哀帝 (漢)

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劉欣から転送)
哀帝 劉欣
前漢
第13代皇帝
王朝 前漢
在位期間 綏和2年4月8日 - 元寿2年6月27日
前7年5月7日 - 前1年8月15日
都城 長安
姓・諱 劉欣
諡号 孝哀皇帝
生年 河平4年(前25年
没年 元寿2年6月27日
前1年8月15日
劉康
丁姫
后妃 傅皇后中国語版
陵墓 義陵
年号 建平 : 前6年 - 前3年
太初元将 : 前5年
元寿 : 前2年 - 前1年

哀帝(あいてい、紀元前25年 - 前1年)は、前漢の第13代皇帝元帝の孫にあたる。

腹心の董賢男色の関係にあったと伝えられ、「断袖」の故事で知られる[1]

生涯[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
王禁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
王曼
 
王政君
 
元帝
 
傅昭儀
 
 
 
傅晏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
王莽
 
 
 
成帝
 
劉康
 
丁姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
哀帝
 
 
 
傅皇后
 
 
 

定陶王時代[編集]

河平4年(前25年)、元帝の側室の孫にあたる父の定陶恭王劉康と丁姫の間に生まれる。丁姫はあまり養育に関わらず、才知と宮中での人望のあった祖母の傅氏(元帝の昭儀)から熱心に養育された[2]

陽朔2年(前23年)、父の定陶恭王が死去したため3歳で爵位を継承し、定陶王の後嗣となった。成長してからは文辞や法律を好んだとされる[3]元延4年(前9年)、17歳の時に、漢の都の長安に入朝する。伯父にあたる成帝の質問に明確に回答し、さらなる質問にも答えて『詩経』の内容も暗唱し、その意味をはっきりと説明することができた[4]。そのため成帝は劉欣をすぐれた人物とみなし、その才能を賞賛したという[5]

祖母の傅氏は孫の劉欣を皇太子に据えるべく策略を巡らせ、成帝の皇后であった趙飛燕(孝成皇后)と票騎將軍であった曲陽侯王根に賄賂を贈った。趙飛燕と王根は成帝に子がなく、今後の自分たちの立場を考えて、劉欣を後継者に指名するよう成帝に勧めた。成帝も劉欣の才能を優れていると考え、元服させて国に帰した。

元延5年(前8年)、劉欣が18歳になると、成帝は劉欣を皇太子に立てる事とした。劉欣は一度は辞退したものの、結局は立太子され都に招聘された。以降は元帝の后であった王太后(王政君)のはからいで、10日に1回、祖母の傅氏や母の丁氏と面会できる事となった[2]

皇帝即位[編集]

綏和2年(前7年)3月、成帝が死去すると、太皇太后となった王政君皇太后となった趙飛燕の後楯により、劉欣は19歳で即位し、後世に「哀帝」と呼ばれるようになる。父の定陶恭王劉康を尊び、恭皇と称した。

漢書』哀帝紀の賛によれば、哀帝(劉欣)は、成帝までの時代に権力が外戚に移っていた状況を見て、朝廷に臨んでは大臣を厳しく罰して、人主の威厳を強めて、武帝宣帝をみならおうとしていた。哀帝は、音楽や女色は好まず、ただ、弓射と角力(すもう)を見学することはしばしば行った。皇帝即位後には、両足に障害があったようである。

20世紀の日本の中国史学者である東晋次は、「哀帝は法律好みのところがあった」、「哀帝の性格は、元帝や成帝より宣帝に近く、(強権によって治める覇道(法家)と、徳をもって治める王道(儒家)をうまく使い分けながら行う統治方針である)漢王朝の伝統的統治方針に忠実な皇帝であったとみなしてもよい」と評している[6]

成帝の時代に、大司馬王莽が任じられていたが、(王莽の伯母にあたる)王政君は、王莽に詔を出して、哀帝の外戚の傅氏と丁氏を避けさせた。王莽は哀帝に辞任を願ったが、哀帝は詔を出し「先帝(成帝)は、君に委任したまま、崩御された。朕は君と心をあわせることができると喜んでいたのに、君は病と称して辞職を求めている。朕ははなはだ心を痛めている。君の(辞任を撤回する)奏上を待っている」[7]と語り撤回を望んだ。

