九鬼紋十郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

九鬼 紋十郎(くき もんじゅうろう、1902年(明治35年)6月7日 - 1986年(昭和61年)10月6日[1]は、日本政治家。昭和戦後期に衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)を務めた。九鬼産業グループを経営する実業家で、<四日市九鬼家>の当主であった。<九鬼紋十郎>という名は、代々四日市の九鬼一族の九鬼産業家が九鬼紋十郎を襲名していた。<九鬼紋七>と呼ばれる場合もあった。日本進歩党議員。三重県四日市市出身。

経歴[編集]

1902年(明治35年)6月7日九鬼水軍の末裔である四日市九鬼家の九鬼紋七の長男として誕生した。幼名の九鬼金平改め『九鬼紋十郎』を襲名した。父の九鬼紋七は衆議院議員などを務めた政治家であり、九鬼産業グループを経営する実業家であった。1929年(昭和4年)に東京帝国大学文学部美学美術学科を卒業した。大学卒業後は政治家となり四日市市議会議員に就任した。四日市市議会副議長、四日市市議会議長を歴任する。九鬼産業グループを経営する九鬼財閥の総帥で四日市市の有力実業家として、1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)の期間にははじめて四日市商工会議所の会頭(第6代)となった。後に1963年(昭和38年)にも会頭(第9代)となり[2]、以降、1980年(昭和55年)までに通算21年間にわたり商工会議所会頭として四日市市の財界で活躍した[3]。さらに、三重県商工会議所連合会長や日本商工会議所の常議員などの財界の役職を務めた。財界人として中外ピストンの取締役、四日市築港の取締役、尾張時計株式会社(現在の尾張精機)の取締役を歴任した。1939年(昭和14年)4月1日四日市市消防本部の初代警防団長に就任した。1940年(昭和15年)6月4日に四日市市へ日産ポンプ自動車の29AT式KMC段タービン26馬力を寄付した。三岐鉄道の社長と1963年(昭和38年)に会長に就任。東海ストア株式会社の社長、三重銀行の取締役を歴任した。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙日本進歩党から当選。衆議院議員から参議院議員に鞍替えして1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙で当選。衆議院議員1期、参議院議員1期を務めた。四日市市長となった九鬼喜久男は、紋十郎の娘・高子の娘婿で四日市九鬼家の養子であった。喜久男が四日市市長であった期間(1966年 - 1972年)、紋十郎は2度目の四日市市商工会議所会頭職にあって、四日市近鉄百貨店社長なども務めており、地域名望家である九鬼家による地元政財界の独占的支配があったと評されている[3]。四日市市大字松本在住。勲三等旭日中綬章受章。1986年(昭和61年)10月6日死去[4]

趣味[編集]

家庭・横顔[編集]

  • 妻・光子(1910年生まれ)[5]
  • 名実共に三重県下の政財界の大御所で、淡雅清高な有徳者であると評された[5]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ネット検索『出来事データーベース』1986年10月6日のニュース
  2. ^ 四日市のあゆみ 昭和21年→昭和63年”. 四日市へようこそ. 2012年6月24日閲覧。
  3. ^ a b 四日市環境再生 まちづくりプラン検討委員会 最終活動報告書 (PDF)”. 日本環境会議. p. 65 (2008年). 2012年6月24日閲覧。
  4. ^ 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』(昭和60年出版)の169ページの『九鬼紋十郎の項目』
  5. ^ a b 『三重県紳士録』247ページ第1段落の右側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の『九鬼紋十郎』の項目

参考文献[編集]

  • 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』(1985年)の169ページの「九鬼紋十郎」の項目
  • 三重県史』資料編 近代1 政治・行政 1
  • 『三重県史』資料編 近代2 政治・行政 2
  • 三重県紳士録247ページ
  • 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」
  • 四日市市史(第18巻・通史編・近代
  • 四日市市史(第19巻・通史編・現代
  • インターネット検索『出来事データーベース』1986年10月6日のニュース