ハゴイ飛行場

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ノースフィールド飛行場
North Field
Tinian North Field DN-ST-95-01291.JPEG
IATA: なし - ICAO: なし
概要
国・地域 北マリアナ諸島の旗 北マリアナ諸島
所在地 テニアン島
種類 軍用
運営者 アメリカ海兵隊
開設 1939年
所在部隊 なし
座標 北緯15度04分19.36秒 東経145度38分18.13秒 / 北緯15.0720444度 東経145.6383694度 / 15.0720444; 145.6383694座標: 北緯15度04分19.36秒 東経145度38分18.13秒 / 北緯15.0720444度 東経145.6383694度 / 15.0720444; 145.6383694
滑走路
方向 長さ (m) 表面
- 2,500 一部舗装
- 2,500 未舗装
- 2,500 未舗装
- 2,500 未舗装
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ハゴイ飛行場(ハゴイひこうじょう)は北マリアナ諸島テニアン島の北部にあり、アメリカ海兵隊が管理する飛行場である。ハゴイ飛行場という呼称は完成時の名称で、この他にも日本統治時代には北飛行場ウシ飛行場牛飛行場)とも呼称された。なお、現在の米軍内での名称はノースフィールド飛行場英語: North Field)である。2,500メートル級の滑走路を4本持ち、太平洋戦争末期には広島長崎に向けて原爆搭載機が発進した飛行場である。

建設[編集]

1939年昭和14年)に横浜刑務所から派遣され、赤誠隊と名付けられた日本人の囚人部隊1280名によって建設された。完成時は1,450mの長さの滑走路を持つ南洋諸島最大の飛行場であった。

完成後、ハゴイ飛行場は、日本海軍の管理下におかれた。

太平洋戦争(大東亜戦争)[編集]

日本海軍による作戦実施[編集]

米軍の攻撃で破壊された格納庫

太平洋戦争開戦後、しばらくは軍用機の配備はなかったが、1944年(昭和19年)2月19日トラック島空襲に伴って第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻一式陸攻40機がハゴイ飛行場に進出した。

2月22日の米機動部隊による空襲の際、七六一空は米機動部隊に対して雷撃を行ったが、戦果はなく22機が未帰還となり、さらに一式陸攻7機と九六陸攻7機が地上で撃破された。翌2月23日にも米軍による飛行場に対する攻撃は続けられ、基地員約30名が戦死し、飛行場施設は破壊された。この攻撃による米軍機の損害は6機だったが、日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けることとなった。

その後、七六一空は内地で編成し直し、再びハゴイ飛行場に進出して哨戒任務に就いたが、3月30日31日パラオ大空襲に伴って、5月頃に本隊はパラオペリリュー島に移動し、ハゴイ飛行場には一部を残すのみとなった。

6月11日から始まった米軍のマリアナ諸島侵攻の際には、新たに派遣された零戦18機(三〇一空10機、三四三空8機)が迎撃に飛び立つもほとんどが未帰還となった。七六一空も、6月13日午前3時に5機が敵艦隊攻撃のために飛び立ったが、戦果はなく1機が硫黄島に不時着、1機がテニアンの東海岸で不時着大破した他、3機が行方不明になるという結果だった。

この作戦がハゴイ飛行場における日本軍最後の作戦となった。

米軍による占領後[編集]

米軍占領後のハゴイ飛行場

1944年8月3日テニアンを占領した米軍は、海軍建設大隊の手によって飛行場を2日間で使用可能にし、さらに4本の8,590ft(2,590m)級の滑走路を建設した。

その後、ハゴイ飛行場はアメリカ陸軍航空軍の管理下に置かれた。米軍によってノースフィールドと改名されたハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、1944年11月以降、グアム島アンダーセン飛行場サイパン島アスリート飛行場、テニアン島のウエストフィールド飛行場と共に日本本土空襲を行う米軍の拠点の1つなった。