哀帝は、さらに丞相孔光大司空何武・左将軍の師丹・衛尉の傅喜を王政君のもとに派遣し、「皇帝(哀帝)は太后(王政君)の詔をきいて、とても悲しんでおられます。大司馬(王莽)が政務に参加されないなら、皇帝は政治を行うことはされないでしょう」と伝えさせた。そこで、王政君は王莽に政務に参加させることにした[7]

尊号問題[編集]

即位した直後、高昌侯董宏は『春秋』の『母は子をもって貴し』との故事を引用して、哀帝の実母の丁姫に尊号を贈るよう進言した[8]。しかし、王莽と師丹は、董宏が道に外し、朝廷を誤らせるものとして弾劾した[9]。即位したばかりであった哀帝は王莽らに譲歩し、董宏を罷免して庶人に落とした。しかし傅氏はこれに激怒し、必ずや尊号を称したいと哀帝に要求した[10]

5月、皇后を祖母の一族の女性である傅氏に選び、実母の丁姫に恭皇后、実祖母の傅氏には恭皇太后の尊号を贈り、外戚にあたる傅氏の一族と丁氏の一族を列侯に封じた。20世紀の日本の中国史学者である渡邉義浩は、「哀帝は、王氏出身の元太皇太后(王政君)に対抗するため、祖母の定陶太后(傅太后)と母の丁姫に尊号を与えようとしていた」としている[11]。この「恭」の文字は「藩国」を意味する文字であり[12]。郎中令の冷褒・黄門郎の段猷らはこの「恭」の文字を使う事に反対し、また長安に恭皇の廟を立てることを求めた。これには多くの有司が賛成したが、師丹は「尊卑の序列を乱す」などといった理由で反対した[13]。東晋次は、「この対立の背景には、宣帝に類似した哀帝の法家的な統治方針を支持する朱博らの党与と、師丹・王莽らの儒家の教説を奉じる一派との対立があった」と分析している[14]

後日、未央宮において宴会がなされた時、内者令が、哀帝の実祖母の傅太后の席を、太皇太后である王政君の横に置いた。これを見た王莽は巡回し、「定陶太后(傅太后)は、藩妾(「藩」王である定陶王の母であり、かつての成帝の側室(「妾」)という意味)である。なにをもって、至尊と並べるのか!」と内者令を責めた。王莽は、傅太后の席を撤去して、別に設けさせた。これを聞いた傅太后は激怒し、宴席に来ずに、さらに王莽を恨み怒った[7]

東晋次は、「王莽や師丹が傅氏や丁氏に対する尊号奉上に反対する背景には、王氏と傅氏の宮廷における序列、そこから生まれる政治的権威の問題が存在した。王莽にとって傅氏が元后(王政君)と同列になることはどうしても避けねばならなかった。表面上は尊号という制度上の一問題にすぎないけれども、王氏と傅氏・丁氏との激烈な権力闘争がその根底に横たわっていると見るべきであろう」としている[15]

そこで王莽は再び辞任を要請した。哀帝は、黄金500斤と馬車を王莽に与え、屋敷に帰らせた。哀帝は特別の恩寵として、10日に1度、使者を王莽の屋敷に送ることとし、「新都侯王莽は、国家のために悩み苦しみ、義を守ること堅固で、朕はともに政治を行うことを願っている。太皇太后(王政君)は詔を行い、王莽を屋敷に帰したが、朕はとても憂いてる。そこで、黄郵聚の350戸を王莽に増して与え、位を特進とし、給事中に任じて、月の1日と15日に朝見させ、天子にまみえる礼は三公の通りとして、車でのおともをさせる」との詔を発した。そこで、王莽はこれから2年、このようにして、朝廷に仕えた[7]

哀帝は、左将軍の師丹を、王莽に代えて、大司馬に任じた[16]

6月、即位に功績のあった曲陽侯王根に2千戸、太僕・安陽侯王舜は500戸、丞相の孔光と大司空の何武にそれぞれ千戸を与えた。

哀帝は若い時から、王氏が驕慢で勢いがあることを知っており、(王莽のことも含めて)、心では面白くはなかったが、まだ即位したばかりだったので、まだ、王氏を優遇していた[17]

治世[編集]

