があり、高等女学校時代からの蔵書もある[19]

「清水谷ブルー」セーラー服[編集]

女子の制服セーラー服で、大阪で最初に導入。『清水谷ブルー』と呼ばれる色の襟カバーを付けた冬服は、NHK(日本放送協会朝ドラなど幾度もテレビドラマに登場し、在校生や卒業生は『清水谷ブルー』を誇りに思っている[20]。このセーラー服を取材した昭和初期の大阪新聞は、「清水谷に流れを汲む府立は大同小異」と題した記事で「府立で制服の規定された元祖は実に清水谷高女」と報じている[21]

男子の制服は標準的な学生服で、冬は詰襟である。

沿革[編集]

略歴[編集]

校地は古代の前期難波宮の一角(南限)で朱雀大路の近くと推定され[22]戦国時代石山本願寺寺内町豊臣家の下屋敷、秀吉の茶亭があった場所。江戸時代大坂城代松平忠明の下屋敷などがあり、城代直轄地の「清水谷屋敷」と呼ばれていた[7]

明治時代に日本女子大学の創立者・成瀬仁蔵が大学校予定地として「五千余坪(1万6500平方メートル余)」を購入した[23]が、女子大は東京目白に開設が決まったため[24]、清水谷の地に高等女学校を設置となった[8]

1899年(明治32年)勅令高等女学校令公布に伴い、翌1900年2月に府知事・菊池侃二が『大阪府教育十カ年計画』を策定し、都心部(大阪市内)の中等教育について、府は普通教育学校を中心に運営し、市は実業学校を中心に運営することを原則とした[25]。このため、府が府立の第一と第二の高女2校を新設し、一元的に運営することとなったが、市立高女(現・大阪府立大手前高等学校)が「法令規定の人員(生徒数)を超過」したため、市立第二高女が計画されていた。これが「経済上不得策」で「府立及ひ市立を合併」すべきと指摘され、11月17日の大阪府会市部会で建議となった。検討の結果、翌1901年2月21日に市立第二高女の校長大村忠二郎へ府第一高女の校長兼務を発令し、3月5日に市立2高女を府へ引き継ぐ案を大阪市会で可決[26]。文部省3月30日付の告示(第78号)で、市立2高女とも廃校となった。

2週間後の大阪府告示(4月15日付の第105号)で「大阪府清水谷高等女学校」と「大阪府中之島高等女学校」の開校が告げられ、清水谷は4月17日に、中之島は2日遅れて19日に入学式を挙行した[26]。清水谷は6月12日に開校式を開き、翌1902年の同日に「開校一周年記念式」を開催。1906年の同日に「開校五周年記念祝典」を、1911年の同日に「開校十周年記念式典」を開くなど、以後6月12日を「開校記念日」として5年おきに「開校○○周年」行事を開催している[7]

校地は朝日ヶ丘と呼ばれる高台にあり、「元の新山稲荷神域として清浄の地」[7]のため、1924年の鉄筋コンクリート校舎への改築に合わせ[27]、25周年の記念として「清水谷神社」を創建。この社を「教育の中心として崇敬されていた」[7]り、学校行事として毎年真田山陸軍墓地への墓参を組み込み、「大阪の代表校」として「賢母教育を実施、将来の軍人の妻、有名夫人の育成に励んだ」[28]りして、注目を集めた。

清水谷高女の活動は、他の高女から眩しくみえており、三島郡茨木村(現・茨木市)の手芸学校を起源とした府立三島高女(現・大阪府立春日丘高等学校[29])の卒業生は「(都心に設置された)清水谷や大手前に足元にも及ばない田舎の女学校だった」とコンプレックス[30]告白[31]したほどである。

同窓会が学校を運営[編集]

周年行事では、ほかにも15周年の1916年大正5年)に同窓会「清友会」が「母校から半町(50メートル)南」に「大阪高等技芸女学校」を開校した[8]。高女に併設の「補習科」と同じく、卒業後に結婚し家庭に入る学生の家事裁縫経験不足を補う[7]目的だが、他校と異なり「修身其他の必修学科を加へて女子に一通りの教育を授け」ていた。ただし、補習科が1920年に再開された影響で経営難となったため翌1921年に清友会の運営から離れ[8]、設置者や校地の変遷を経て、現在の神戸第一高等学校兵庫県神戸市中央区)へ繋がっている。

