ノート:エホバの証人/過去ログ9

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「著名人の信徒」なる項を削除した件について[編集]

次の各点において適当ではないと考え、削除しました。

  • 本人、あるいはその代理人等による公表に拠らない。(報道を否定しないことは「肯定」や「公表」ではない。)
  • 「信仰」と「その人の事跡」との関係についての証明がされていない。
  • この項目に対する理解を深める上で必要不可欠というわけではない。
  • 他の「著名人」の例が全く挙げられておらず、不自然(別に日本の一個人だけに限定する必要はないでしょう。)

要するに「報道されたから」という理由だけで書くことは百科事典的ではないと考えました。 --219.104.151.142 2009年9月26日 (土) 13:19 (UTC)

「彼らは」と言う表現[編集]

信者を卑しめたいのだとは思いますが、wikipediaでこう言う表現はおかしいと思います。--219.111.127.76 2009年2月8日 (日) 17:24 (UTC)

※ノート:エホバの証人/archive8の一部を編集の参考のために掲げておきます。

「キリスト教系」との表記と冒頭部分の記述について[編集]

「キリスト教系」についての解答です。上記で、私が何をどう考えどのように迷ったのかを記述すると、その私の解説を読んだ人が混乱するだけのような気がしますので、その部分の解説は割愛させて頂きます。手っ取り早く、「キリスト教系」の語を Google にかけたところ、以下のような語句が抽出できました。

キリスト教系の出版社、キリスト教系の小売業者、キリスト教系高等学校、キリスト教系SNSサイト、キリスト教系書店、キリスト教系の月刊誌、キリスト教系課目、キリスト教系の大学、キリスト教系NGO、キリスト教系新聞、キリスト教系中学校、ユダヤ・キリスト教系の神学部、キリスト教系野党勢力、キリスト教系の幼稚園(以上、検索上位50件から抽出)

この結果からは、「キリスト教系」と表現することが「キリスト教であることを否定」することに繋がるという事実は存在しないように思えます。問題があるとすれば、検索結果の2番目にヒットした「キリスト教系の新宗教」という記事の内容との関連によるのでしょう(検索結果によってその存在を初めて知りました…いや、一連の著作権侵害の調査過程から知っていて然るべきなのですが、当時は全く眼中にありませんでした)。その内容が正しいことを前提に、その記事に「エホバの証人」を当てはめると、その位置づけは以下のようになります。

  • (1)「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団がキリスト教であり」とあるので、「伝統宗教としてのキリスト教内部」からは「キリスト教ではない」とされる。
  • (2)「この中にあって…逸脱するものを異端…と呼ぶ。」とあるので、「この中」つまり「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白」していないので「異端」ではないようです。この記事内に以前に「異端ですらない」と書かれたことがありましたが、その意味では正しかったようです。
  • (3)「これに対して宗教学の立場からは、広義のキリスト教、すなわち聖書を経典としキリストを唯一の救世主と認める宗教を一般にキリスト教と認めようとする立場もある。」とあるので、「宗教学」の見解では「広義のキリスト教」として認められそうです。
  • (4)「後者の立場からは、…キリスト教系の新宗教であると表現される。」とありますが、「後者」とは「聖書より上位の立場にある経典をもつ教団」のことなので、そうした上位の経典が存在しないエホバの証人は「キリスト教系の新宗教」ではないようです。

しかし、「エホバの証人」は、その記事の日本語版だけでなく英語版でもリストされており、もしかして日本語版の記事内容がどこか間違ってるのか?。と一瞬考えたのですが、英語版の記事名は "Restorationism" (復古主義?両者の内容はだいぶ異なる)なので、「記事内容に誤りが含まれている」とは一概に言えないようです。従って、「キリスト教系の新宗教」の記事内容が正しいと仮定した場合、「「広義のキリスト教」に属する新宗教」といったあたりが正しい描写になりそうです。また、「異端視される事も多い」との表現についても「批判される事も多い」などのように変更する必要があるかと。

エホバの証人は、宗教学上「広義のキリスト教」に分類される新宗教である。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることでも知られる。三位一体の教理を退けるため、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないとして、伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。

まとめると、こんな感じになりますが…。Rigel 2007年6月29日 (金) 12:50 (UTC)


確認可能な百科辞典類の記述を洗ってみました。

  • 平凡社『世界大百科事典』28,2005年(改訂)
    ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派、および<ものみの塔聖書冊子協会Watch Tower Bible and Tract Society>の機関誌名.」(p.258)
  • 平凡社『世界大百科事典』1,2005年(改訂)
    アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。(p.561)
  • 山折哲雄監修『世界宗教大事典』平凡社,1991年
    ものみの塔;「一般に<エホバの証人Jehovah’s Witness>として知られるキリスト教の一派で、・・(以下略)」(p.1919)
    アリウス;「キリスト論に関する異端アリウス主義Arianismの主唱者・・・(中略)・・・近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは<エホバの証人>(ものみの塔)である。」(p.100)
  • 井上順孝中牧弘允外『新宗教教団・人物事典』弘文堂,1996年
    定義なし。「ラッセル(一八五二~一九一六)は、・・・(中略)・・・十八歳の頃聖書研究のグループを作る。・・・(中略)・・・「シオンものみの塔冊子協会」(英語名。中略)が組織される。」(p.304)
  • ジョン・R・ヒネルズ編/佐藤正英訳『世界宗教事典』青土社,1999年
    「チャールズ・テーズ・ラッセル・・・(英語名、生没年。中略)・・・が、この至福千年運動ないしセクトの創始者。」(p.67)「エホバの証人は、・・・(中略)・・・三位一体をしりぞけ、イエス・キリストをアリウス主義的に理解する。」(pp.67-68)
  • 山折哲雄他編『日本「宗教」総覧』新人物往来社,1992年
    第四部諸教編「神道仏教、キリスト教以外の系統の教団」を収める。
「ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)」の独立項目あり。
定義なし。「チャールズ・T・ラッセルは、・・・(中略)・・・聖書研究の集まりを始める。・・・(中略)・・・ものみの塔冊子協会を設立。」(p.308)
第9部新宗教
独立した定義項目なし。
「古代ユダヤ教のメシア待望の運動や原始キリスト教のキリスト再臨の運動、・・・(中略)・・・新宗教運動の特定の潮流のなかには、この特徴を見いだすことは可能である。・・・(中略)・・・「再臨のキリスト」による「最後の審判」や地上的な「神の王国」の間近な到来を告げ歩くキリスト教系のエホバの証人」(p.755)
「仏基両教の系譜をひくメシア的救済運動の創始者・・・(中略)・・・たとえば、ラッセル・・・(中略)・・・キリスト再臨の年を予言してきたエホバの証人の運動や、・・・(以下略)」(p.764)
カーゴ・カルトなどと同じ千年王国運動の文脈で説明している。
  • 村上重良『世界宗教事典』講談社,1986年,1990年(改訂)
※「プロテスタント(新教)諸派」(ルーテルからセブンスディー・アドヴェンティストまで一緒にしている。)と別項目で「エホバの証人・ものみの塔」の項目を立てる。
「エホバの証人は、・・・(中略)・・・キリスト教新教系の教派で、・・・(以下略)」(p.250)
※以下略には再臨や終末にかんする主張などの記述がある。
  • 松野純孝編『新宗教辞典』東京堂出版,1984年
「チャールズ・T・ラッセルが、・・・(中略)・・・始めた聖書研究グループが組織化されたもの。」(pp.424~425)
「イエス・キリストはエホバによって最初に創造されたのである。」(p.425)
※キリスト教の章があるがエホバの証人に関する記述は一切なく、巻末の語句解説に項目がある。
定義として「布教伝道活動で知られるキリスト教の教派。」(p.393)以下、会員数や創設に関する記述、再臨や終末にかんする記述がつづく。
  • ジョン・ボウカー編松村一男監修『ケンブリッジ世界宗教百科』原書房,2006年
キリスト教(Chistianity)の小項目アメリカの部分に記述あり。独立した定義項目なし。「歴史的伝統を持つ教派が異端とみなした新しい運動・・・(中略)・・・エホバの証人は、初期キリスト教徒が待望したように終末は近い、と主張し、・・・(以下略)」(p.258)

これをみてみると、「キリスト教の一派」、「キリスト教新教系の教派」との記述が見られる 一方、わざわざ、新宗教や諸教に分類する事典も見られます。ですから宗教学上、宗教人類学上の記述をするなら、 宗教学上は、キリスト教の一派とみなされることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。 という記述になります。はっきり書いてはいませんが、カーゴ・カルトゴースト・ダンスなどのメシア待望信仰は、文化人類学上は千年王国運動と一括して呼ばれます。時期的にも世界史的に新宗教が興隆した19世紀終わりごろであることからも、歴史認識上合致します。

それから、Rigelさんの
>伝統的キリスト教徒(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)からは批判される事も多い。 ですが、伝統的キリスト教徒の立場からすれば、はっきり異端として位置づけています。教理の観点から異端としているわけですが、そのことは、前述した百科辞典類の引用をご覧になればわかるように、三位一体の否定が、アリウス派的な理解、すなわち「イエス・キリストはエホバによって最初に創造された」というキリスト論の考え方が教理上あるのであるならば、異端という位置づけになります。それから、例のキリスト教系の新宗教の記事ですが、フレーズだけでなく文全体を引用すると
--- 伝統宗教としてのキリスト教内部では、ニカイア・コンスタンティノポリス信条告白する宗教集団がキリスト教であり、この中にあってキリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義から自覚的に逸脱するものを異端、教団外部にあるものを異教と呼ぶ。 ---
となります。ここで125.192.181.21.氏の
キリスト教系新興宗教と言う表現は明確にPOVですね。なぜなら、ものみの塔協会自体自分たちがキリスト教だと言っているのですから。
という発言が思いだされるのですが、異端の定義は、「キリスト教としての自己認識を保ちつつ正統教義(つまり、ニカイア・コンスタンティノポリス信条)から自覚的に逸脱するもの」であり、「この中にあって」という記述に引きずられないで、アリウス派的な教理から考えて異端そのものです。ただし、異端だと考えているのは「伝統的キリスト教徒」の側であり、エホバの証人、すなわちものみの塔冊子協会の会員は、125.192.181.21.氏が言うように、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識です。なお、アリウス派ないしは、アリウス派に近い立場というのは、「伝統的キリスト教徒」の立場からすれば、基本信条から外れているのですから、わざわざ、(もしくは「伝統的キリスト教を擁護する立場」)との言い換えは不要です。よって冒頭部分は下記のようになります。

エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいい、しばしば、「ものみの塔聖書冊子協会」の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されることもあるが、そのキリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえていると信じている。

または、

エホバの証人とは、(チャールズ・T・ラッセルがピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した)「ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい、しばしば、ものみの塔聖書冊子協会の会員を集合的に指す場合の呼称である。宗教学上は、キリスト教の一派とみな[or「広義のキリスト教」に分類]されたり、キリストの再臨や終末論の強調から千年王国運動の系譜を引く新宗教とみなされている。また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条及び三位一体を否定(し、イエス・キリストを被造物と)する教理などから、伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが、エホバの証人の立場は、いまや新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の使信を忠実につたえているという認識をもっている。

  • (注)()は省略可能部分、[or ]は、入れ替え可能部分。

書いていてRigelさんが以前提案したように「ものみの塔聖書冊子協会」と「エホバの証人」を分割するか「ものみの塔聖書冊子協会」に改名する必要がある気がしてきました。というのは、百科辞典類が教団名を項目にしているからです。 Siyajkak 2007年7月5日 (木) 09:08 (UTC)---一部加筆及び修正Siyajkak 2007年7月5日 (木) 17:26 (UTC)