大司馬に任じられた師丹は、過去の歴史を引用して貧富の格差の縮小を訴え、私田と奴婢の所有には限度を設けることを建議した[18]。哀帝が臣下らに議論を命じると、丞相の孔光・大司空の何武らは「私田の所有の限度は、合わせて30を超えない程度を限度とすること」「奴婢の私有は諸侯王は200人まで、列侯と公主は100人まで、関内侯や官吏・民は30人までを限度とすること」「これらの限度を超過した分は、全て国が没収すること」などの政策(いわゆる限田法[19]を、3年間の猶予期間の後に実施する事を提案した。しかしこの政策はのちに反対に遭い、実施には至らなかった[20]

7月頃、司隷校尉解光は、曲陽侯王根(王莽の叔父)と成都侯王況(王商の子で、王莽の従兄弟)の奢侈・不道を上奏した。哀帝は両名への処罰を行い、王根に対しては過去の功績に免じて領国への帰還を命じるに留め、王況は庶人へと落とした。また、王根と王商が推薦した役人は全て罷免させた[17]。またこの頃、哀帝は皇太子時代の側近であった王去疾(王莽の従兄弟)を侍中・騎都尉に任じ、その弟の王閎もまた中常侍に任じた[21]

年明けに建平と改元を行い、大赦を降した。同年、司隷校尉の解光が、皇太后の趙飛燕がかつて、成帝の子とその母を殺害していたことを訴え出た。これを聞いた哀帝は、趙飛燕の弟の新成侯趙欽と甥の成陽侯趙訢を庶人に落とし、その家族を遼西へと流した[2]

建平2年(前5年)3月、大司空の名を元々の御史大夫に戻した。また同年4月、州牧の名もまた元々の刺史に戻した。これらの政策について東晋次は「成帝期の儒家官僚主導による制度改革を、秦以来の伝統的なそれに復帰させようとする哀帝の強い意向を示すものであろう。それはとりもなおさず、王氏一族によって壟断された皇帝権の回復を意図するものであった」と評している[22]

この頃、丞相の朱博が上奏し「王莽は先に、(哀帝の実母の丁氏と、実祖母の傅氏)への尊号の義を広めようとせず、(哀帝の)孝道をそこない、処刑にしてみせしめにすべきでした。幸いにも赦免をこうむりましたものの、領土を有すべきではありません。どうか、罷免して、庶人にしてください」と請願した。哀帝は「王莽は太皇太后(王政君)の一族である。罷免してはいけないが、領地に帰すことにする」と答え、このため王莽は領地に左遷されることになった[7]

また、同じく王氏の平阿侯王仁がかつて趙飛燕の親族をかくまったことがあったため、領地にいくことになっており、天下の人の多くが、王氏は無実の罪を受けていると思った[17]

このため、諫大夫の楊宣が「先帝(成帝)のお気持ちを考えるに、なぜ、陛下が皇太子であった時に、太皇太后(王政君)をお呼びになっていたわれなかったのですか?太皇太后は70歳にもなられ、しばしば心の憂いや痛みに耐えられ、親族の王氏に勅令をくだして、丁氏や傅氏を避けて、領土に行くように命じられています。このことを聞いて、道行く人ですが、太皇太后のために涙を流していることです。時に高くのぼって遠くを望んで、成帝にはずかしく思われないのですか?」と上言した。哀帝はこの言葉に深く感激を受け、王商の次男の王邑を成都侯に封じた[17]

6月、実母の丁氏が死去する。父の劉康とともに、定陶の地に葬った。

この頃、郎の董賢に面会して気に入り、殿上にあげ共に語り、黄門郎に抜擢した。さらに、董賢への寵愛は深まり、董賢を侍中・駙馬都尉に昇進させる。哀帝は、董賢を車に同乗させ、左右にはべらせ、一緒に寝起きをともにするようになった。董賢への恩賞は巨万なものとなった。『漢書』では、哀帝と董賢は男色の関係にあるものとされる。後に、董賢の妹を昭儀(側室の一人)とし、董賢の妻もふくめて、宮廷に出入りできるようにさせ、哀帝の左右にはべったと伝えられる[21]

改元と直後の撤回[編集]