1929年昭和4年)には天皇即位記念として、郊外農園を南河内郡恵我村(現・松原市)に開設。この農園は1938年中河内郡八尾町大字山本字東通南3丁目(現・八尾市山本地区)に移転した後、鉄道引込線用地として欲した大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)からの要請で、代替地の中河内郡曙川村大字柏村(現在の八尾市柏村町)に1942年に移転した。

この郊外農園に1941年紀元2600年記念および40周年記念の事業として「清友学園高等女学校」を、清友会が設置した。清友会は戦後、清友学園のうち高女を公立に移管(大阪府立清友高等学校)したが、引き続き清友幼稚園を同じ敷地で2020年令和2年)現在まで運営している。

なお、創立の翌1901年と起点とする周年行事について、学校沿革誌『清水谷六十年史』(1961年〈昭和36年〉)では「市立第二高女の開校式より始めなかったのが(府立で最初の高女を重視する)大村(初代)校長の本校教育に対する識見である」と説明。学校側も「“明治34年(1901年)を開校記念の年”としています」と説明している[32]。ただし、21世紀最初である2001年平成13年)の周年行事で、6月に同窓会が「開校100周年清友会記念祝賀会」を、同年10月に学校が「創立100周年記念式典」を開いた[33]影響で、創立と開校を混同し、学校や同窓会のウェブサイトなどでは1900年創立ととれる表現と1901年創立ととれる表現が混在している[34]

開校記念日は1958年(昭和33年)から「4月28日」となっている[35]。この日は、新制高校となって高津高校と生徒・教職員を交流した日(1948年)から10周年の記念日である。

年表[編集]

  • 1900年明治33年) - 4月24日、「大阪市立第二高等女学校」(大阪市南区千年町[36][37])を認可(文部省告示第132号)。5月27日、開校式を挙行[25]。6月11日、授業を開始。同年7月5日、大阪府参事会が府立の第一高女の校地をの東区清水谷東之町(現在地)と決定。9月5日、文部省が「大阪府第一高等女学校」設立を認可(文部省告示第194号)。10月、府第一高女の校舎が起工。11月17日、大阪府会の市部会が、市立第一高女の府移管の時期変更の件を建議
  • 1901年(明治34年) - 2月21日、文部省が大阪府第一高女校長兼市立第二高女校長大村忠二郎を発令。3月4日、市立第一と第二高女を明治34年度より府に移管の件を大阪市会が可決。2月7日、府第一高女の仮事務所を市立第二高女内に設置(府告示第60号)。3月12日、文部省が大阪府第一高等女学校を「大阪府清水谷高等女学校」に改称(文部省告示第50号)[38]。同年4月8日、入学試験[39]。4月15日、開校・授業を開始。4月17日、入学式を挙行。6月3日、「大阪府立清水谷高等女学校」に改称[40]

(各周年の学校沿革誌[7][26][8][33]を基に)

出身者[編集]