1945年5月には、第509混成部隊がテニアンに進出した。進出後、原爆投下の訓練を開始した第509混成部隊は、1945年8月6日広島8月9日長崎への原子爆弾投下作戦を実行した。

現在[編集]

B滑走路に着陸するC-130輸送機

現在、ハゴイ飛行場を含むテニアン島の北部3分の2にあたる土地は北マリアナ諸島政府からアメリカ海兵隊に貸し出されている。しかし、1947年3月30日以降、軍用機をはじめとする飛行機の配備や駐留部隊はなく、駐屯地としては使用されていない。そのため4本の滑走路のうち南側の2本の滑走路は緑に覆われている。

ハゴイ飛行場は演習場としては現在でも使用されていて、ハゴイ飛行場を含むテニアン島北部では時折演習が行われており、その際には民間人の立ち入りは禁止となる。近年では、沖縄に司令部を置く米海兵隊第3海兵遠征軍と島嶼防衛を主な任務にする陸上自衛隊西部方面普通科連隊の共同訓練が実施されていて、上陸用舟艇ヘリコプターを使用した上陸演習が行われている。

観光[編集]

リトルボーイを保管していた保管庫。保管庫右にあるのが原爆搭載記念碑

演習の時を除いて、ハゴイ飛行場の敷地には自由に立ち入ることができる。テニアン島内に公共交通機関はないが、テニアン島内でレンタカーもしくはレンタバイクを借りるか、旅行会社主催のオプショナルツアーに申し込むことでハゴイ飛行場を訪れることができる。

かつての滑走路には民間人も自由に立ち入ることができ、エノラ・ゲイボックスカーの各原爆搭載機の発進地点にはリトルボーイファットマンの保管庫が現存し、保管庫内部には1945年8月当時の写真が展示されている。両保管庫の脇には米国によって建てられた原爆搭載記念碑があるが、碑文の内容は原爆投下を正当化したものとなっている。

その他にも、飛行場附近には日本海軍の司令部や通信所、発電所、弾薬庫トーチカなどの建物が現存している。

普天間基地移設問題[編集]

2010年1月にテニアン市長レーモン・デラクルスは、沖縄普天間飛行場の移設先として、ハゴイ飛行場を含むテニアン島北部への受け入れを表明した[1]。この案には、日本国内でも社民党が支持を表明し、川内博史議員ら一部の民主党議員も、4月9日にテニアン島を視察している。

5月26日にはデラクルス市長が来日して、参議院議員会館と社民党本部で記者会見を行ったが、鳩山政権や米軍内での反対もあり、この後、具体的な進展はない。この時に民主党政権が行った無責任な言動により、沖縄の基地移設問題は複雑化し、2015年現在も問題は続いているが、全ては一度沖縄側も受け入れた移設問題に対して法的根拠の無い発言に起因している。当時の民主党政権総理大臣の個人的な発言の責任を取らせるべきだとの関係者からの指摘もある。

ただし、在沖縄海兵隊の訓練は、定期的に行われている。そもそもテニアン島は、沖縄県や中華民国が位置する第一列島線に含まれておらず、海兵隊移転を急がせる日本国内大手メディアの影に第一列島線内までの覇権確立を目指す中華人民共和国関係部署との内通が指摘されている。そして北マリアナ諸島は、果てない軍拡を続ける中国人民解放軍南シナ海進出の次に、軍事的野心を公言している第二列島線上に位置しており、グアム島と共に米国空軍にとっても欠かす事のできない戦略防衛ラインとなっている。現在でも第一列島線及び第二列島線という用語は、中国人民解放軍海軍関係者が頻繁に公文書上で使用している事が確認されている為、この問題では、沖縄の地方自治体内部関係者や基地移設反対派が、いわゆる外国団体との共謀による外患誘致行為を行っていた場合は、国際法が重大な戦時行為として禁じている間接侵略行為に相当するとの国際法専門家の指摘も存在する。

脚註[編集]

参考文献[編集]

井上昌巳 『一式陸攻雷撃記』 (光人社NF文庫 1998年) ISBN 476982212X

関連項目[編集]