同年、司隷校尉の解光と騎都尉の李尋の推薦を受けた黄門待詔の夏賀良が、成帝時代に発見されたとされる赤精子(仙人の一人)の予言書を根拠に、「漢王朝の命運は衰えており、陛下は改めて天命を受け取らねばなりません。成帝は天命に応えられなかったため、後継ぎは絶えました。現在の陛下のご病気やしばしばの天変地異は、天の警告です。急いで改元を行えば、陛下の寿命も延び、世継ぎもお生まれになり、災異もやむことでしょう」[23]と上奏した。

哀帝は長らく病に伏せており、彼らの意見を聞き入れて元号を「建平」から「太初元将」へと改元した。ところが1か月ほどしても哀帝の病状に変化は見られなかったため、同年8月には再び元号を元の「建平」に戻し、夏賀良らは「道を外し、政治を誤らせた」として得獄された。夏賀良は処刑され、解光と李尋は罪を一段階減免されて敦煌郡に流刑となった[24]。東晋次は「ここで注目すべきは、哀帝自身、漢王朝が天命から見放されつつあり、再び天命を受けることの必要性を感じていることである。つまり漢王朝が中国を支配する王朝としての正当性をしだいに失いつつあるとの認識を皇帝自身も持たざるをえないほど、漢代社会の矛盾や問題が充満していた、と解釈することもできるであろう」と評している[22]

不穏な社会情勢[編集]

丞相の朱博・御史大夫の趙玄・孔郷侯傅晏(傅氏の叔父の子)は実祖母の傅氏の意向により、傅氏が尊号を得ることに反対した傅高を排除しようとした。そこで、朱博と趙玄は、傅高と何武を庶人とすうように上言してきた。哀帝は、実祖母の傅氏が傅高を恨んでいたので、知っていたため、審問したところ、趙玄を調べさせたところ、趙玄がその罪を認めた[25]

朱博は自害し、趙玄は死二等が減ぜられ論告され、傅晏の領地は4分の1が削られた。

建平3年(前4年)、この頃、(3年を猶予の期限としていた)「限田法」の実施が迫ったが、高位にある傅氏や丁氏の一族や董賢が反対をしたため、詔を下して、しばらく実施を延期したが、最終的には実施されなかった[20]

11月、甘泉の泰畤・汾陰の后土の祠を元にもどして、南郊北郊の儀式をやめる。

これは、儒家の古礼に合致しないとして、元帝期から儒家官僚に問題にされ、成帝期に、長安の南郊で天を、北郊で地を祀るようにその祭祀の場所を移したもので、成帝期には、また、元にもどり、成帝が死去した後で、また、長安の南北の郊外で天地を祀ることに変更したものであり、哀帝がまた、南郊・北郊の儀式をやめたことは、「儒家官僚の神経を逆なでするような処置」であった[22]

渡邉義浩は、哀帝が南郊・北郊の儀式をやめ、甘泉の泰畤・汾陰の后土の祠を元にもどしたことについて、「哀帝は、成帝期に儒者より推進されてきた儒教に基づく制度改革を漢家の故事へと戻すことにより、外戚として権力を掌握してきた王氏の勢力を排除するとともに、皇帝権力の回復を目指した。王氏、なかでも王莽が価値基準の中核に置いてきた儒教の経義よりも、漢家の故事を優先することで、王氏に対抗したのである」としている[26]

待詔の孫寵息夫躬が、東平王劉雲(宣帝の四男の劉宇の子)、劉雲の后である謁が神をまつり呪詛を行っていると告発したため、調べたところ、安成侯王崇(王政君の弟)の夫人の放も含めて、全て罪があった。董賢を侯に封じたいと考えていた哀帝は、孫寵と息夫躬に命じて、董賢のはからいで告発させることにした。劉雲は自殺し、謁と放は市場で処刑された[27]

建平4年(前3年)春、大旱魃が起きる。関東の民の「西王母が来る」という流言が、各地の郡や国をめぐって、西にまで伝わり、長安にまで聞こえた。民は集まって西王母をまつり、あるいは火を持って屋上にのぼり、太鼓を打って叫んで、互いに恐れあった。