交通[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 官報明治33年)1900年9月5日
  2. ^ 「日本の成長と教育」(昭和37年度)[第2章 2 (3] - 文部科学省
  3. ^ 2. 高等女学校の日常生活:女学生の楽しみや悩み
  4. ^ 高等女学校の日常生活:女学の楽しみや悩み
  5. ^ エコノミスト2017年7月18日 名門高校の校風と人脈(248)清水谷高校(大阪府立・大阪市天王寺区)
  6. ^ 官報1903年12月30日
  7. ^ a b c d e f g 『清水谷六十年史』1961年(昭和36年)
  8. ^ a b c d e f 『清水谷百年史』2001年
  9. ^ 清友会について | 清友会 - 大阪府立清水谷高等女学校・大阪府立清水谷高等学校 同窓会
  10. ^ 大阪へのスポーツ移入とその発展について(第2報)戦前の高等女学校に焦点を当て - 大阪産業大学
  11. ^ 1994年度より導入した大阪府立布施高等学校大阪府立天王寺高等学校に次ぐ導入
  12. ^ それぞれ大阪府立大手前高等学校と同時
  13. ^ H30年度 学校パンフ - 大阪府立清水谷高等学校 平成30年度学校案内パンフレット
  14. ^ 教育課程 - 大阪府立清水谷高等学校「教育課程」ページ
  15. ^ 沿革・歴史 - 大阪府教育センター - 大阪府立清水谷高等学校「沿革・歴史」ページ
  16. ^ 部活動案内 - 大阪府立清水谷高等学校「部活動案内」ページ
  17. ^ ホームルーム活動 - 大阪府立清水谷高等学校「ホームルーム活動」ページ
  18. ^ 自治会活動 - 大阪府立清水谷高等学校「自治会活動」ページ
  19. ^ 図書館活動 - 大阪府教育センター - 大阪府立清水谷高等学校「図書館活動」ページ
  20. ^ 清水谷高校校歌 - 大阪府立清水谷高等学校「清水谷高校校歌」ページ
  21. ^ 大阪新聞1928年昭和3年)5月4日
  22. ^ [1]
  23. ^ 朝日新聞2016年平成28年)2月4日夕刊 大峯伸之のまちダネ(177)女子大予定地は高校に
  24. ^ 産経新聞2015年5月30日夕刊 【広岡浅子伝 九転十起の女(32)】資金惜しまず 東京に女子大開校]
  25. ^ a b 『新修大阪市史 第七巻』1994年
  26. ^ a b c 『清水谷八十年史』1981年(昭和56年)
  27. ^ 学校敷地の一部を玉造警察署移転地として割き、中層の鉄筋コンクリート校舎として改築することになった
  28. ^ [http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho148.htm 横山篤夫『戦時下の社会』(大阪民衆史研究 第49号、2001年)
  29. ^ 学校組合立養精高等小学校に併設された各種学校
  30. ^ 1961年(昭和34年)発行「春日丘50周年」誌に掲載
  31. ^ 日本農業史学会「農業史研究」2015年第49号 都市近郊農村における女子初等後教育の展開 大阪府郡部の高等小学校付設裁縫専修科に着目して
  32. ^ 清水谷高校の創立記念日
  33. ^ a b 『清水谷はひとつ』(110年記念誌)2011年(平成23年)
  34. ^ 学校沿革誌『清水谷百年史』(2001年)では、「創立以来同じ敷地」など清水谷高等女学校の開校時を起点とした1901年創立という前提で記述している一方、大阪市立第二高等女学校の存在を念頭に「1900年創立と考えてもよいのではないか」とも言及している
  35. ^ 清水谷高校の創立記念日
  36. ^ 現在の大阪市中央区東心斎橋2丁目
  37. ^ 大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎。この場所では6年後の1906年、大阪府立島之内高等女学校(現・大阪府立夕陽丘高等学校)も開校している。
  38. ^ 文部省に従い、大阪府が、設置順の番号で名付けた旧制中学校・高等女学校の校名を廃止し、所在地名からとった校名へ一斉に改称することを決定(大阪府告示第65号)
  39. ^ 大阪朝日新聞
  40. ^ 4月8日に文部省令第11条が出され、中学校・高等女学校の校名について「○○県立・○○郡立」などの形で設置者の名称を冠することが義務付けられた。命名規則に沿っていない既存校も6ヶ月以内の変更を指示しており、大阪府は同年4月に改称したばかりの「大阪府○○中学校/高等女学校」の校名を「大阪府○○中学校/高等女学校」へと一斉に再変更した
  41. ^ 1949年に大阪市立高津中学校に改称、1952年現大阪市立高津中学校の開校に伴い大阪市立夕陽丘中学校に改称
  42. ^ 高津(夕陽丘)中学校は独立校舎を建てて1951年8月24日に退去した

参考文献[編集]

  • 大阪府立清水谷高等学校百周年記念事業実行委員会『清水谷百年史』、2001年。
  • 大阪市史編纂委員会『新修大阪市史 第七巻』、1994年。
  • 大阪府立清友高等学校50周年記念事業実行委員会記念誌委員会『はばたく清友50年 - 創立50年の歩み』、1990年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]