なるほど~(詳細な調査、ご苦労様です)。
この中」とは「伝統宗教としてのキリスト教内部」なんでしょうね。この点は完全に私の読み違えだったようです。ところで、その「教団名」が何なのか?というと、信者自身であっても分からないと思います。この点、私はノート:ものみの塔聖書冊子協会にある Hasec さんの「そもそも、この教団に、「教団」としての正式名称があるのでしょうか?」という発言と意見を同じにします。「ものみの塔聖書冊子協会」が単なる一法人に過ぎないのも確かなのですが、「エホバの証人」が教団名、もしくはグループ名なのかというと、…

  • 私はエホバの証人です o
  • 私達はエホバの証人です o
  • 私はエホバの証人の信者です x
  • 私達はエホバの証人の信者です x

やはり違うと思うのです。他、

  • ものみの塔聖書冊子協会の会員ないし信者のことをいい
    「協会」という言葉が本来持つ意味からすると、「会員」などはなるほどと思うのですが、「…協会の会員」、「…協会の信者」と呼ばれることに対する反論が現役信者から起こるような予感があります(違和感を覚える表現ですので)。編集合戦を招かないためにもこうした表現は出来る限り避けるべきかと思います。
  • 「広義のキリスト教」
    元々は私の提案ですが、Google で検索をかけたところ、最初は「約 731 件」とあったのが、次の検索結果を表示すると17件にまで激減してしまいました。うち2つは Wikipedia 自身の記事で、そのクローンも5件含まれるため、あまり一般的な呼称ではないようです。また、そのうちの1つは内村鑑三氏への言及であり、その文脈からすると、単に「伝統=狭義、他=広義」という分類用語ではなく、「キリスト教への固執=狭義、他宗教への寛容=広義」という思想的な意味合いを含んだ語であるようです。もしこうした定義が本当に存在するのであれば、軽々しく用いるべきではないように思います。
  • 伝統的キリスト教徒からは異端であるとされるが
    「教徒」=「信者」なので、このように断定調で用いるならば、もう少し表現に工夫が必要かと思われます。
  • 新世界訳聖書という最も適した翻訳を持っている
    「最も適した翻訳」とみなしているわけではないでしょう(大半は。一部、そう勘違いしている信者もいるであろう可能性については否定しません)し、新世界訳を用いなくとも宣教する際に困ることはないでしょう。

また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。

エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一教派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。

細部の表現等もまとめて修正すると、こんな感じになります。↑は昨夜のうちに書き上げていたのですが、色々と調べ物をしているうちにこんな時間になってしまいました。C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。Rigel 2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)

コメントありがとうございます。当初から考えると的確な定義に仕上がってきて感動しています。お疲れ様です。わたし自身も「広義のキリスト教」と使うのは、首を傾げていましたので(実はRigelさんの記述を極端にいじりすぎた反省。)、ご自身で調査されて訂正されたことに敬意を表するとともに胸をなでおろしています。一方で、「教派」という語句ですが、宗教学上では、厳密な教理まではつきつめないため教派だろうと一派だろうと一緒くたでしょうから、教理的な性格が著しく異なることから「一派」くらいにしたいですね。また「伝統的キリスト教徒」というのも、Rigelさんの記述を尊重しようと意識しただけなので、「~教会」とされるならそのほうがいいです。
>また、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の記事から分かることというのは、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」と「三位一体を信じていることを表明すること」は実質的に同一である、ということです。なので、「及び」(and)と表現して両者を別々のものであるかのように表すのはちょっと変です。
これはおっしゃるとおりです。ちょっと安易でしたね。ただ定義なり教理的になにを根拠としているか挙げてみたかったということなので異論ありません。
>C.T.ラッセルへの言及を含むと冗長な文章となってしまうと感じます。
これもそう思いながらもラッセルの聖書研究会がもとになったと書いている辞典類の記述にならってみたものなので、省略可能を想定した()でくくってみました。冗長なら、ないほうがよいと思います。
ところで、
>三位一体を否定し、キリスト教諸教派では最もアリウス派の解釈に近いとされる。
についてですが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが、伝統的なすべてのキリスト教会を包括する定義(いや本当に簡潔で的確な定義だ...)であるため、「キリスト教諸教派」でアリウス派ないしはアリウス派に近い立場というのは存在しないはずなので、「キリスト教諸教派」を「教理的に」に訂正させていただきます。(ただし、宗教学上~以下の記述には、キリスト教に属するもののように扱われるので、その趣旨を生かします。)
一方、
>伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが
ですが、この「定義」は、教理じゃないかと一瞬思いましたが、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白する宗教集団」こそが「伝統的キリスト教会」ですので、やっぱり「定義」のほうが的確であることに同意します。
また、全体的に冒頭の二行は、一緒くたになる外部の者にとっては非常にわかりやすい的確な表現で感激しました。加えて「使信」が「音信」になっているのは、エホバの証人自身の主張の部分なので「音信」のほうが的確なのかと勉強になりました。
以上のことをまとめると、
エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。
三位一体を否定し、教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる。このため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
となります。Siyajkak 2007年7月6日 (金) 12:30 (UTC)
上記に対しての異存はありません。後は#作業分担の問題を残すのみかと思われます。Rigel 2007年7月7日 (土) 03:20 (UTC)

エホバの証人とモルモン教、統一協会はキリスト教3大異端とされますが、最近は、本文にもある基本教義との違いばかりでなく、聖書以外に創立者の書いた書物を遵守することなどから、キリスト教会側からは「異端ですらない」とされることが多くなりました。以上は出典が大分前に読んだ書物なので今は明記できませんが、大分以前の『キリスト教大辞典』にはキリスト教の一派とされていたそ--Bokemiann 2010年8月30日 (月) 10:27 (UTC)うですが、20~30年くらい前から上記のような立場を取るようになったと言われます。「聖書のみ」の原則に外れるというのがその最大の理由です。なお、上記で挙げられている辞典類での記述は必ずしもキリスト教の専門家の編集によるものではないので、「キリスト教の一派」の表現もあるのでしょう。今回はキリスト教界の公式的な見解に従って「異端ですらない」と改めておきましたが、一般的な見解に従って不適切な場合は撤回もありです。

最近の議論[編集]

その1[編集]

上記の文はPOVであると主張します。
理由1:エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者とありますが、これは批評家が勝手に主張している見解であり、実際にはエホバの証人は聖書により訓練された個人の良心により行動していると言う事実を無視している。解釈は人により異なることもある。
理由2:エホバの証人…はメディアではその教団名であるかのように用いられることもある:これも事実と反する。エホバの証人自身がこの名称をグループ名(教団名)として受け入れている。
理由3:三位一体を否定し、・・・ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる:これはカトリック・プロテスタント両教会が主張しているPOVな主張。この主張をNPOVにするにはニカイア・コンスタンティノポリス信条や三位一体が聖書正典の教理と一致していることを証明する必要あり。エホバの証人は三位一体が聖書と矛盾すると主張し、その根拠となる聖句を上げている。
理由4:[エホバの証人]自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。:これも嘘。エホバの証人はそのようなことを主張したことはない。むしろ、聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。エホバの証人の出版物は不謬ではない(間違いがないわけではない)ことを認めている。実際、教理の調整(変更)はたびたびなされている。~~

<反論>
>上記の文はPOVであると主張します。

POVではありません。むしろ後述のように反論しましたが、ノートの議論の参加せず護教的な記述に編集するほうがPOVなので慎まれたい。またアタナシウス信経というのは特殊な用語です。一般的に使われる普通の言葉を使うことができないことこそあなたの記述がPOVであることの証左です。
本文中>聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。
は著しくPOV、すなわち中立的ではありません。なぜならエホバの証人以外は、エホバの証人が聖書正典のみを研究している、とは考えていないからです。
  • 理由1:エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者とありますが、これは批評家が勝手に主張している見解であり、実際にはエホバの証人は聖書により訓練された個人の良心により行動していると言う事実を無視している。解釈は人により異なることもある。
あなた自身が「これは批評家が勝手に主張している」と考えているだけで、事実として批評家がそのように主張していることを認めているのだから客観的な記述であることは論を待たない。論理が破綻している。
単なる客観的な事実記載であるのだからPOVとして差し戻しをする正当な理由がない。同じメディアの主張であってもキリスト教系新宗教ということについては、そういった表現を避けて客観的な記述になるようにし、宗教学上の記述として限定しているわけであるからこれは勝手な解釈ではない。
事実として批評家がそのように主張していることを認めているのだから客観的な記述である:これはむちゃくちゃな主張ですね。Wikipedia:中立的な観点を読んでおられるのか疑問です。
百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
提案されている文は明らかにこうした方針を無視しています。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:18 (UTC)



  • 理由2:エホバの証人…はメディアではその教団名であるかのように用いられることもある:これも事実と反する。エホバの証人自身がこの名称をグループ名(教団名)として受け入れている。
あなたの周辺のエホバの証人の方々がグループ名(教団名)として受け入れていても、Rigelさんのように考えている方もいるし、一般的な新聞雑誌の意見であるから、事実と反しない。
一般的な新聞雑誌の意見であるから:それは「意見」でしょう。「意見」を「事実」として記述することをPOVというのです。これもWikipedia:中立的な観点を読まれての記述か疑問ですね。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:18 (UTC)


  • 理由3:三位一体を否定し、・・・ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる:これはカトリック・プロテスタント両教会が主張しているPOVな主張。この主張をNPOVにするにはニカイア・コンスタンティノポリス信条や三位一体が聖書正典の教理と一致していることを証明する必要あり。エホバの証人は三位一体が聖書と矛盾すると主張し、その根拠となる聖句を上げている。
これは、カトリック・プロテスタント両教会の立場を事実記載として例示しているだけで、エホバの証人の立場もその後に記述しているので、POVではない。都合の悪い事実記載を除いて護教的な記述に終始することこそPOVである。三位一体が聖書正典の教理と一致していることはキリスト論の神学書や各種聖書注解書、エホバの証人の反論本で自明であり、ここでいちいちあなた個人のために引用する労力をわたしが負う必然性がない。もし、教団も間違えることがあるというなら、三位一体を否定する理由すらも将来成り立たなくなる可能性もある。それから、聖書正典が正しいといいつつ、教団以外の本で汚染されるなどという感覚をもっているならそれこそがあなた自身が洗脳されていてPOVな記述を繰り返していることの証明になる。虚心坦懐に自分の行為を振り返ることと、教団以外の文献を虚心坦懐に読む勇気をもつことをおすすめする。
三位一体が聖書正典の教理と一致していることはキリスト論の神学書や各種聖書注解書、エホバの証人の反論本で自明であり:すみませんが、そのエホバの証人の反論書ではどの聖句から三位一体が聖書聖典と一致しているのか記すべきです。それに、それは意見であり、事実ではない。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:41 (UTC)


  • 理由4:[エホバの証人]自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。:これも嘘。エホバの証人はそのようなことを主張したことはない。むしろ、聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。エホバの証人の出版物は不謬ではない(間違いがないわけではない)ことを認めている。実際、教理の調整(変更)はたびたびなされている。
嘘ではない。エホバの証人の方々の立場を客観的かつ好意的に記述しているのであり、そのたびに、間違いや教理の変更がなされているならそのほうがもっと問題である。つまりやっぱりうそだったということを自分で認めているわけで論理が破綻している。また、あなた自身が「聖書正典が真理であり、エホバの証人が全体としてそれに従っているゆえに真のクリスチャンである、と言う見解。」を持つのは自由であるが、そういった個人的な思い込みや感情こそが外部の人間からすれば事実ではなく著しくPOVであることを認識されたい。
いったいどこが好意的なのか説明いただきたい。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:41 (UTC)


聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。---Siyajkak 2008年1月7日 (月) 17:57 (UTC)

その2[編集]

ちょっとだけ。「アタナシウス信」とか「アタナシ信経」であればよいということですか。まあこういう用語は教派によって揺れがありますし、実際ググってみると「アタナシウス」も使われてたりしますから (多くは専門家でないひとのようですが)、穏便に訂正しておけばいいでしょう。
一点を除いて、Siyajkakさんが 2007年7月6日 (金) 12:30 (UTC) に示した案に賛成です。一点とは、「教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる」という一文です。これは教理に対する評価を含んでいますので、冒頭定義文に入れるのではなく、出典明記のうえ記事本体中にうつすべきです。
「三位一体を否定」という解説と意味的に重複します。また、ものみの塔の教理がアリウス派の思想に起源を持つなどの関連性があるかどうかは、自明なことではありません (他者からの評価である場合はもちろん、たとえ当事者がそのように主張しているのだとしても、それを示す出典がいる、ということ)。さらに、三位一体の否定がアリウス派の思想と同等であるかのようなPOVを含んでいます (ユニテリアン・ユニヴァーサリストやクリスチャン・サイエンスなどはアリウス派と関係あるでしょうか)。
ではでは。 --Hatukanezumi 2008年1月8日 (火) 06:25 (UTC)

やはりよくご理解いただいていないようですが、「アタナシウス信経」なる表現ですが、少なくともプロテスタント超教派で出されている本をかなり目を通していてもなかなか発見することのできない(少なくとも自分は一度も目にした事がない)それくらい珍しい表現です。エホバの証人の反論本にすら目にすることができません(少なくとも必死に探すくらい珍しい表現です)。Biglobeのattayoで41件(ちなみにアタナシウス派は、1060件)、MSNでは、最初のページに単語として数件散見される程度です(アタナシウスだけなら数え切れないほど出てきますが...)。もしかしてカトリックギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、そんな一般的でない表現を使うことに対してまた専門家でない人がたまたま使うことがあるという表現に対してなぜ穏便にすまさなければならないのか理解できません。

次に「アリウス派に解釈に近いとされる」を本文中に移してしまったら読者にとってわけのわからない表現になります。「アリウス派の思想に起源を持つなどの関連性があるかどうかは、自明なことではありません」といいますが、わたしが言いたいのは、起源がどうかではなく内容の問題であり、直接関係のない「(ユニテリアン・ユニヴァーサリストやクリスチャン・サイエンスなどはアリウス派と関係あるでしょうか)。」の話まで持ってくると、論点がぼやけてしまうのでこのことも全く問題にしていません。

アリウス派との近似に関しては、わたしが挙げた11冊の辞典類のうち3冊(27.273%)に出てきます(もう一度ここの過去ログとあなたのノートページの過去ログを熟読してください)。これは、前述の1060件に対する41件(3.868%)よりもはるかに大きい比率です。「アタナシウス信経」のほうを配慮して、合意した記述のほうがなぜPOVになってしまうのか、議論が定まったあとになって後だしじゃんけんのように差し戻しをする行為に対して譲れというのなら一時が万事ごね得になってしまいます。

もし、「アリウス派に解釈に近いとされる」をどうしても譲れというのなら「伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、」という熟慮と配慮で譲った表現を「キリストを被造物とし、聖霊を活動力とする教理は、正統派キリスト教会の基本信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端である。」と書き直すことになります。配慮がないようですが、これは、正統派キリスト教会の立場からすれば客観的に事実ですし、アリウス派云々についてよりも出典は数え切れないほどあるので(キリストを被造物にする考え方に対しては、なにしろ4世紀ニケーア公会議以降文献は枚挙にいとまがない、すなわち、この場合、三位一体の否定がアリウス派の思想と同等であってPOVではない。)、いちいち挙げていたらきりがありません。---Siyajkak 2008年1月8日 (火) 17:18 (UTC)

わたしはクリスチャンではありません。そういう目から見ると、「ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っているかどうか」について、特にいいとも悪いとも思わないです。ただ、キリスト教関係の解説書ではかならず触れられることなので、キリスト教界やその周辺では、非常に重要な概念らしいな、ということがわかります。ですから百科事典では、そのことは特筆されるべきだとおもいます。
しかし、同様に部外者の目からみると、「三位一体を否定する」というのが「アリウス派に近い」というのは、あまりに粗雑な主張だと考えます。三位一体を否定する主張というのは、キリスト教世界の歴史上、繰り返しでてきますし、時期によって消長はあるものの、常に存在する主張でありつづけています。当然ながら、すべてがアリウス派に発しているのではありません。実際、Siyajkakさんの挙げた文献でも、書いてあったとしても「アリウス主義」と書いてありませんか。これ自体、変な用語だとおもいますが (「社会主義思想」を「金正日主義」と呼ぶのとおなじくらい変です)、「アリウス派」だなんて書いてありませんよ。
また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。また、ユニテリアンで話がぼやけるとおっしゃいますが、キリスト教関連思想や人道思想の日本への紹介という面では、決して無視できない存在です。Siyajkakさんにとっては、自教派の立場がもっとも主流で自然なものに見えるかもしれませんが、ほかのひとにとってはかならずしもそうではないのです。そして、百科事典は、そのようなさまざまな視点を包括するものでなければなりません。Siyajkakさん自身が、かなり深刻なPOVに基づいて議論してしまっていることに、気づいてください (もちろん、証人のかたが言っている意味でPOVなのではありません)。
この記事は、エホバの証人、ものみの塔について書くところです。もちろん、その集団の宣伝に記事を使われるべきではありませんが、同時にその団体を断罪するために使われるべきでもありません。Siyajkakさん自身が同集団を断罪したい気持ちをあらわにしているために、反発を生んでいることにも、気をとめていただきたいとおもいます。まして、「異端である」と断言するような変更には、とても賛成できません。
そういうわけで、Siyajkakさんの応答を読んでも、わたしの意見はかわっていません。 --Hatukanezumi 2008年1月8日 (火) 18:31 (UTC)

>また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。
これは、あなたが、「アタナシウス信経」の語を使うべきだと主張しているのだから、カトリックやギリシャ正教会で使われているかどうか、また一般的かどうかはあなたが確認すべきでしょう。わたしに頻度まで確認させておきながら、この言い方はないでしょう。それから、わたしは前レスで
>「聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。
と相手方に対して提案しているのですよ。あなたが横から意見を主張するのは、編集合戦を誘発するようにしか受け取れません。申し訳ありませんが後出しじゃんけんのようにご自分の主張を通されるなら不毛なことにしかならないことをご承知ください。あなたの主張は「ここの過去ログとあなたのノートページの過去ログを熟読し」てくれとわたしが言っているのに、わたしの意見が気に入らない、だから、ああしろこうしろと他人をあてにしているだけだということを自らを振り返って猛省していただきたい。わたしは、現状のままを変えないのが一番望ましいと考えています。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 09:35 (UTC)

>「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックやギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。
これは、看過しがたい、はっきり言えば悪質ともいえる印象操作です。「もしかしてカトリックギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、」というのは、そうかどうかわからない、もしかしたらそうかもしれないが、やっぱり違うかもしれないと正直に感想を意見をのべているだけで、「そんな一般的でない表現を使うことに対して」と直接つながるものではありません。誤解を生んだのかもしれませんがここまで歪曲されるといい気持ちはしません。

>また、ユニテリアンで話がぼやけるとおっしゃいますが、キリスト教関連思想や人道思想の日本への紹介という面では、決して無視できない存在です。
わたしはそういうことを話しているのではありません。エホバの証人の教理の問題のみを話しているのです。論点をそらすのと印象操作はやめていただきたい。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:45 (UTC)

それから
>同時にその団体を断罪するために使われるべきでもありません。Siyajkakさん自身が同集団を断罪したい気持ちをあらわにしているために、反発を生んでいることにも、気をとめていただきたいとおもいます。まして、「異端である」と断言するような変更にはとても賛成できません。
についてですが、これは、あなたが異端という言葉に過剰反応して、断罪していると思い込んでいるだけです。そんなことなら、ニカイア信条に書いてある「アナセマ」(呪われよ)と書かれていることは、POVだからと、あなた個人の感情で否定しなければならないことになります。「アナセマ」の語がなくてもあなたの主張からすればニカイア・コンスタンティノポリス信条もPOVになってしまいます。どうしてもご自分の意見を通したいなら、ギリシャ語なりラテン語をならって、タイムマシンに乗って4世紀の世界のニケーア公会議第1コンスタンティノポリス公会議にでて、異端というのは断罪だ、POVだと叫んできてください。それから、信条の本文に異端とは書いていないというかもしれませんが、アリウス派は異端と世界史の教科書にだって書いてあります。それとおなじようにキリストを被造物とする考え方は異端であることには変わりありません。表現を穏やかにするなら、キリスト教ではない、キリスト教とは違うことを明記するということなら理解できます。
実は、三位一体は、キリスト教の教理の根本そのものなので、キリストが神でなく被造物だとしたら、十字架で個人の原罪を償うこと、個人の罪を背負って十字架上で身代わりに死ぬことができないことになり、十字架の贖罪を信じれば救われるという救済の教理が根本から崩れてしまいます。カトリックの場合は煉獄とか善行が救いに影響するという教理が部分的に見られますが、新約聖書のパウロ書簡アウグスティヌスルターの著書を読めばわかるように救済の教理については本質的には変わりません(ただwikipediaの記事については、自由主義神学新正統主義などの影響が強い特定の立場で書かれた記事が多いのでこのあたりがぼやけている傾向がある、つまり実はPOVなので、福音派いのちのことば社とか聖霊派の立場の本も合わせて読む必要がある)。教理の問題は人が救われるか救われない(ゲヘナに落ちるか)の問題なので、ことの是非はともかく火刑のようなことまでおこなわれた命がけの話だったのです。それを一時的な感情論で、POVだ、断罪していると軽々しく主張していだだきたくありません。ご自分が知らないことは知らないとして口を出すのは厳に慎まれたい。ちなみにわたしは、自分の苦手な分野や自信のない分野は手をださないようにしています。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 13:56 (UTC)--とりあえず最終的な修正Siyajkak 2008年1月9日 (水) 14:13 (UTC)


>しかし、同様に部外者の目からみると、「三位一体を否定する」というのが「アリウス派に近い」というのは、あまりに粗雑な主張だと考えます。
粗雑かどうかは、下記のニカイア信条ニカイア・コンスタンティノポリス信条の引用文を読めば普通は理解できるはずです。あなたはこれをちゃんと読んでいるのでしょうか。※下線部は、エホバの証人が否定する部分
---ニカイア信条・引用はじめ---
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、 まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして
・・・(中略)・・・
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、 変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、 公同なる使徒的教会は、呪うべし。
---引用おわり---

---ニカイア・コンスタンティノポリス信条・引用はじめ---
主は神のひとり子、 すべてに先立って父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。(カトリック教会の訳文)


一の主イイスス・ハリストス、神の獨生の子、万世《よろづよ》の前に父より生まれ、光よりの光、真《まこと》の神よりの真の神、生まれし者にして造られしに非ず、父と一体にして(ギリシャ正教会の訳文)
---引用おわり---

あなたの意見は感情の吐露で反論のための反論でしかありません。数日かけてお考えいただきたいという言葉をそのままおかえしします。--Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:49 (UTC)---修正Siyajkak 2008年1月9日 (水) 16:55 (UTC)