東晋次は、「災害は元帝期頃から徐々に増加し、成帝期に入るととくに関東や関中での大水の記事が目立っている」、「実際、成帝期から哀帝期にかけての地方政治の荒廃、民の生活の破綻が多くの論者によって指摘されているのである」、「例えば、『漢書』鮑宣伝によると、鮑宣は(中略)、このような現実をもたらしているのは、ただただ己の利益を追求する中央・地方の官吏のあり方にこそその原因があるのだ、という」と指摘している[28]

3月、東平王劉雲を告発したことで功績のあった侍中・駙馬都尉の董賢を高安侯に、光禄大夫となった息夫躬を宜陵侯に、南陽太守となった孫寵を方陽侯に封じる。それぞれ、食邑は千戸であった[27]

東晋次は、「ちょうど限田制の実施予定の時期に当たるから、哀帝の董賢への規定を大幅に超過した土地の賜与は、限田制の無効化を物語っているし、(董賢への土地の賜与を諫めた)王嘉の言う「均田之制」はこの限田制を指していることはまちがいなかろう」と指摘している[29]

5月、俸禄が2,000石と600石の官吏、及び天下の男子に爵位を与える。

6月、実祖母の帝太太后傅氏をさらに尊んで、皇太太后とした。

8月、恭皇の園の北門で火災が起きる。

冬、詔を行い、将軍や高位の官吏に、兵法に明るく智謀すぐれたものを推挙するように命じる。

匈奴の入朝を許す[編集]

この年、匈奴烏珠留若鞮単于は、上書して翌年のうちに入朝する事を願い出た[30]。この時、哀帝は病気におかされていたが、この時ある者が「匈奴は黄河の上流より来て、人をそこなってきました。黄龍年間(宣帝期)・竟寧年間(元帝期)の時から、匈奴の単于が中国に来た時には大喪が行われています」と上言した[31]。これを聞いた哀帝は烏珠留若鞮単于の来朝を嫌い、また公卿たちも費用の負担を厭ったため、来朝の許可を見送った[32]

烏珠留若鞮単于の使者は帰還しようとしたが、寸前のところで黄門郎の揚雄が上書し、過去の漢の匈奴の服属に至るまでの多数の犠牲、また漢と匈奴の友好関係による民の安全に利益を説いて「単于が上書して来朝を求めているのに、国家がこれを許さないのは、漢と匈奴を不仲にさせることです。陛下には心を留めて、辺境の民を戦乱の禍から未然に防いで下さるよう、お願いいたします」[33]と訴えた。揚雄の諫めを聞いた哀帝は考えを改め、匈奴の使者を呼び返し、さらに、単于への返書を与え、来朝を許した[34]

董賢を大司馬に任じる[編集]

元寿元年(前2年)正月、祖母の皇太太后傅氏が死去した。哀帝は祖母の傅氏を元帝の渭陵に合葬させ、元帝の正式な后ではなかったものの「孝元傅皇后」との尊号を諡った[35]。3月、哀帝は、皇太太后傅氏の遺詔にかこつけて、董賢に2千戸を加増する詔を発し[27]、また哀帝の董賢への寵愛を嫌っていた丞相の王嘉は失言によって投獄された後に獄死し、また同じく哀帝の董賢への寵愛を嫌っていた大司馬票騎将軍の丁明(哀帝の実母の丁姫の兄)も罷免された[27]

この時、哀帝は勅書をくだした「先の東平王劉雲は帝位を欲し、神に祈り呪いを行った。劉雲の后の父である伍宏は医術を持って詔を待ちながら、校秘書郎の楊閎とともに反逆しようとして、わざわいは迫っていたのだ。丁氏の一族が彼らを信任したため、伍宏は医術で近づき、国家をあやうくしようとしたのだ。朕は丁皇后のために、このことを言うに忍びなかった。将軍(丁明)はわざわいをその芽のうちに摘み取ることができず、心で朕の過ちと思い、劉雲や伍宏が無実の罪を着せられたといいふらし、伍宏は良い医者でありその死は惜しむべきで、董賢が寵愛を極め、忠義ある人に嫉妬し、功ある人をそしっているのは痛ましいことだと言った。朕は将軍を書簡でいましめたのに、王嘉と私心をもって交わり、そのため、王嘉はあなどった。朕は将軍を罪するには忍びない。票騎将軍の印綬を返すように」[36]

