児玉花外

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児玉花外

児玉 花外(こだま かがい、1874年明治7年)7月7日 - 1943年昭和18年)9月20日)は、日本の詩人。はじめ社会主義詩を、後に愛国詩をよくした。明治大学校歌『白雲なびく』の作詞者でもある。本名は伝八。詩人の児玉星人は異母弟。

経歴[編集]

京都の室町通上立売下ル西入蒔鳥屋町(現・京都府京都市上京区)出身。1886年(明治19年)、キリスト教徒だった父親の影響で新島襄が創立した同志社予備校に入学、次いで本科に進む。1890年(明治23年)、新島が死去すると、同志社を中退し、やはり新島が校長を務めていた東華学校に入学。同校が廃校になった後、札幌農学校(現・北海道大学)予科に入学したが中退。1894年(明治27年)には東京専門学校(現・早稲田大学)文学部に入学するが、3年後にやはり中退し、京都に帰る。

京都に帰った児玉は内村鑑三に影響を受け、内村の『東京独立雑誌』や片山潜の『労働世界』などといった雑誌に次々と詩作を発表。1899年(明治32年)には山本露葉山田枯柳との共著で、処女詩集『風月万象』を出版する。また、この頃から「花外」という雅号を使用するようになった。ちなみに「一生を出世栄達という花の外に居る」という思いからつけられている。

その後、新聞記者などを務めながら社会主義的詩を次々と発表し、評論家からは高い評価を受けていたが、1903年(明治36年)、第2詩集となる『社会主義詩集』が、製本段階で発売禁止処分を受ける。『社会主義詩集』というタイトルであるとはいえ、収録されている詩はそれまでに雑誌で合法的に発表していたものであり、特別過激な内容であったわけではない。このため、なぜ発売禁止処分を受けたのかは不明である。さらに、1907年(明治40年)には第4詩集『天風魔帆』が、またも発売禁止処分を受けてしまう。

以後、児玉は社会主義的作品をほとんど書かなくなり、『冒険世界』『武侠世界』などの雑誌に英雄詩や勇壮詩を多く執筆するようになる。しかし生活は苦しく、酒の飲み過ぎから体調を崩したこともあって、救護法の適用を受けたことさえあった。なお、この頃の代表作には、明治大学校歌である『白雲なびく』がある。

最晩年、花外が老人施設に入所していると聞いた武田孟(のち明大総長)ら多くの明大の関係者・学生が、学内で寄付金を募り、酒を土産に見舞いに訪れた。車椅子で迎えた花外に、学生たちは「白雲なびく」を合唱して慰め、花外も学生も感激のあまり涙を流したという。

1943年(昭和18年)9月20日、急性腸炎のため死去。69歳。晩年は日蓮宗が心の支えだったという。墓所は静岡県伊豆市の上行院。

1960年(昭和35年)、祖父のゆかりの地である山口県長門市大寧寺に詩碑が建立された。

『社会主義詩集』のその後[編集]

発売禁止処分を受けた『社会主義詩集』であったが、ごくわずかに製本されたものが存在していた。 1935年(昭和10年)ごろ、大阪の活字問屋社主で古書コレクターでもあった青山督太郎の手元に渡ったことが確認されたものの、青山の蔵書は後に警察に押収されてしまい、戦後青山が返還を求めたときには行方不明になっていた。

このことから、稀覯本番付が作られた場合には第一に名前があがる稀覯本として古書コレクターの間で知られていたが、時を経るに従って、もう現存していないと考えられるようになったため、近年ではその名前が取り沙汰されることはない。

なお、『社会主義詩集』は1949年に日本評論社から岡野他家夫の解題、中野重治の序文をつけて刊行され、またそこに収められていた詩のなかのいくつかは、『日本プロレタリア文学大系』(三一書房)の「序巻」(ISBN 978-4-380-68509-5)で読むことができる。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年

外部リンク[編集]