「『アタナシウス信経』を使え」などと申し上げてはいません。よくお読みください。なぜそのように、お互いの意見のちがいを、お互いの否定ととらえてしまうのでしょうか。
また、あなたはご自分の知らない話題や興味のない話題を向けられると「話がぼやける」「一般的でない」とおっしゃっているようにも見えます。それでは、かえって自分のPOVに固執しているように見えてしまいます。
さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。
したがって、「異端である」と断言したいのであれば、それは特定の教派 (もちろん今日主流の教派ではありますが) の見解ですので、本文本体中で、出典を示して解説すればよいことです。実際、Siyajkakさんは、その出典になる資料を、このノートで多数示してこられたではないですか。それらを論争に勝つためにではなく、記事を充実させるために使ってください。
まして、「アリウス派に近い」などという客観性のない粗雑な議論は、不正確すぎて百科事典の記述にはむきません。「誰々の見解である」と明示してしか載せられないと申し上げているのです。ですので、冒頭定義文には置けないのはもちろん、記事本体中に置く場合でも、信頼できる情報源にもとづく出典が必要です。
繰り返しますが、わたしは「どちらが正しいか」ということには興味はありません。また、あなたがあなたの意見を「これが主流の意見だ」と主張するのは自由です。しかし、あなたの信じる正しさによって他人を裁くようなまねは、やめてください。あなたがそうできるのなら、他人もそうしてよいはずでしょう?
これ以上申し上げてもおなじことの繰り返しになりそうですので、これくらいにしておきます。すぐ応答なさる必要はありませんので、できれば、数日かけてお考えいただきたいです。 --Hatukanezumi 2008年1月9日 (水) 16:28 (UTC)

>「『アタナシウス信経』を使え」などと申し上げてはいません。よくお読みください。なぜそのように、お互いの意見のちがいを、お互いの否定ととらえてしまうのでしょうか。

「わたしは「どちらが正しいか」ということには興味はありません」といいながら、どうしてこのように他人のことを決め付けて印象操作をするのでしょうか?否定といいますがなにを否定しているか意味不明です。
>「アタナシウス信」とか「アタナシ信経」であればよいということですか。まあこういう用語は教派によって揺れがありますし、実際ググってみると「アタナシウス」も使われてたりしますから (多くは専門家でないひとのようですが)、穏便に訂正しておけばいいでしょう。
教派によってゆれがあるから穏便に訂正、ということは、わたしには少なくとも訂正の上使いたいという意味に受け取れました。
>また、「アタナシウス信経」という用語の用法があるかどうかは、ちゃんと調べてください。「アタナシア信経」は聖公会で用いられますが、「一般的でない」と切り捨ててよいのですか。まして、ローマカトリックギリシャ正教会を「一般的でない」と言うのは、いくらなんでもひどすぎるんじゃないでしょうか。
下の部分については誤解である上に不本意な受け取られ方であり、印象操作がなされていて、非常に不愉快です。繰り返しになりますが、「もしかしてカトリックギリシャ正教会では使っているのかも知れませんが、」というのは、そうかどうかわからない、もしかしたらそうかもしれないが、やっぱり違うかもしれないと正直に感想を意見をのべているだけで、「そんな一般的でない表現を使うことに対して」と直接つなげるつもりではありません。
このように「他人を裁くまね」をはじめたのはあなたのほう(2008年1月8日 (火) 18:31 (UTC))でしょう。それだから猛省しろ(2008年1月9日 (水) 09:35 (UTC))と言ったわけです。

>また、あなたはご自分の知らない話題や興味のない話題を向けられると「話がぼやける」「一般的でない」とおっしゃっているようにも見えます。それでは、かえって自分のPOVに固執しているように見えてしまいます。

下線部のような印象操作と論点そらしをしないでください。知らないとか興味がないとか関係ありません。非常に不愉快です。冒頭分の内容について話し合っているのであり、わたしは、一貫してエホバの証人の教理のみを問題にしているのです。ユニテリアンの社会的意義とか(実は当然わたしも知っています、というか少なくとも過去その種の話を載せた本を読んだことがあります。)もちだしたら話が脱線してどうにもならなくなることをご理解ください。

>さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。

これについては全く同感です。

>したがって、「異端である」と断言したいのであれば、・・・

何か誤解なさっているようですが、あなたが意見を通したがっているみたいなので、交渉の材料として断言する提案をしているだけです。ただ違いははっきりさせるべきだとは思います。あなただって穏便にすませたいでしょう。だから、配慮して現在の冒頭文があるわけです。

>あなたの信じる正しさによって他人を裁くようなまねは、やめてください。あなたがそうできるのなら、他人もそうしてよいはずでしょう? これ以上申し上げてもおなじことの繰り返しになりそうですので、これくらいにしておきます。すぐ応答なさる必要はありませんので、できれば、数日かけてお考えいただきたいです。

それはこっちの科白です。こういう捨て台詞じみた印象操作をされるいわれはありません。他人の意見を思い込みで解釈し、印象操作をくりかえし、あげくのはては「裁くようなまね」という言い方はないでしょう。過去のスレを読んでいないこととご自分の勉強不足を正直に認めたらいかがですか。過去のスレやこれまでの議論を読み、数日かけてご自分の態度を猛省していただくようおすすめします。---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 18:02 (UTC)---Siyajkak 2008年1月9日 (水) 18:53 (UTC)
太字を多用するのはやめてください。議論が無用に感情的になります。
修正のしかたに絞って、提案をまとめておきますね。
  • 論争の的となっていることには出典を示す。主流の見解であるならなおさらそうする。
  • 冒頭定義文は定義を書く場所なので、出典が必要になるようなことは本文中に移す。
したがって、現在の冒頭定義文のつぎのような記述は、すべて信頼できる情報源による出典を示し、かつ、本文本体中に移す。
  1. 「教理的に最もアリウス派の解釈に近いとされる。」
  2. 「しかし、アリウス派は政治・軍事活動を支持したのに対し、エホバの証人はそうした活動を支持していないという点で異なる。」(現在は脚注になっていますが、脚注をこのように使うことは感心しません)
  3. 「彼ら自身は、『自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている』といった見解を示す。」
1. は当事者以外からの評価を示した出典が必要かとおもいます。2. は当事者による文献が示されていますが、できれば第三者の評価を示した出典がほしいところです。1. と 2. はまとめられるでしょう。また 3. は、当事者の主張を引用したかたちに書き換えるべきでしょうが、客観的な内容ではないのであまり重要ではないでしょう。
またこのようにしたとすると、現本文の冒頭定義文2段落めは「三位一体を否定するため、伝統的キリスト教会の定義に従うならば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになる」という記述が残ることになりますが、これも「教理」の節に移してかまわないようにおもいます。残るのは、1段落めの内容だけとなります。 --Hatukanezumi 2008年1月10日 (木) 02:46 (UTC)

冒頭部の記述に関する提案[編集]

「正しいかどうか関心がない」といいながら、相手の回答や説明を自分に不都合だと無視して自分の思うようにすすめようとする姿勢は感心できません。わたしは、第一案として「聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。」という記述と「アタナシウス信経」などという特殊用語ををやめてくれるなら、いくらかの加筆修正が必要になりますが以前のあなたの記述を前向きに検討する余地があります。」と2008年1月7日 (月) 17:57 (UTC)に述べていたように125.193.23.145氏が提案した冒頭の記述
---引用はじめ---
エホバの証人カトリックプロテスタントいずれにも所属せず、聖書正典のみを研究し、それを実践するキリスト教のグループである。彼らはほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。カトリック・プロテスタントが正典とするニカイア・コンスタンティノポリス信条やその書の教理である三位一体を聖書正典に矛盾するものとみなすため、両教会から異端視されている。
---引用おわり---
を、使ってシンプルに
---
エホバの証人(-しょうにん)は、1870年代初頭にチャールズ・ラッセルピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいう。会員ないし信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。彼らはほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。カトリックプロテスタントの共通の基本信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条が定めた三位一体の教理を排除するため、両教会から異端視されている。
---
にすることを提案します。これについては、Hatukanezumiさんも、
>さて、冒頭定義文は本来、議論の余地のない定義を書くところであり、だれの主張であるかを確認しなければならないようなことを書くところではありません (ですので、「聖書正典のみを研究し」などという文言を定義文にまぎれこませるのも、当然わたしは反対です)。
と述べておられるので異論はないでしょう。

それから、現在の冒頭文は、長い話し合いの上決まったものなので、これを特定の個人が気に入らないと主張するからといって振り出しにもどしてしまったらなんでもありなので、編集合戦がさらに激化します。どうしても「アリウス派に近い」を除きたいのであれば、妥協案(第2案)として下記が考えられます。
---
エホバの証人(-しょうにん)とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。宗教学上はキリスト教の一教派、もしくはキリストの再臨や終末論など教理的特長の類似から、千年王国運動の系譜を引く新宗教に分類される。 教理の中心的な特徴に、キリストを被造物とし、聖霊を神の活動力とするなど三位一体の教理の否定があり、このため、伝統的キリスト教会の定義に従えば、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従っていないため異端に属することになるが、彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。
---
もちろん、Hatukanezumiさんのいう3.部分(下線部)を当事者の主張や意見によって変えていただく(この場合は彼ら自身の自己認識や主張の部分なので、いくらでも護教的な表現になってもかまわない)ことはやぶさかではありません。---Siyajkak 2008年1月10日 (木) 10:47 (UTC)---加筆修正Siyajkak 2008年1月11日 (金) 08:46 (UTC)

日があいてしまってすみません。上でSiyajkakさんが示している案のうち、1つめ (「シンプルに」と述べておられるほう) に賛成です。
ところで、半保護もされたことですし (というか、半保護依頼をだすことも検討していたのですが、他事にまぎれてやっていませんでした。すみません)、ログインしないどころかノートでの発言に署名もしないようなかたを相手にするのは、やめませんか。 --Hatukanezumi 2008年1月17日 (木) 14:57 (UTC)

大変恐縮ですが、過去のノートで行なわれた議論をお読みください、と繰り返し申し上げているように

エホバの証人(-しょうにん)は、1870年代初頭にチャールズ・ラッセルピッツバーグ市に開いた聖書研究グループが教団化した「ものみの塔聖書冊子協会」の会員ないし信者のことをいう。会員ないし信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。

の部分は、当事者のことをよくご存知なRigelさんのご提案で、

エホバの証人とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。信者を集合的に指す呼称としても用いられるため、メディアではその教団名であるかのように用いられることもある。信者は多かれ少なかれほぼ全世界で活動し、宣教に熱心であることで知られる。

に変えた経緯があり、IP氏がPOVだと主張している記述の代替案として改めて提案したという趣旨があります(このへんの説明不足はすみませんでした)。IP氏が納得する姿勢を見せたなら、それを根拠にRigelさんに交渉、再度提案するつもりでした。全員合意できるようであれば晴れて冒頭部分の記述にするのは可能かと思われます。しかし、実際にはIP氏は積極的に賛同する姿勢を示さないまま半保護になりましたので、同じことをRigelさんに交渉するのは、完全な議論の蒸し返しになるため、ありえません。したがって、Hatukanezumiさんと議論する場合において、この部分の変更はありえないことをご承知ください。アリウス派云々の部分はわたしが提案した記述ですので、どうしても納得いかないという意向は了解いたしましたのでこの部分のみの変更を行なうことは可能です。ちなみに「両教会から異端視されている。」というよりも、基本信条の内容から逸脱しているのは事実であり、多少ともやわらかい、かつ両教会の立場について正確な表現を使うとするなら「両教会から異端とされている。」となります。どうしてそのようになるのかは以前わたしが繰り返し述べてきた説明をお読みください。いくら事実であっても、どうしてもきつい表現になるのは否めないために、それを和らげようと「彼ら自身は、「自分たちこそが真のクリスチャンであり、聖書の音信を忠実に伝えている」といった見解を示す。」を加えているわけです。