そこで、哀帝は、董賢を大司馬衛将軍に任じた。哀帝は、董賢に勅書をくだした「朕は点から帝王の位をうけ、いにしえを考えて、汝を三公に建て、漢室の補佐とした。汝の心をつくして、軍を率いて統率せよ。敵と折衝し、遠くを安んじて、様々なことを匡正して、全てをすべるように[37]。天下の衆は、朕からの制約をうけ、将軍をもって命令と思い、兵をもって威力を知る。これをつつしまないでおれようか」[36]

匈奴の入朝[編集]

この年、烏珠留若鞮単于が来朝するために出発しないうちに、たまたま病気となり、また、使者を送ってきて、さらに来年に来朝することを願ってきた。故事によると、単于が来朝する時は、その随行者は王より以下の従者にいたるまで、200余人であった。単于はまた、上書して「天子の神霊をこうむり、人民は盛んです。従う者を500人連れて、入朝させていただき、天子の盛んな徳を明らかにさせてください」と請願した。哀帝は、単于のこの願いを全て許した[38]

元寿2年(前1年)正月、匈奴の烏珠留若鞮単于[39]が来朝した。哀帝は、単于の来た方角が太歳(木星)に当たっていたため、厭勝しようとして、単于を上林苑の蒲陶宮に宿泊させた。哀帝は、単于に敬意を加えるためと告げたが、単于はその事情を知っていた。哀帝は、河平年間に匈奴に賜ったものと同様のものを与えた上、さらに、衣370襲・錦繡繒帛を3万匹・絮3万斤を単于に加えて賜った[40]

哀帝はこれを歓迎して宴を開き、群臣たちも同席した。大昆弥は(大司馬の)董賢の年が若いことを不思議に思って通訳に質問すると、哀帝は通訳を通して「大司馬(董賢)は大賢人であるから、その若さでありながらこの地位にいるのである」と答えた。大昆弥は立ち上がって拝礼し、漢王朝がすぐれた臣下を得たことを祝賀した[21]

2月、全ての儀礼が終わると、烏珠留若鞮単于は帰国することになり、中郎将の韓況に単于を見送らせた。単于へ辺境に出て、迂回して帰国したため、韓況は食糧が乏しくなり、単于に食糧を与えられ、期日を失して、50数日帰らなかった[40]

董賢への譲位を望む[編集]

この頃、中常侍の王閎の妻の父である中郎将の蕭咸が、董賢の父の董恭から、子の董寛信(董賢の弟)と蕭咸の娘との婚姻を申し込まれていた。蕭咸は恐れて、断りたいと考え、王閎に対し「董公(董賢)が大司馬になった時の詔に、『全てをすべるように』という文言があったが、これは、(聖人の)に禅譲した時の文にある文言であり、三公の故事ではない。長老たちはこれを見て、心に恐れないものはない。ただの家の子に堪えられるはずがない」と告げた。王閎は、知略があり、蕭咸の言葉を聞いて、心に悟るところがあった[36]

哀帝は、麒麟殿で酒宴を行った時、董恭・董賢父子ら親族も宴会に参加しており、侍中や中常侍である王去疾・王閎兄弟も参加していた。この時酩酊していた哀帝は、董賢に対し笑って「私は、堯が舜に禅譲したことに見習おうと思うが、どうじゃ?」と語り掛けた。しかしこれを見た王閎は「天下は高皇帝(劉邦)のものであり、陛下(哀帝)が有しているわけではありません。陛下は宗廟を受け継がれ、ご子孫にいつまでも継がれるべきです。統治の業はとても重いのです。天子が、亡国の戯言を申してはなりません」と哀帝を諫めた。哀帝は黙り、不機嫌となり、左右の者はみな恐れを抱いた。そこで、王閎は宴会から、追い出され、二度と宴会に呼ばれることはなかった[36]

4月、日食がまた起こった。

5月、三公の官の分職を正した。大司馬衛将軍の董賢を大司馬に任じ、丞相の孔光を大司徒に任じ、御史大夫の彭宣を大司空に任じ長平侯に封じた。司直・司隷の職を正し、司寇の職を設置しようとしたが、まだ、決定しなかった。

