ヴァイタスコープ

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ヴァイタスコープを宣伝する1896年のポスター

ヴァイタスコープ(英語:Vitascope)は、1895年にCharles Francis JenkinsThomas Armatにより最初に実証された初期の映写機。彼らはJenkinsが特許を取得したPhantoscopeに改良を加え、フィルムと電灯を介して壁やスクリーンに画像を投影できるようにした。ヴァイタスコープは、光を使用して画像を投影する大型の電動映写機である。投影される画像は元々キネトスコープの機構によりゼラチンフィルムに撮影されたものである。断続的な機構を使用して、フィルムネガは毎秒最大50フレームを生成した。シャッターが開閉して新しい画像が表示される。この装置は1分あたり最大3,000個のネガを生成できる[1]。Jenkinsは元のPhantoscopeを使用してArmatと提携する前に、1894年6月にインディアナ州リッチモンドでフィルム化された映画の最も初期の記録された投影を表示した。

Armatは独立してPhantoscopeをThe Kinetoscope Companyに販売した。同社は初期の映画工学の急速な普及によりキネトスコープがすぐに過去のものとなることを認識した。ヴィタスコープが最初に実証されてからわずか2年後の1897年までに、この技術は全国的に採用されていた。ハノイとテキサスは、彼らの写真ショーにヴィタスコープを最初に組み込んだものの1つであった[2]

ヴァイタスコープは、1930年にワーナーブラザーズによってSong of the Flameなどの映画に使用されるワイドスクリーンプロセスの商標としても一時的に使用された。ワーナーはマグナスコープ、ワイドビジョン、ナチュラルビジョン(後の3Dフィルムプロセスとは関係ない)、Fox Grandeurなど他のワイドスクリーンプロセスと競争しようとしていた[3]

歴史[編集]

トーマス・エジソンは彼の会社の1人用のキネトスコープが非常に利益を生み出していたため、この時点で投影システムの開発に時間がかかっていた。しかし、大勢の観客向けに映し出される映画は観る人の数に比例して必要な機会が少なくなるため、より多くの利益を生み出す可能性があった。よって、他の人は独自の投影システムを開発しようとした。

先導した発明者の1人は、Phantoscopeを作成したCharles Francis Jenkinsであった。Jenkinsは観客の前に投影された最初期の映画の背後にいた。1894年6月6日、インディアナ州リッチモンドでフィルムと電灯を使って、ボードビルのダンサーのフィルムが投影された。Woodville Lathamは息子とともに、Eidoloscope映写機を作成し、1895年4月に発表した。ウィリアム・K・L・ディクソンはレイサムらに機械についてアドバイスをし技術的な知識を提供したようであるが、この状況によりディクソンは1895年4月2日にエジソンの元を離れた。

ディクソンは1895年12月にパートナーのHerman Casler, Henry Norton Marvin, Elias KoopmanとAmerican Mutoscope Companyを設立した。最終的にAmerican Mutoscope and Biograph Companyになったこの会社はすぐにエジソン・カンパニーの主要な競争相手となった。

同じ時期にC. Francis JenkinsとThomas ArmatはJenkinsの特許のPhantoscopeを改良した。これは1895年秋にアトランタのCotton States Expositionで発表された。2人はすぐに分かれそれぞれが発明を主張した。

Armatはキネトスコープ事業の衰退に直面しその利益の可能性を認識したKinetoscope CompanyのオーナーであったRaff & GammonにPhantoscopeを見せた。彼らはPhantoscopeの権利を買うためにArmatと交渉し、エジソンに承認を求め接近した。Edison Manufacturing Companyはそのための機械とフィルムを製造することに同意したが、それを条件としてPhantoscopeはヴァイタスコープという新たなエジソンの発明として宣伝された。エジソンの懐疑論者はヴァイタスコープには色あせた過去があると主張している。さらに、批評家はヴァイタスコープはPhantoscopeにわずかに変更を加えた再パッケージ化にすぎないと主張している[2]

ヴァイタスコープの最初の劇場展示会は、1896年4月23日、ニューヨーク市のKoster and Bial's Music Hallで行われた。他の競合他社はすぐにアメリカの劇場で独自の投影システムを展示した。投影システムには、ヴァイタスコープのイノベーションをコピーした再設計のEidoloscope、1895年にヨーロッパではすでに発表されていたリュミエールシネマトグラフ、American Mutoscope Companyにより販売されたBirt Acres' Kineopticonが含まれる。ヴァイタスコープの初演は、ボードビルのマネージャーが投資しようとしていたリュミエールのシネマトグラフに非常に多額のお金を失うという脅威への迅速な対応であった。リュミエールのシネマトグラフは1895年より存在していたが、すでに英国で人気があったため、米国では人気となっていなかった。特にロンドンでは人々がリュミエールのシネマトグラフに夢中になっていた[2]。Raff and Gammonは米国のリュミエールのシネマトグラフに先駆けて技術をリリースすることでより大金を得ることができると認識した[4]。ヴァイタスコープがマンハッタンで悪名高くデビューした後、この装置は、ボストン、フィラデルフィア、アトランティックシティ、ポートランド、スクラントン、ニューヘイブン、ニューオーリンズ、ニューロンドン、クリーブランド、バッファロー、サンフランシスコ、アズブリーパーク、ボルチモア、デトロイト、シカゴ、ロサンゼルスなどでの展示会含む全国に配布された。この展示会は1つの夏に25の都市で開催された。

[2][4]

ヴァイタスコープは、競合する多くの映写機と共に、全米の都市のバラエティ劇場やボードビル劇場で人気の呼び物になった。映画はすぐにボートビルのプログラムでの主要な呼び物になった。出展者はエジソンの目録から映画を展示することができた。

エジソン・カンパニーは1896年11月にProjectoscopeまたはProjecting Kinetoscopeとして知られる独自の映写機を開発し、ヴァイタスコープの販売を止めた。

マーケティング[編集]

トーマス・エジソンとThomas Armatは大きな利益を上げたが、多くの投資家は債務不履行に陥り、赤字になった者もいた。投資家はヴァイタスコープが観客にどのように販売されたかにより、お金を失った[2]。Raff and Gammonは米国とカナダでフランチャイズを担当し、投資家に彼らの州で独占的にヴァイタスコープを使用する権利を購入する機会を提供した。これは短期間の独占効果をいくらか生み出し、本質的に観客が展示者が与えるものを何でも受け取らざるを得なくなった。Raff & Gammonはマーケティングのキャンペーンを開始したときに、順序を間違えてしまった。当時、彼らはボードビルのマネージャーが使用できる映画を約20本しか持っていなかった。彼らには観客の映画経験を新しい映画で継続的に更新するためのリソースがなかった[4]

出典[編集]

  1. ^ Lathrop, George P. “Stage Scenery and the Vitascope.” The North American Review 163.478 (1896): 377-381. JSTOR. Web. 18 Oct. 2014.
  2. ^ a b c d e Musser, Charles. “The Vitascope.” The Emergence of Cinema: The American Cinema to 1907 1.1 (1990): 109-132. Gale Virtual Reference Library. Web. 18 Oct. 2014.
  3. ^ David Coles, "Magnified Grandeur, Widescreen 1926-1931"
  4. ^ a b c Allen, Robert C. “Vitascope/Cinématographe: Initial Patterns of American Film Industrial Practice.” Journal of the University Film Association 31.2 (1979): 13-18. JSTOR. Web. 18 Oct. 2014.

外部リンク[編集]

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