>ログインしないどころかノートでの発言に署名もしないようなかたを相手にするのは、やめませんか。

これは、まったくそうですね。以前は署名がある分弁解の余地がありません。半保護逃れをするようならしかるべき処置が必要かもしれません。---Siyajkak 2008年1月18日 (金) 10:28 (UTC)--補筆Siyajkak 2008年1月18日 (金) 16:33 (UTC)
えーと確認ですが、「シンプルに」とおっしゃった文章は、案文としてだしたものではないという理解でよいですか。 --Hatukanezumi 2008年1月23日 (水) 08:10 (UTC)

これは、Hatukanezumiさんがいらっしゃる前のわたしとIP氏との話し合い、わたしの書いた1月11日 (金) 08:46 (UTC) と1月18日 (金) 16:33 (UTC)の発言を読み返していただきたいのですが、IP氏がPOVだと主張しているこれまでの合意部分についてIP氏に話し合いのテーブルについてもらいたいという意味で提案したという意味があります。二案提示したのはそういう意味があります。したがって、最初の「シンプル」案については、IP氏の意向が確認できない限り案としては成り立たないということです。繰り返しになりますが説明不足であった点についてはお詫びいたします。---Siyajkak 2008年1月25日 (金) 16:57 (UTC)

うーん、そういう意図ですか。わかりました。とりあえず、「アリウス派に近い」の部分を定義文から除去するということで、第2の案に賛成しておきます (なお上でものべたように、「アリウス派に近い」という論の存在について十分な信頼性をもつ出典が提示されるのであれば、本文の解説で触れることはできると考えます)。
なおわたしは、発言を一貫して同一人が行っているかどうかを確認できないIPアドレスでの意見表明は、合意を目的とした議論の場では考慮する必要はないという意見です。それは、霧の中で相手がだれと見定められずに対話するようなものです。 --Hatukanezumi 2008年1月29日 (火) 23:56 (UTC)

合意に基づいて記述の修正を行いました。---Siyajkak 2008年2月10日 (日) 11:17 (UTC)

その他[編集]

エホバの証人(-しょうにん)とは、ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践する者、その一人ひとりを指す呼称。は極めてPOVなので削除。さらに、ニカイア・コンスタンティノポリス信条はエホバの証人とは無関係なので削除します。

どこがPOVなのでしょうか?カトリックやプロテスタントの信者による、というのはあなたの主観であって、なんら客観的に中立でない根拠が示されていません。カトリックやプロテスタント以外の人も普通に納得しますし、現にエホバの証人の関係者と思われるRigelさんも賛同しています。あなたが気に入らなければPOVになるなら、あなたの意見こそがPOVですよ。ニカイア・コンスタンティノポリス信条については、エホバの証人が従わない基本信条なので関係大ありです。--Siyajkak 2008年1月17日 (木) 12:45 (UTC)

ものみの塔聖書冊子協会の主張する聖書解釈を実践するという部分でしょう。こういう記述がNPOVなら、カトリック教会は「バチカンの主張する聖書解釈を実践するもの」、プロテスタントは「マルティン・ルターやヤン・カルバンの主張する聖書解釈を実践するもの」と書き換えなくてはなりません。なにしろ、彼らが主張する三位一体「論」は聖書とは無関係の「論」ですから(聖書正典中には「聖霊が神である」とはどこにも主張されていないので)。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:33 (UTC)

まずは、署名してください。方法がわからないわけじゃないでしょう。別のアカウントでアクセスしているだけでしょうから。

ログインしたら投稿ブロックすると脅迫する管理人がいる以上、ログインはできかねます。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:10 (UTC)
カトリック教会は「バチカンの主張する聖書解釈を実践するもの」、プロテスタントは「マルティン・ルターやヤン・カルバンの主張する聖書解釈を実践するもの」と書き換えなくてはなりません。

そうではありません。三位一体では一致していますから。カトリック教会のなかでもいろんな意見を持つ人がいますよ。解放の神学とか様々な意見をがあって論争だっておきていますから。プロテスタントが、ルターやカルバンだけだとは困った話ですね。

三位一体では一致している:これは嘘ですね。三位一体論の中にも、イエスが神自身なのか、神と同格なのかで意見が分かれています。こういうPOVな主張はやめていただきたく。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:33 (UTC)

うそではありません。ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条を読めば明確ですが。あなたがたの主張とごっちゃにしないでいただきたい。---Siyajkak 2008年3月11日 (火) 15:36 (UTC)

ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条カトリック教会が勝手に作ったものです。イエス・キリストはそれらを読むように弟子に勧めたことはありません。イエス・キリストが読むように勧めたのは聖書正典だけです。
よって、そうした信条を支持する人は「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」(マタイ15:8,9)というイエスご自身の言葉を無視していることになります。
「真理によって、彼ら(弟子たち)を聖なるものとしてください。あなた(神)の御言葉は真理です」(ヨハネ17:17)
「(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするのに有益です」(テモテへの手紙二3:15,16)
そもそも、私はそうした信条が聖書の教理と矛盾していると言っているのに、あなたはそれに反証せずに、話を巧妙にすりかえてますね 125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 01:32 (UTC)
>聖書とは無関係の「論」ですから(聖書正典中には「聖霊が神である」とはどこにも主張されていないので)。

これはあなた方が恣意的な英語訳である新世界訳で歪曲した解釈をしているだけで、聖書全体をしっかり読めば、聖霊は 神であることがわかるようになっています。統治体によって編集され、自分たちの教理に合わせて都合のいいことばかり書いてあるものばかり読まず、別のものもしっかり読んで自らの間違いを認識してくださいね(ここに反論をのせるのが膨大な労力がかかることと、エホバの証人に対策として利用されるので載せれないのが残念です。)それから、wikipediaは、伝道の場ではないし、侵略の歴史とかで血塗られたキリスト教の名をかりるよりもあなたがたの主義主張や独自性を主張したほうがいいとおもいますけどね。---Siyajkak 2008年3月10日 (月) 09:44 (UTC) ---Siyajkak 2008年3月10日 (月) 09:44 (UTC)---脱字加筆Siyajkak 2008年3月17日 (月) 09:53 (UTC)

これはあなた方が恣意的な英語訳である新世界訳で歪曲した解釈をしているだけで、聖書全体をしっかり読めば、聖霊は神であることがわかるようになっています。:私は新共同訳から聖霊が神でないと主張しているのですから、別に新世界訳が歪曲しているせいではないと思いますが。どこの聖句を読めば聖霊が神であることが分かるのか記述いただかないとあなたの主張がPOVであるという結果になると思いますが。211.135.129.4

新共同訳には、聖霊が神の活動力だなんてこともどこにも書かれていませんよね。あなたの主張のほうがPOVです。---Siyajkak 2008年3月11日 (火) 15:36 (UTC)

たしかに、新共同訳聖書には聖霊が神の活動力であるとは書かれていませんが、聖霊が神やイエス・キリストと同格であるとも書かれていません。(以下引用聖句はすべて「聖書 新共同訳」(日本聖書協会発行)から)。
「人の子(イエス・キリスト)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されない」(マタイ12:32)
よって、イエスと聖霊が同格であるとはいえません。
さらに言わせてもらえば、神とイエス・キリストも同格ではありません。
「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神です」(コリントの信徒への手紙一11:3)
もし、キリストと神が同格なら、男とキリストも同格でなければなりません。
ゆえに三位一体は非聖書的な教理ということになります。
また、聖霊は人格的なものとは述べられていません。
「(イエス・キリスト)は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3:11)
「エリサベトは聖霊に満たされ(た)」(ルカ1:41)
一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉を話し出した」(使徒2:4)
「神は聖霊と力により(イエス・キリスト)を油注がれた者となさいました」(使徒10:38)
ここで明らかに聖霊は「火」や「力」といった非人格的なものと同列に置かれています。よって、人格的な者ではありません。また、聖霊が人格的な者なら「聖霊に満たされる」という表現はおかしいでしょう。
125.199.137.118

:警告:今後こういうPOVな記述を続けると、法的措置をとります211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 03:03 (UTC)

法的な脅迫をしない←こういう方針文書があります。エホバの証人に対する反論本や反論文書はいくらでもありますから、それとの公平性がなく、すなわちPOVで護教的な記述なのでrvされます。そもそも議論に加わらずあとだしじゃんけんのように書き込みをすること自体間違った態度です。

>ログインしたら投稿ブロックすると脅迫する管理人がいる以上、ログインはできかねます。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:10 (UTC)

だれをログインしたからといって投稿ブロックしませんが。法的な処置をとるとか主張したり、あなたが一方的に護教的記述(すなわちあなたこそがPOV(=中立的でない)な記述)をしているをするのが問題なのです。
ノート:エホバの証人/archive8#記事の役割分担について#さらに具体的にはでRigal氏が2007年7月6日 (金) 09:44 (UTC)に主張しています。125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 01:45 (UTC)

さて、
「ほかの時にも伝道はしますが、別に伝道の機会にクリスマスを用いてまずい理由なんかありませんが?それじゃあ、それからエホバの証人以外で、クリスマス・イブに「泥酔、酒宴」をしているか他のキリスト教会へ行って確認したことがありますか?おそらく情報統制されて教団以外の印刷物を読まないように洗脳されているというのが事実であることをあなたの記述からひしひし感じますが。」

これに対し、あなたの主張が客観的で公平であること(無理だからPOVではなく(=中立的でなく)護教的であることの告白になってしまうんですかね。)を論じてもらえるよう待っているんですが、回答がありません。

>また、クリスマス・イブにサンタクロースが煙突からやってくると言って、子どもたちに嘘をつくこともです。

だれがうそをついているんですか?あ、これは読んだことがあります。教団の印刷物の転載ですね。ちょっとまずくないですかね。それから、子どもの夢をかなえるために普通の人がしていることを否定しなくったっていいでしょう。もちろん、エホバの証人の方々がそのような信条を堅く守ること自体は立派なことですし、大歓迎ですが。
子どもの夢をかなえるために普通の人がしていることを否定しなくったっていいでしょう。
子供に誤った「夢」を与えることが正当なこととは思えません。
それに、イエス・キリストもご自分の弟子は「世に属していない」とはっきりおっしゃっています。(ヨハネ15:18、19)周りの人がしているからといってクリスマスを祝っていい正当な理由とはなりません。125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 02:16 (UTC)

>そもそも聖書中、誕生日の祝いは処刑と結び付けられています。(創世記40:20;マタイによる福音書14:6)

「おそらく世界中の牧師が失笑を抑えるのにたいへんだと思います。マタイの記述は、ヘロデの誕生日にヨハネを恨んでいたヘロデヤが娘にたまたまヨハネの処刑した首を持ってこさせたというエピソードの記述であって、それをもって誕生日が処刑と結びつくので避けるようにと聖書は教えているのではありません。前後の文脈を読めばはっきりしていますが...。創世記の記述にしても、王の誕生日の宴会を開くのが目的なのであって、給仕役と調理役のどちらかを処刑するのが目的じゃないでしょう。統治体や新世界訳の底本である英訳聖書が前提にあるので、考え方が本末転倒です。---Siyajkak 2007年12月23日 (日) 11:52 (UTC)---加筆Siyajkak 2007年12月23日 (日) 21:02 (UTC)