これは、丞相を廃止し三公制へ移行し、後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出す形となった。

6月27日、未央宮において25歳で死去した。障害のあった両足は晩年にはさらに悪くなっていた。嗣子はなかった。

哀帝は、死に臨んで皇帝璽綬を董賢に託したが、王閎が太皇太后の王政君に董賢から皇帝璽綬を奪うことを願い、その許しを得て、帯剣して董賢から璽綬を奪い、太皇太后に渡した[41]

董賢は大司馬を罷免され、董賢とその妻はその日のうちに自殺した[36]

王政君は王莽を大司馬に任命し、政治の実権は王氏が再び掌握することとなり、従弟の劉箕子が次皇帝として即位する(平帝[42]

9月に義陵に葬られた。

哀帝の時代は、宮室や府庫のたくわえは多く、民衆の富は、文帝景帝の時に及ばなかったものの、天下の戸口は隆盛を極めていたと伝えられる[20]

評価[編集]

東晋次は、「哀帝の政治は、その折々の臣下の奏上どおりに裁可して主体性のなさも目につくけれども、班固が哀帝紀の「賛」で、「成帝の御代には、政権が皇室をはなれて外戚の手に移るさまを目の当たりにした哀帝は、それゆえに朝政にのぞんではしばしば大臣を誅し、武帝や宣帝を手本として皇帝の権威をつよめようとした」と述べているような政治の実現を目指していたと考えられる。かかる哀帝の統治方針は、元后(王政君)をはじめ王氏一族にとって甚だ都合の悪い、というよりも一族の滅亡をも将来しかねない可能性を孕むものであった」と評している[43]

渡邉義浩は、「一種の終末思想が、漢家の再受命を求める主張の背景となっていた。立て続く災害と異変が何らかの変化を求めていたのである。こうしたなか、哀帝は、外戚の王氏を排除して、皇帝権力の強化に努めたが、寵愛して政治を委ねた董賢の無能により、政局は混乱を極めた」と評している[44]

故事[編集]

男色を意味する「断袖中国語版」という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため衣を切って起きた、という故事に基づく。

家族[編集]

前漢王朝系図】(編集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太上皇
劉煓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
代王
劉喜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(1)高祖
劉邦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楚王
劉交
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呉王
劉濞
 
斉王
劉肥
 
(2)恵帝
劉盈
 
趙王
劉如意
 
(前3)文帝
劉恒
 
 
 
 
 
淮南王
劉長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉王
劉襄
 
城陽王
劉章
 
*前少帝
劉某
 
*後少帝
劉弘
 
(4)景帝
劉啓
 
梁王
劉武
 
淮南王
劉安
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
臨江王
劉栄
 
中山王
劉勝
 
長沙王
劉発
 
 
 
 
 
(5)武帝
劉徹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左丞相
劉屈氂
 
(追)戻太子
劉拠
 
燕王
劉旦
 
(6)昭帝
劉弗陵
 
昌邑王
劉髆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)悼皇
劉進
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*昌邑王
劉賀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(7)宣帝
劉詢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(8)元帝
劉奭
 
 
 
 
 
楚王
劉囂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(9)成帝
劉驁
 
(追)恭皇
劉康
 
中山王
劉興
 
劉勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(10)哀帝
劉欣
 
(11)平帝
劉衎
 
劉顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*孺子
劉嬰

后妃[編集]

子女[編集]

  • 女子(傅皇后の娘。『漢書』王莽伝上に見える)

登場作品[編集]

テレビドラマ
漫画
  • しちみ楼『キンとケン』、イースト・プレス

参考文献[編集]

  • 東晋次『王莽―儒家の理想に憑かれた男』(白帝社アジア史選書)、白帝社、2003年
  • 渡邉義浩『王莽―改革者の孤独』(あじあブックス)、大修館書店、2012年

脚注[編集]

