南台 (相模原市)
南台 | |
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町丁 | |
小田急相模原駅 北口(2021年) | |
北緯35度31分15秒 東経139度25分24秒 / 北緯35.520706度 東経139.423242度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川 |
市町村 | 相模原市 |
行政区 | 南区 |
地区 | 相模台地区 |
人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1]) | |
人口 | 13,058 人 |
世帯数 | 6,975 世帯 |
面積([2]) | |
0.703868066 km² | |
人口密度 | 18551.77 人/km² |
設置日 | 1969年(昭和44年)7月1日 |
郵便番号 | 252-0314[3] |
市外局番 | 042(相模原MA)[4] |
ナンバープレート | 相模 |
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南台(みなみだい)は、神奈川県相模原市南区の町名。現行行政地名は南台一丁目から南台六丁目。住居表示実施済区域[5]。
地理[edit]
南区の南部に位置し、南西に相模台、北西に上鶴間、北東に旭町、南東に東林間、南に座間市相模が丘と接している。
地価[edit]
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、南台2-2-6の地点で19万9000円/m2となっている[6]。
歴史[edit]
当区域は元々「相模野」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。 江戸末期の嘉永6年(1853年)[7]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間宿村字北広野、新田宿村飛び地字見分塚の各村が境界を接する区域となった。 それらの村はやがて1889年(明治22年)の明治の大合併により同郡大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸、大字磯部)<現・南区相模台>、座間村(大字座間字北広野、大字新田宿飛び地字見分塚)<現・座間市相模が丘>となり、この南台は高座郡大野村大字上鶴間となった。 この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という篤志家が、1877年(明治10年)頃に私財を投じて、現・小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯のこの地、約二十町歩を購入し、当時の座間宿村の人々に開墾を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿の鈴木孫七以下数名が開墾に加わった。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場[8]であった「芝原・しばあら」[9]と呼ばれた此の地に、初めて人の手が入ったのは1877年(明治10年)であり、原野の開墾が進められた。 元々この地には府中みち(現・行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開墾地もこの街道に沿って耕された。鈴木孫七以下数名は座間河原宿から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年(明治13年)新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった[10]。
然るに農政上、明治時代になってから畑作地として開墾された土地を「新開」と呼び、すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言って区別した。
しかしながら各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めたが、その後、1894年(明治27年)になって開拓者たちは次々と府中みち(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人中の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった[11]。
1919年(大正8年)には14戸にまでなって府中みちと辰街道[12]の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが現在の小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった。
大きな転換点となったのは、1938年(昭和13年)の臨時東京第三陸軍病院の進出である。新磯村大字磯部字大野[13]に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町[14]と大野村との境界付近に病院前駅[15]を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路[16]周辺が市街化する契機となった。
1969年(昭和44年)7月1日、当該地域は南台と町名変更し住居表示を施行した。
世帯数と人口[edit]
2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
南台一丁目 | 786世帯 | 1,550人 |
南台二丁目 | 1,117世帯 | 2,220人 |
南台三丁目 | 1,373世帯 | 2,533人 |
南台四丁目 | 964世帯 | 1,807人 |
南台五丁目 | 2,173世帯 | 3,853人 |
南台六丁目 | 562世帯 | 1,095人 |
計 | 6,975世帯 | 13,058人 |
人口の変遷[edit]
国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
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1995年(平成7年)[17] | 10,747
|
2000年(平成12年)[18] | 12,405
|
2005年(平成17年)[19] | 12,246
|
2010年(平成22年)[20] | 12,461
|
2015年(平成27年)[21] | 12,905
|
2020年(令和2年)[1] | 13,058
|
世帯数の変遷[edit]
国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年)[17] | 4,834
|
2000年(平成12年)[18] | 5,835
|
2005年(平成17年)[19] | 5,825
|
2010年(平成22年)[20] | 6,196
|
2015年(平成27年)[21] | 6,449
|
2020年(令和2年)[1] | 6,975
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学区[edit]
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年5月時点)[22]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
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南台一丁目 | 全域 | 相模原市立相模台小学校 | 相模原市立相模台中学校 |
南台二丁目 | 全域 | 相模原市立鶴の台小学校 | 相模原市立新町中学校 |
南台三丁目 | 1~12番 | ||
13〜21番 | 相模原市立相模台小学校 | 相模原市立相模台中学校 | |
南台四丁目 | 全域 | ||
南台五丁目 | 全域 | ||
南台六丁目 | 全域 |
- 3丁目1~12番は、指定変更許可区域。
事業所[edit]
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[23]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
南台一丁目 | 25事業所 | 137人 |
南台二丁目 | 15事業所 | 182人 |
南台三丁目 | 80事業所 | 1,024人 |
南台四丁目 | 31事業所 | 165人 |
南台五丁目 | 131事業所 | 930人 |
南台六丁目 | 63事業所 | 310人 |
計 | 345事業所 | 2,748人 |
事業者数の変遷[edit]
経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
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2016年(平成28年)[24] | 349
|
2021年(令和3年)[23] | 345
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従業員数の変遷[edit]
経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
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2016年(平成28年)[24] | 2,731
|
2021年(令和3年)[23] | 2,748
|
交通[edit]
鉄道[edit]
道路[edit]
施設[edit]
その他[edit]
日本郵便[edit]
関連項目[edit]
脚注[edit]
- ^ a b c d “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年7月23日閲覧。(CC-BY-4.0)
- ^ a b “南台の郵便番号”. 日本郵便. 2022年4月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ “住居表示実施区域一覧”. 相模原市 (2022年6月21日). 2023年7月16日閲覧。
- ^ “国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年6月4日閲覧。
- ^ この年から芝原(しばあら)と呼ばれた相模台・相模が丘・広野台から小松原・ひばりが丘・東原にかけて開拓がはじまった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 共同の草刈り場
- ^ 座間宿村、座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村、栗原村の人々は村はずれの段上の地域一帯を一括りに「芝原・しばあら」と呼んでいた。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
- ^ 座間分の本村である座間宿村や座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村、栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』より。
- ^ 座間村大字座間字北広野<現・座間市相模が丘一丁目>の最北端に住み着いた。新磯村<現・相模原市南区相模台二丁目>・大野村<現・相模原市南区南台五丁目>・座間村大字新田宿飛び地字見分塚最北端<現・横浜銀行相模台支店>の境界域付近で、まさしく中和田新開の中心部である。
- ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間・海老名・綾瀬・大和を経て藤沢にいたる街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
- ^ 大字磯部飛び地ではなく地続きになっている。昭和4年(1929年)刊行 土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図より
- ^ 1937年(昭和12年)に町制施行。1941年(昭和16年)4月29日、座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村ほか3村と合併して高座郡相模原町となったが、戦後の1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町(現在の市域)が分離独立した。
- ^ 開業してすぐに相模原駅と改称、再度1941年(昭和16年)に現在の「小田急相模原駅」と改称
- ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛び地字見分塚、大野村大字上鶴間と新磯村大字新戸・大字磯部の境界となっていた。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “小・中学校等の通学区域”. 相模原市 (2023年5月8日). 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c “経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
- ^ a b “経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ “相模原南台郵便局”. 日本郵便. 2023年7月29日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。