「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものである」(ロマ15:4)
聖書がファラオやヘロデの誕生日に言及しているのはわたしたちを「教え導くため」であって単に物語として書かれているのではないです。
「死ぬ日は生まれる日にまさる」(コヘレト7:1)
聖書正典中で誕生日を好意的なものとして記述している箇所はないです。
さらに言わせてもらえば、エホバの証人が誕生日の祝いを退け始めたのは1920年代で、新世界訳聖書英語版が最初に発行されたのは1950年代です。ゆえに、この教理が新世界訳から発生したというのはまったくの見当違いです。
125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 00:41 (UTC)
このようにちゃんと教団の聖書解釈が恣意的だと述べていますが。新共同訳であればなおさらわたしの文脈どおりであることが素直に読めばわかるはずですが。---Siyajkak 2008年3月11日 (火) 15:26 (UTC)--Siyajkak 2008年3月11日 (火) 16:32 (UTC)--一部修正Siyajkak 2008年3月17日 (月) 09:53 (UTC)
上記に記したとおり、あなたの主張は新共同訳から証明されていない 125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 00:41 (UTC)

>「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものである」(ロマ15:4)
>聖書がファラオやヘロデの誕生日に言及しているのはわたしたちを「教え導くため」であって単に物語として書かれているのではないです。
>「死ぬ日は生まれる日にまさる」(コヘレト7:1)
>聖書正典中で誕生日を好意的なものとして記述している箇所はないです。
これは、教団の出版物の内容から記述しているだけで、新共同訳に書かれている内容ではありません。したがって反論の体をなしていません。新共同訳の創世記のヨセフ部分だけを教団の出版物に頼らず何回も読み返してください。そこからでないと話が始まりません。

ほかにあなたに有利と思われるのは、ヨブ記3章1節の「ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」(新改訳第2版旧約聖書,p.780)ですが、これもヨブ記全体を読めばわかるようにヨブが試練にあって深い嘆きから自分の生まれた日をのろっているのであって、誕生日そのものが否定されているわけではありません。あなたの主張は、聖書の特定の部分だけ取り出して誕生日を否定しているという主張であり、聖書全体が書かれた内容や主張をゆがめています。むしろ、ヨブ記1章4節に「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、」(新改訳第2版旧約聖書,p.778)とあるように誕生日は喜ばしいものと受け止められていましたし、ルカによる福音書1章で天使がエリサベツにヨハネの誕生を伝える場面で、14節に「多くの人もその誕生を喜びます。」(新改訳第2版新約聖書,p.96)とあり、また、マタイやルカの福音書を読めばキリストの誕生はよろこばしいものとして受け止められていたからこそ、羊飼いは拝みにわざわざおとづれ、東方の博士たちは贈り物をもってきたのではないでしょうか。 それからわたしは、新世界訳から教理が発生したとは言っていません。わたしは、あなた自身が「統治体や新世界訳の底本である英訳聖書が前提にある」から、教団内部で教え込まれて誕生日を否定する考え方をもっているのでは、と思ったのですが、そうでないとしたら何を根拠にしているのでしょうか。新世界訳には、誕生日を否定する教えがないということなのでしょうか。ここまで述べてきたように、マタイの福音書の、ヘロデの誕生日にヨハネを恨んでいたヘロデヤが娘にたまたまヨハネの処刑した首を持ってこさせた話や出エジプト記の給仕役と調理役の話にしても誕生日を祝ってはいけないという教えは聖書から導き出せません。これは申し訳ないですがむしろ国語の問題ですので、あなた自身が教団の印刷物に頼らずよく聖書全体の記述のみを読み返してみてくださいというほかありません。---Siyajkak 2008年5月17日 (土) 09:25 (UTC)

↑人をコケにするのもいい加減にしてほしいですね。なんでもかんでもものみの塔協会の出版物に結び付けて…
あなた自身が「統治体や新世界訳の底本である英訳聖書が前提にある」から、教団内部で教え込まれて誕生日を否定する考え方をもっているのでは、と思ったのですが
だから、世界訳聖書が誕生する前からこの教理は存在するのですがね……なんでもかんでもあなた方の言う”教団”のせいにしたいんですかね…お話になりませんShinbei 2008年5月23日 (金) 03:30 (UTC)


新世界訳聖書創世記40章です(インターネットで聖書をお読みになれます。エホバの証人:ものみの塔協会公式ウェブサイト※ここから創世記40章を選択してください。全文掲載の過去版) 。全体の文脈を確認していただきたいために長い引用にならざるをえませんでした。これを読んでも誕生日を祝ってはいけない、誕生日はのろわれているとかという解釈は成り立つでしょうか。

ヨセフが夢を解き明かした話で、「パン焼き人の長」が悲惨なことになったとはいえ「献酌人の長」のほうは助かっています。ここから誕生日は呪われたものとか祝ってはいけないとかという教えは導き出せません。---Siyajkak 2008年5月24日 (土) 09:29 (UTC)

「独自の研究」の意味[編集]

えーと。保護中のネタ振りです。

正直言って、わたしはSiyajkakさんもお相手のかたも、その主張はまったく支持できません。『聖書』って一次資料でしょう? その文言を引いて「こう書いてあるからこう解釈できる」と主張するのは、独自の研究です。ウィキペディアでは勧められない執筆姿勢です。

ものみの塔について論じている資料に基づいて議論すべきだとおもいます。いまの状況だと、そういう資料に基づいて書こうとしたひとは、両方から攻撃されることになりそうです。

どうおもいますか。 --Hatukanezumi 2008年5月23日 (金) 12:56 (UTC)

あなたは簡単に「まったく支持できない」「独自研究」といいますが、ノート:エホバの証人/archive8をはじめとした以前の議論をちゃんと読んでいるんでしょうか?もし熟読しているならどうして半保護依頼で「改善しない主な原因は、論争に関わる両者がお互いの編集を護教的な論理によるものであるとみなしていることにあるとおもわれます」という個人的な主観が出てくるんですか?半保護依頼自体は当事者の一方であるわたしでなくあなたが出したほうがよかったという意味ではあなたの判断は支持できますが?---Siyajkak 2008年5月23日 (金) 15:04 (UTC)

いや。実際、あなたは「IPユーザーが護教的な主張を繰り返して一方的に変えてしまう」と保護依頼で言ってるじゃないですか (売り言葉に買い言葉的な面があることは否定しませんが)。あとは、IPユーザさんがどう思っているかがわかれば、「両者が」みなしているかどうかはわかりますね。
/archive8は見ました。Rigelさんのまとめはとてもいいとおもうし、その限りでは賛成です。しかし、Siyajkakさんは「合意を変えたければRigelさんを呼んでこい」みたいな言いかたをしますよね (わたしも言われましたし、IPさんにもそう言ってます)。そんなこと言ったら、記事を書き換えることはこのかたがうんと言わないかぎり、できなくなるじゃないですか (それでは当人も顔をだしにくいでしょう)。ほかの記事でのSiyajkakさんとくらべて、ずいぶん偏屈な対応だとおもいますよ。
で、上で言った「ものみの塔について論じている資料」を見てちょっと加筆してみようかとおもうんですが、このページで文案をだしてみてもいいでしょうかね (すぐにではないんで、この節の議論はつづけたいとおもいますが)。 --Hatukanezumi 2008年5月23日 (金) 18:51 (UTC)

たしかにわたしは、「協議して決まったはずの記述をIPユーザーが護教的な主張を繰り返して一方的に変えてしまうために差し戻しをせざるをえなくなっている」と言いましたが、/archive8で決まったことに対してIP氏が取っている態度について客観的事実として述べているだけのことです。それは/archive8を読めばわかることだし、わたしの主観にとどまらず保護依頼で「IPユーザーによる露骨な賞賛が続いていることと、法的脅迫まで至っている以上無期限半保護もやむなし。」と2008年5月20日 (火) 00:17 (UTC)に発言された方さえおられたのです。

それに対し「論争に関わる両者がお互いの編集を護教的な論理によるものであるとみなしていることにあるとおもわれます」は、わたしがノートで頻繁に使用した「護教的な主張」という語句を使ってHatukanezumiさんの主観を述べているにすぎません。それが証拠にIP氏は護教的うんぬんとは述べていないはずです。私は意見の「投げあいになってい」る客観的事実までは否定していません(私とIP氏のお互いの背景から出てくるものなので厳密には自説というのは正確ではありませんがそこまで言うのはやめました)。さらに/archive8での話し合いにはIPユーザ氏は参加していません(参加しようとしていないと言ってもいいかもしれません。また、/archive8#さらに具体的には|「さらに具体的には」Rigelさんが指摘している問題もあります)。それにHatukanezumiさん自身も「ログインしないどころかノートでの発言に署名もしないようなかたを相手にするのは、やめませんか。」と言っていますが?。

一方で、Hatukanezumiさんは、わたしに対し「偏屈」、「独自研究」と批判しますが、ノート:エホバの証人#最近の議論で、出典をなにか出したのでしょうか?わたしは、/archive8で引用した辞典類からわかることを客観的な数値にまであらわして話をしていますが?

それから「その文言を引いて「こう書いてあるからこう解釈できる」と主張するのは、独自の研究です。ウィキペディアでは勧められない執筆姿勢です。」といいますが、たとえば、創世記40章をちゃんと読んでいればわたしの主張が解釈ではないことがわかるはずですが、Hatukanezumiさん自身読んでいないから、解釈だという発言になるわけです。らちがあかないので、IP氏に有利なはずの新世界訳の創世記40章をエホバの証人のサイトから上のほうに引用します。これを普通に読めば誕生日が呪われているとか、祝えないとかいった意見がいかに成立しえないかわかるはずです。

>Rigelさんのまとめはとてもいいとおもうし、その限りでは賛成です。しかし、Siyajkakさんは「合意を変えたければRigelさんを呼んでこい」みたいな言いかたをしますよね (わたしも言われましたし、IPさんにもそう言ってます)。

Rigelさんのまとめだけでなく、わたしは出典調査をしました。なぜHatukanezumiさんは、こういう事実を黙殺しようとするんでしょうか?そのような方に独自研究などといわれる理由はないし、「合意を変えたければRigelさんを呼んでこい」という言い方をするという印象操作をしますが、合意形成をしたもとの相手に合意を覆す無断な書き換えにならないよう話しあいをもちかけるのは当然の礼儀だとおもいますが。なぜそれを避けるような議論の持って行き方をするんでしょうか。(それでは当人も顔をだしにくいでしょう)というのもあなたの都合でしかありません。---Siyajkak 2008年5月24日 (土) 09:00 (UTC)---とりあえず校正終了Siyajkak 2008年5月24日 (土) 10:35 (UTC)

念のために申し上げますが、仮にご本人が「もういいです。」と言った場合に、あくまでも心境の変化であって、ご本人の立場を尊重しないことを(それでは当人も顔をだしにくいでしょう)という言い方で正当化されるわけではないことを申し添えておきます。---Siyajkak 2008年5月24日 (土) 10:16 (UTC)

だれもあなたが記事をよくするのに一切貢献していないなどとは言っていません。「黙殺」「印象操作」などと言われるのでしたら、以前とおなじことの繰り返しですので、わたしは黙ることにします。1箇月たつとまた編集合戦がはじまるのでしょうね。 --Hatukanezumi 2008年5月24日 (土) 10:48 (UTC)

