六条有房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
六条有房
六条有房像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 建長3年(1251年
死没 元応元年7月2日1319年7月19日
改名 有房→有真または戒浄(法名)
別名 千種、禅林寺、六条内府
官位 従一位内大臣
主君 後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 六条家
父母 父:六条通有、母:藤原清定の娘
後醍醐天皇の皇女[1]?
有忠中院光忠季光、照源、花山院家定
テンプレートを表示

六条 有房 (ろくじょう ありふさ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿歌人太政大臣久我通光の孫にして、左中将六条通有の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、後宇多上皇の厚遇を得て従一位内大臣に昇った。六条家2代当主。

経歴[編集]

前半生は不明だが、弘安5年(1282年)5月左少将として初見[2]し、近衛次将などを歴任。大覚寺統亀山・後宇多院に近侍し、伏見天皇期には同統復権のためたびたび幕府要人との交渉を務めた[3]邦治親王立坊の目途が立った永仁6年(1298年)7月従三位に叙されて公卿に列し、正安元年(1299年)12月正三位に進んだ。同3年(1301年)邦治が践祚して(後二条天皇)後宇多院政が始まると、左大弁造東大寺長官を兼ね[4]参議に任じられた。乾元元年(1302年)12月侍従、翌2年(1303年)1月従二位権中納言に叙任されるも、程なく辞任。嘉元2年(1304年)5月祖父久我通光影供を催した[5]。同3年(1305年)3月権中納言に還任、11月院使として鎌倉に下り、再び朝幕間の交渉に当たった。徳治元年(1306年)12月正二位、同3年(1308年)1月権大納言に叙任されたが、8月天皇が重篤になると辞任した。

その後皇統が持明院統に移ったために再び不遇をかこった。文保2年(1318年)後宇多院政が再開する直前の1月11日には従一位に叙されたが、翌元応元年(1319年)病に倒れ、6月28日「所労危急」のため上首2人(中院通重花山院師信)を越して内大臣に任じられた。これは後宇多法皇のによって前任一条内経を更迭し、兼宣旨任大臣節会を行わず、陣儀口宣を下すという異例の措置であった[6]。2日後の7月1日法皇自ら見舞いに訪れた際、有房は病床に臥したまま拝謁し、辞職を願い出て出家した。法名を有真または戒浄[7]という。明くる2日に薨去。享年69。

和漢の学才に優れ、儒書を講じて自説を他人に授けた一方、二条為世から二条派歌学を伝受。『新後撰和歌集』以下の勅撰集に24首、連歌集『菟玖波集』には11句が入集した。一説に京極派の歌論を批判した『野守鏡』『歌苑連署事書』の作者とする。伏見院に酷似する能筆でも知られた[8]。『徒然草』第136段に、物知りを鼻にかける医師の鼻っ柱を折ったエピソードが残る。庶流出身ゆえか有職故実には暗かったらしい。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 実隆公記文明8年10月5日条。廬山寺の寺伝でも照源を後醍醐の皇孫と伝えているが、両者の年齢差はわずか10歳に過ぎず、世代的に整合しない。
  2. ^ 勘仲記
  3. ^ 親玄僧正日記
  4. ^ 清華家出身者の弁官兼帯は異例で、亀山天皇の近臣久我具房の先例に従った措置と思われる。
  5. ^ 続門葉和歌集
  6. ^ 公卿補任』によれば、元暦元年(1184年)の徳大寺実定還任の先例に従ったものだという。
  7. ^ 建内記永享11年6月16日条。『公卿補任』の「法名有真(有直)」は誤伝ないしは別名か。
  8. ^ 正徹物語

出典[編集]

  • 本郷和人 「廷臣小伝」(『中世朝廷訴訟の研究』 東京大学出版会、1995年、ISBN 9784130201070
  • 小川剛生 「六条有房について」(東京大学国語国文学会編 『國語と國文學』第73巻第8号 至文堂、1996年8月、NCID AN00088621
先代
六条通有
六条家当主
2代
次代
六条有忠