マネ碁

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マネ碁(マネご)は囲碁の戦法の一つで、相手の打った石から点対称の位置にマネをしながら打っていくこと。白番で黒の打つ手をマネしていく「白番マネ碁」と、黒で第一着を天元に打ち、その後白のマネをしていく「太閤碁」の2種類がある。下図は白番マネ碁の局面の一例である。

白番マネ碁[編集]

白番で黒の手に追随して打ち進め、相手がミスをしたら変化する戦法。藤沢朋斎が得意とした。対策としては模様の張り合いに持ち込み、天元に打ってより大きな模様規模を確保するもの、中央付近で戦闘を起こして天元を切り札として打つもの、シチョウを利用するものなどがある。

シチョウ作戦は、隅でシチョウを発生させて中央で激突するように打つもので、1961年杉内雅男が開発した。

このままシチョウを追いかけ合うと中央でぶつかり、白が取られてしまうのでなんらかの形で回避しなければならない。回避しても白によい図はできず、当時白番マネ碁破りの決定版と呼ばれた。

太閤碁[編集]

太閤碁という名称は、碁を知らなかった豊臣秀吉が碁を打たねばならなくなった時、臣下の者の入れ知恵によって第一着を天元に打ち、後を相手のマネをして一目勝ちを収めたという逸話に由来する。ただし、その気になれば碁を知らない相手に太閤碁を打たれても回避は容易であり(下図はその一例)、秀吉自身も実際にはかなり碁をたしなんでいたことから、この話は後世の作り話であろうとされる。


史上有名な太閤碁としては、呉清源が来日初手合で木谷實相手に打ったものがある。呉は63手目までマネを続けたが、結果は木谷の妙手もあり白の3目勝ちに終わった。

  • 呉清源(黒)-木谷實(1929年)

太閤碁はコミなしの碁で1目勝ちを目指すならある程度有力な戦法であるが、現代では6目半のコミを出すのが容易でないため打たれることはない。

マネ碁の評価[編集]

藤沢朋斎はかなり長期にわたってマネ碁を打ち続けたが、「創造性に欠ける」などとして評価は決して高いものではなかった(藤沢のマネ碁の勝率は通算勝率より相当低い)。また白番マネ碁は、対策が進んだ事もあって勝率は5割を切ったとの統計もあり、戦法としても有効とは言い難い。対策を知らないアマチュア相手にはある程度力を発揮することもある。

関連項目[編集]