Rigelさんのまとめはとてもいいとおもうし、その限りでは賛成です。」とはっきりおっしゃっていますが。それからHatukanezumiさん自身「ものみの塔について論じている資料に基づいて議論すべきだとおもいます。いまの状況だと、そういう資料に基づいて書こうとしたひとは、両方から攻撃されることになりそうです。」とおっしゃっていますよね。またあなたのノートの「エホバの証人のノートにおける議論について」で述べたように、 例のIP氏がさかんに入れたがっているのは、あなたも反対している「聖書正典のみを研究し」の部分であり、いずれにしても編集合戦はおこるわけです。いままでだって、Hatukanezumiさんの提案をわたしは聞いてきましたし、合意に基づいて記述を修正してきました。一番建設的なのは、編集合戦がおこるとおこるまいと「上で言った「ものみの塔について論じている資料」を見てちょっと加筆してみようかとおもうんですが、このページで文案をだしてみてもいいでしょうかね」とおっしゃってるようにご自分で改善できるとお考えの文面を具体的に提示してみることです。しかもそこで批判されてもだれもが納得いくものを辛抱強くつくりあげる努力をすることです。わたしが以前あなたのノートで「違うというならあなたがもっと勉強してPOVでない(ただし、今のあなたにとって必ずしも好ましいものになるとは限りませんが)建設的と思われる具体案をだすべきです。---Siyajkak 2008年1月14日 (月) 16:09 (UTC)」と述べてきたとおりです。今回、思い返すに、それにたいする回答として好意的に受け止めるべきなのかなと半ば思い始めていたところでしたが、それよりもお互いの発言が感情のもつれしかもたらさなくなっている現状では、Hatukanezumiさんが黙ることによって混乱をまねかないように配慮したのならばそれはそれで建設的な判断なので敬意を表します。---Siyajkak 2008年5月24日 (土) 15:07 (UTC)

主要な教理における表現についての提案[編集]

> 聖書正典は真理であり、神の霊感を受けているとする。(ギリシャ語字義では「神が息を吹き込んだ」)外典(間訳聖書、続編)は「作り話」として退ける。

上記の文章は下記のように変更した方が良いのではないでしょうか?句点の位置が誤っていると思います。

聖書正典は真理であり、神の霊感を受けている(ギリシャ語字義では「神が息を吹き込んだ」)とする。外典(間訳聖書、続編)は「作り話」として退ける。

--プロ 2008年5月24日 (土) 15:43 (UTC)

プロ さん、丁寧にありがとうございます。賛成です。単なる句点の位置の違いなので、わざわざ呼びかけないで編集して下さってだいじょうぶですよ。---Siyajkak 2008年5月24日 (土) 15:52 (UTC)
ありがとうございます。やはり句点の位置は間違っていますか。全保護が解除されたら編集します。--プロ 2008年5月26日 (月) 15:43 (UTC)

特徴的な教理[編集]

こういうのが記載されていたのですが

さらに聖書はキリストが処刑される様を「公の恥」であると説明する。 - ヘブライ 6:6<noref>これは、ヘブライ人への手紙の6:4~6全体を読まないエホバの証人の独自解釈である。聖書原文は「Άδύατν γάρ/不可能です。/τους άπας~/いったん~した人々は、/καί καλòν γευσαμένους/...のすばらしさを味わい/θεου ρημα/神のみ言葉の/δυνάμεις τε /おおきな力/μέλλοντος αίωνος/来るべき時代→やがて来る時代の/καί/そして[しかも]/παραπεσόντας/迷い出る→堕落する/,πάλιν/再び/άνακαινίζειν είς μετάνοιαν/新たに[改めて]悔い改めに導く/,άνασταυρουντας/再び十字架[杭]につける/εαυταις/彼ら自身のために/τον υιον του θεου/神の子を/ καί παραδειγματίζοντα/そして恥を加える[さらしものにする]/」であり、まとめると「いったん~して神のみ言葉のすばらしさと来るべき時代のおおきな力を味わった人々が、堕落するなら、神の子を再び十字架につけて恥を加える[さらしものにする]ことになり、改めて悔い改めに導くのは不可能です。」となり十字架ないし杭が公の恥とは言っていない。</noref>

エホバの証人はこういう主張をしたことはないのですが、もし事実であるのなら、出典などを記述していただきたい。211.135.129.4 2008年3月11日 (火) 06:50 (UTC)

--エホバの証人の主張ではなく、エホバの証人が恣意的な解釈をしている一例をあげただけです。---Siyajkak 2008年3月11日 (火) 14:54 (UTC)

ですから、そういう解釈をしているというのなら証拠を挙げるべきです。私の知る限り、エホバの証人の出版物の中で、ヘブライ6章6節が苦しみの杭と関連付けられたことはありません。何の証拠もなく記述するのは荒らし行為となんら変わりがないかと思いますが。125.199.137.118
再度調べてみると、「聖書に対する洞察」第一巻、784ページの「杭につける」の項でこの聖句が扱われていますね。しかし、ここにはこの聖句が「比喩的な用法」であり、背教者に当てはまるとはっきり書かれています。125.199.137.118 2008年5月10日 (土) 01:02 (UTC)
えっと。半保護依頼だしちゃおうかな。
それはそうと、「恣意的な解釈」というのなら、じゃんけんで「グーは「石」の象徴であるとされる。」という記述を「恣意的な解釈をしている一例を挙げた」と言ってもいいことになるので、適切な応答ではないとおもいます。ウィキペディアの方針に則るなら、「恣意的な解釈である」と主張する文献をなにか挙げるほうが適切な解決策だとおもうんですが。 --Hatukanezumi 2008年5月9日 (金) 20:55 (UTC)

わたしが、制裁を受けたからと言って211.135.129.4さん自身が合意もなしに冒頭の記述を書き換える正当な理由はありません。それからあなたがたのだれかが「さらに聖書はキリストが処刑される様を「公の恥」であると説明する- ヘブライ 6:6」と書いたのであってわたしが書いたのではありません。書いた人に対してそれは間違いだと言ってください。わたしに言われても、わたしは、エホバの証人の人が「さらに聖書はキリストが処刑される様を「公の恥」であると説明する」と書き込んだわけだから、当然そう考えていると思っているわけですから、このように注をつけただけで、わたしを荒らし呼ばわりするのは筋違いです。---Siyajkak 2008年5月17日 (土) 06:10 (UTC)---加筆Siyajkak 2008年5月17日 (土) 07:08 (UTC)


わたしは、エホバの証人はキリスト教とはおもっていないし、世界史の教科書から読んでみてもキリスト教にはなりません。三位一体説以外は異端とされて現在までそれはかわらないのですから。同じ考え方をもっている方はわたしに限りません。そういった方々をも納得させる記述が中立的な記述であり、あなたの記述は中立的とは言えません。ただ、あなたがどうしても気になる記述はなんなのか、そしてRigelさんに呼びかけを行い、合意形成できれば記述は変更できます。ですから上のノートで冒頭の記述について呼びかけをしましたが(ノート:エホバの証人#その2のうちノート:エホバの証人#冒頭部の記述に関する提案部分参照)、あなたからは一切の返事をいただけませんでした。あなたが一方的にキリスト教のグループだ、とされたらわたしからみて(あなたのいう)POVなので合意になりません。まさかとはおもいますが、わたしの書き込みを止めたいために何らかの行動を起こされ、わたしを再び火だるまにしてあなたの気持ちを晴らすことは可能かもしれませんが、たとえ最悪の場合、追放になってもほかの記事に投稿しない代わりにこの記事の記述を死守するためにIPになるか別アカウントを取得して全力を尽くして書き込むことになると思いますので、それであなたが有利になることはありません。---Siyajkak 2008年5月17日 (土) 07:08 (UTC)

すぐ上の発言の最後のほうは、不適切な内容を含んでいるとおもいます。撤回をおすすめします。 --Hatukanezumi 2008年5月17日 (土) 08:09 (UTC)

わたしは、エホバの証人はキリスト教とはおもっていないし、世界史の教科書から読んでみてもキリスト教にはなりません。三位一体説以外は異端とされて現在までそれはかわらないのですから。同じ考え方をもっている方はわたしに限りません。そういった方々をも納得させる記述が中立的な記述であり、211.135.129.4 さんの記述は中立的とは言えません。ただ、211.135.129.4 さんがどうしても気になる記述はなんなのか、そしてRigelさんに呼びかけを行い、合意形成できれば記述は変更できます。ですから上のノートで冒頭の記述について呼びかけをしましたが(ノート:エホバの証人#その2のうちノート:エホバの証人#冒頭部の記述に関する提案部分参照)、211.135.129.4さんからは一切の返事をいただけませんでした。211.135.129.4さんが一方的にキリスト教のグループだ、とされたらわたしからみて(211.135.129.4さんのいう)POVなので合意になりません。---Siyajkak 2008年5月17日 (土) 09:51 (UTC)---書き直しSiyajkak 2008年5月17日 (土) 09:59 (UTC)

誤解のないように念のために申し添えますが、「合意形成できれば記述は変更できます」というのは、「聖書を研究するキリスト教のグループ」という記述を認めるということではありません。それではいつまでたっても合意できないので、合意できるように深く話し合っていくということです。なぜ、211.135.129.4さんがそれほどまでにこだわるのか、わたしを含めた多くの方からみてPOVですから合意形成した場合に同じ記述になることはありえないということです。---Siyajkak 2008年5月17日 (土) 10:17 (UTC)

保護依頼について[編集]

半保護 (IPアドレスユーザのみ編集できなくなる措置) の依頼を出しました。一見、ノートでの「対話」がなされているように見えますが、記事のほうはあいかわらず記述除去と復活の繰り返しで、なにも変わっていないからです。

それに、これまでのIPユーザのかたがたの行動パターンから見て、保護依頼の最中は (記事を編集するなと書いてあるから) 活動がなくなることでしょう。そして保護が見送りになるか、保護されても解除されるのを待って、同じことを繰り返されるのでしょう。保護依頼中や保護の期間中に議論を続けず、解除されたらまた同じことを繰り返しているのでは、(たとえそれが正しかったのだとしても) ただ自分の主張を記事に反映させたいだけの行動です。

ですので、できるだけ長期間、半保護するよう依頼しました。 --Hatukanezumi 2008年5月19日 (月) 13:32 (UTC)

議論の攪乱に対する投稿ブロックを実施しました[編集]

このノート及び記事に投稿していた、利用者:Shinbei会話 / 投稿記録 / 記録さんとIP:125.199.137.118会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんを、アカウントとIPアドレスを使い分けることで議論を攪乱していたものと判断し投稿ブロックいたしました。Shinbeiさんの暴言に対して実施した1日間のブロックに対し、125.199.137.118さんがen:User talk:Jimbo Wales#Japanese Wikipedian Administratorにおいて「自分にかけられたブロック」として苦情を述べていたのが根拠です。

現在編集合戦と言うことで記事は全保護となっていますが、このブロックに伴い編集合戦のおそれがなくなるようでしたら、お手数ですが保護解除依頼を提出してください。--cpro 2008年5月25日 (日) 07:34 (UTC)

出典提示要請 (3件)[編集]

以下の記述に対して、出典の提示を求めます。示せる出典がある場合や、意見がある場合は、それぞれの記載の下に書いてください。


1916年「今はハルマゲドンのさなかである」、1941年「数カ月もすれば、ハルマゲドンに突入する」、1995年「1914年の出来事を見た世代が絶える前にハルマゲドンが来る」と発言して物議をかもし、予言が外れたとされるが、これらは大衆の誤解であって、エホバにあって「その日を予言する」ことは誰にも許されていない。(聖書を理解した者だけが算出可能)という立場を堅持している。 - {{要出典}}タグを貼る
特に後半「これらは大衆の誤解であって、エホバにあって「その日を予言する」ことは誰にも許されていない。(聖書を理解した者だけが算出可能)という立場」を取っていることの出典を求めます。 --Hatukanezumi 2008年7月16日 (水) 16:01 (UTC)
コメント 出典が付記された模様です[1]が、結果的に文章全体が意味不明になっています。というのは、これがもしも1916年、1941年、1995年の「発言」の出典にもなっていると考えれば、「立場を堅持している」ことにならないからです。
実際のところ、示された出典 (『ものみの塔』1990年5月15日号、ページ数未記載) には、どのようなことが書いてありますか。出典とした箇所をこの場で引用して示してください。なにが書いてあるかにしたがって、記事の記述を修正すべきかもしれませんので。 --Hatukanezumi 2008年7月22日 (火) 15:03 (UTC)
報告 ノートでの応答がありませんので、再度{{要出典}}を貼りました。「出典を示す責任は掲載を希望する側に」あることをご理解ください。 --Hatukanezumi 2008年8月7日 (木) 15:50 (UTC)