  1. ^ 以下、特に注釈がない場合、出典は、『漢書』哀帝紀
  2. ^ a b c 『漢書』外戚伝下
  3. ^ 『漢書』哀帝本紀:年三歳嗣立為王,長好文辭法律。
  4. ^ 『漢書』哀帝本紀:元延四年入朝,盡從傅・相・中尉。時成帝少弟中山孝王亦來朝,獨從傅。上怪之,以問定陶王,對曰:「令,諸侯王朝,得從其國二千石。傅・相・中尉皆國二千石,故盡從之。」上令誦詩,通習,能説。
  5. ^ 『漢書』哀帝本紀:成帝由此以為不能,而賢定陶王,數稱其材。
  6. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.61-62
  7. ^ a b c d e 『漢書』王莽伝上
  8. ^ 『漢書』王莽伝上:時哀帝祖母定陶傅太后・母丁姫在,高昌侯董宏上書言:「春秋之義,母以子貴,丁姫宜上尊號。」
  9. ^ 『漢書』王莽伝上:莽與師丹共劾宏誤朝不道,語在『丹傳』。
  10. ^ 『漢書』巻86 何武王嘉師丹伝:上新立,謙讓,納用莽・丹言,免宏為庶人。傅太后大怒。要上欲必稱尊號,上於是追尊定陶共王為共皇,尊傅太后為共皇太后,丁后為共皇后。
  11. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.55
  12. ^ 東晋次『王莽 : 儒家の理想に憑かれた男』白帝社〈白帝社アジア選書3〉、2003年11月4日、64-66頁。ISBN 978-4-89174-635-3 
  13. ^ 『漢書』師丹伝
  14. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.66-67
  15. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.67
  16. ^ 『漢書』王商史丹伝
  17. ^ a b c d 『漢書』元后伝
  18. ^ 『漢書』巻24上 食貨志上:師丹輔政,建言:(後略)。
  19. ^ 『漢書』巻24上 食貨志上:諸侯王・列侯皆得名田國中。列侯在長安,公主名田縣道,及關内侯・吏民名田皆毋過三十頃。諸侯王奴婢二百人,列侯・公主百人,關内侯・吏民三十人。期盡三年,犯者没入官。
  20. ^ a b c 『漢書』食貨志上
  21. ^ a b c 『漢書』佞幸伝
  22. ^ a b c 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.63
  23. ^ 『漢書』巻75 眭両夏侯京翼李伝:漢暦中衰,當更受命。(中略)宜急改元易號,乃得延年益壽,皇子生,災異息矣。(後略)
  24. ^ 『漢書』巻75 眭両夏侯京翼李伝:而下詔曰:「(略)」皆下獄,光禄勲平當・光禄大夫毛莫如與御史中丞・廷尉雜治,當・賀良等執左道,亂朝政,傾覆國家,誣罔主上,不道。賀良等皆伏誅。尋及解光減死一等,徙敦煌郡。
  25. ^ 『漢書』薛宣朱博伝
  26. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.54
  27. ^ a b c d 『漢書』哀帝紀及び『漢書』佞幸伝
  28. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.92-94
  29. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.219
  30. ^ 『漢書』巻94下 匈奴伝下:建平四年,單于上書願朝五年。
  31. ^ 『漢書』巻94下 匈奴伝下:時哀帝被疾,或言匈奴從上游來厭人,自黄龍・竟寧時,單于朝中國輒有大故。
  32. ^ 『漢書』巻94下 匈奴伝下:上由是難之,以問公卿,亦以為虚費府帑,可且勿許。
  33. ^ 『漢書』巻94下 匈奴伝下:今單于歸義,(中略)唯陛下少留意於未亂未戰,以遏邊萌之禍。
  34. ^ 『漢書』巻94下 匈奴伝下:書奏,天子寤焉,召還匈奴使者,更報單于書而許之。
  35. ^ 『漢書』外戚伝
  36. ^ a b c d e 『漢書』佞幸伝
  37. ^ 原文「允執其中」。『論語』において、堯が舜に帝位を譲ろうとした時の堯の言葉である。 この時、すでに、哀帝には董賢に帝位を譲位しようという意思があったことを匂わせる
  38. ^ 『漢書』匈奴伝下
  39. ^ 烏珠留若鞮単于の名は嚢知牙斯であるが、『漢書』哀帝紀では、大昆弥としている。
  40. ^ a b 『漢書』哀帝紀及び『漢書』匈奴伝下
  41. ^ 後漢書』巻12 王劉張李彭盧列伝
  42. ^ 『漢書』平帝紀
  43. ^ 『王莽 儒家の理想に憑かれた男』p.64
  44. ^ 『王莽―改革者の孤独』p.60