複数の妻を持つ男性は、「若い時の妻」(第一夫人)以外と離婚しない限り、エホバの証人になることは出来なくなった - {{要出典}}タグを貼る
念のため貼りました。直前の文章に挙げられた文献で検証可能な記述であれば、新たな出典提示は不要です。そうでなければ出典の提示が必要です。 --Hatukanezumi 2008年7月16日 (水) 16:01 (UTC)
×除去 数週間たちましたが、出典が示されませんので、記述をいったん除去しました。適切な出典が示されるのであれば、同様の記述の加筆であっても歓迎されます。 --Hatukanezumi 2008年8月7日 (木) 15:50 (UTC)

第一夫人以外の女性についても同様である。なお、別れた夫人達が独身であり続ける限り、その男性は彼女達の生活を援助し続けなければならない。 - {{要出典}}タグを貼る
直後にある聖句への参照は出典とみなせません。この記事は聖書に関するエホバの証人の解釈と、それにもとづく行動を解説するものですから、実際に証人はそのような解釈をしているということがわかる文献を挙げなければなりません。 --Hatukanezumi 2008年7月16日 (水) 16:01 (UTC)
×除去 数週間たちましたが、出典が示されませんので、記述を除去いたしました。また併せて、聖書からの引用 (ほかの客観的な出典が示されない以上、教理の宣伝と解釈せざるをえません) を除去しました。適切な出典が示されるのであれば、同様の記述の加筆であっても歓迎されます。 --Hatukanezumi 2008年8月7日 (木) 15:50 (UTC)

適切な出典が示されたら、その箇所についてはタグを除去してください。しばらくしても示されないようなら、該当の記述を除去してください。 --Hatukanezumi 2008年7月16日 (水) 16:01 (UTC)

主要な教理の一部表現の訂正依頼[編集]

「主要な教理」の中で、要約しすぎと思われる部分があります。確認をよろしくお願いいたします。

復活に対するエホバの証人の解釈では、「天への復活」と「地上への復活」の2種類があるとされる。天への復活への道は、キリストの死によって初めてもたらされたとされ、地震によって神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が2つに裂かれた出来事は、それを象徴的に表すものであったと主張する(マタイ27:51、ヘブライ10:19-20)。 の部分は 地震によって神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が2つに裂かれた出来事は、「モーセとの契約に基づく律法によるイスラエル民族のみを対象とした神との特別な関係が終了したこと、また、」天への復活への道「が」、キリストの死によって初めてもたらされた「ことを象徴的に表すものであった」と主張する(参照聖句にヘブライ10:16-18を追加) --221.88.56.40 2008年10月5日 (日) 21:56 (UTC) 恣意的記述を削除 出典を下に記した--221.88.56.40 2008年10月6日 (月) 05:26 (UTC)

聖句の参照は適切な出典とみなせません。「エホバの証人の教理が、上でご説明になっているようなものであるということ」を解説した資料をお示しください。どうしてこういうことが必要なのかについては、Wikipedia:検証可能性およびWikipedia:独自研究は載せないをよく読んで、理解してください。
また、記事に些細ではない編集をなさりたいのでしたら、アカウントを取得してログインし、自分で行ってください。ただし、すぐ前で説明したようなウィキペディアの方針を守って編集しなければならないことは、言うまでもありません。Wikipedia:説明責任も参照ください。
なお、あなたがエホバの証人に連なるかたなのでしたら、自己判断でエホバの証人の記事を編集したり、記事の内容について議論することは避けてください。それはウィキペディアでは奨められないことだからです。このことに疑問があるのであれば、ここでの編集や議論を続ける前に、日頃から交流のある他の証人のかたに、どうしたらいいかを相談してみてください。 --Hatukanezumi 2008年10月6日 (月) 00:16 (UTC)

ご指摘ありがとうございます。 出典として既出のものみの塔1996 7/1 15ページで 「垂れ幕は,イエスの肉の体を表わしていました。」とあり、イエスの死と垂れ幕が裂けたことの関連は表していますが、それ自体が弟子たちの天での復活を意味したのではありません。洞察Ⅰ1057-1058に「イエスの死に際し,神は至聖所と聖なる所とを分かつ厚くて重い垂れ幕を上から下に二つに裂けさせて怒りを表明されました。聖なる所で務めを果たしていた祭司たちは,そのとき至聖所の中を見ることができ,神が彼らと共に臨在されることを表わす契約の箱がその仕切り室にないという事実を心に銘記させることになりました。神によるこの行動は,ユダヤ人の大祭司によってささげられる贖罪の犠牲がもはや何の価値もないこと,またレビ族の祭司職による奉仕がもはや必要でないことを確証しました。」とあるため上記の依頼の前半部分を構成しています。後半は原文と大差ありません。追記したものは編集者への説明として天への復活がものみの塔1996 7/1 15ページの続く節にある「ペンテコステの祭りの日に明らかになりました。神の聖霊が,エルサレムに集まっていたイエスの弟子たち120人の上に注ぎ出されたのです。(使徒 2:1,4,33)彼らは,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,今や油そそがれ,神の偉大な霊的神殿の取り決めのもとで「聖なる祭司職」にある者として仕え,「霊的な犠牲を……ささげる」ようになりました。(ペテロ第一 2:5)さらに,それら油そそがれた者たちは新しい国民,すなわち霊的イスラエルという神の「聖なる国民」となりました。それ以降,エレミヤ 31章31節に記されている「新しい契約」の約束など,イスラエルについての良い事柄に関する預言はすべて,油そそがれたクリスチャン会衆,すなわち真の「神のイスラエル」に適用されることになりました。」と説明され、これらを要約して「西暦33年のペンテコステの祭りの日に新しい契約(エレミヤ31:31、ルカ22:20)が発効した。」ことを書いたにすぎず、訂正依頼そのものとは直接関係ありません。新しい契約との関係については洞察Ⅰ839ページ「召されたこれらの人々は死んで命をなげうつまでキリストの歩みにしっかりと忠実に従わなければなりません。その後,エホバはそれらの人たちを祭司の王国とし,神の性質にあずかる者とし,天におけるキリストと共同の相続人として不滅性と不朽性という報いを彼らにお与えになります。」を根拠としています。--221.88.56.40 2008年10月6日 (月) 01:53 (UTC)

この依頼は、あえて垂れ幕に関する記述をするなら。についてのみの依頼です。復活に対するエホバの証人の解釈では、「天への復活」と「地上への復活」の2種類があるとされる。天への復活への道は、キリストの死によって初めてもたらされたとされの部分について言及するものではありません。←これを先に書くべきでした。--221.88.56.40 2008年10月6日 (月) 02:10 (UTC)

わたしは「ものみの塔」の該当号などの示された文献を読んでいませんから、あなたの示した出典が正確なものかどうかわかりません。ですから、かわりに編集してあげることはできません。
アカウントを取得してウィキペディアでの自分の行動に自分で責任をもって活動する意思がないのでしたら、ウィキペディアでの書き込みはお控えください。 --Hatukanezumi 2008年10月6日 (月) 05:46 (UTC)

本文を書いた人なら出典も読めるだろうから気長に待ちます。--221.88.56.40 2008年10月6日 (月) 08:40 (UTC)

その他、特徴的な教理(「神の王国」について)[編集]

訂正依頼です。 キリストの再臨は「しるし」であり、目には見えない(「臨在」という語が用いられる)。 - マタイ 24:3 惜しいです。このままでは続く、'神の王国は、すでに天で統治を開始している。 - 詩篇 110:2、ダニエル 2:44' それらの出来事は1914年を起点としている。の部分で、イエスは来られた(再臨された、臨在している)と主張している(エホバの証人が)との記述と矛盾します。書くとすれば キリストの再臨は目には見えない(「臨在」という語が用いられる)。 - マタイ 24:3 でしょうか。 「しるし」であり、の部分は続く項を、 キリストは「雲と共に」来る。地上に現れるのではなく、「しるし(前兆?)が」知覚可能であるに過ぎない。 - マルコ 14:62、黙示録 1:7 とした方がわかりやすいでしょう。これは、出典を引用するまでも無く原文に主語を加えただけです。既出の聖句は下記のとおりです。 マタイ24:3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、「お話ください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」新改訳聖書特別:Contributions/221.88.56.40|221.88.56.40]] 2008年10月6日 (月) 05:06 (UTC) 一応出典を、(原文の意味を知らない他の人のため)洞察Ⅱ1189ページイエスの臨在は目に見えるものである(イエスが人間の目で見ることのできる体をもった形で現われるという意味で)という考えにとって不利な証拠は,イエスご自身が,世の命のために死によって自分の肉を犠牲にすると言われたその言葉や(ヨハ 6:51),復活させられたイエスは「近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」であるという使徒パウロの宣言の中に見いだせます。(テモ一 6:14‐16)それでイエスは弟子たちに,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう」と言うことができました。なるほど,イエスの弟子たちは,イエスを見ることになっていました。それは,イエスが復活後に彼らに現われるからだけでなく,やがて彼らも復活させられて,天でイエスと共になり,『み父がイエスにお与えになった栄光を見る』からでもあります。(ヨハ 14:19; 17:24)しかし,一般の世は,イエスを見ないことになっていました。イエスは霊の被造物としての命に復活させられた後(ペテ一 3:18),弟子たちにしか現われなかったからです。イエスの昇天を見たのも,世ではなく,弟子たちだけでした。その場にいたみ使いたちは,イエスが「同じ様」で(ギ語,トロポス,「形」という意味のモルフェーではない),したがって公に見られることなく,忠実な追随者たちだけが識別するような仕方で戻られることを弟子たちに保証しました。―使徒 1:1‐11。 --221.88.56.40 2008年10月6日 (月) 06:22 (UTC)

冒頭部の「キリスト教」記述[編集]

このノートで散々話題になっておりますが、現在においてキリスト教といえば、 「キリスト教の特色は、ユダヤ教以来の唯一神信仰に立って、キリストを真の神、真の人とする独特の三位一体論や、キリスト論を教義としているところにある。」とブリタニカ国際大百科事典 (2004) に記載されている通り、三位一体論を含んだものを指すはずです。 たしかに本文冒頭における「キリスト教」は原始キリスト教を指していると脚注にものせてあり、冒頭の後半にも「1世紀のクリスチャンを復興させたものと説く」との記述はありますが、辞典の第一文は項目の定義内容になりますので、誤解を避けるのが妥当と考えます。 そのため、「エホバの証人(-しょうにん)とは、聖書を研究するキリスト教[1]グループであり」の文章から「キリスト教」をとって「エホバの証人(-しょうにん)とは、聖書を研究するグループであり」に改訂することを提案します。 あるいは、エホバの証人側の教えも考慮して「キリスト教グループと自認するが、一般的なキリスト教の教義とは異なっている」のような記述も考えられます。(熟考した文ではないのであくまで一例ということで) どちらにせよ、エホバの証人は現在におけるキリスト教の核ともいえる三位一体論を否定しているので、「キリスト教グループである」という補足のない断定的記述は変更する必要があると思います。--Schwalz 2009年2月14日 (土) 09:13 (UTC)

イエスをキリストと認め、その人格と教えを中心とする宗教。旧約・新約聖書が教典。正義と慈愛に満ちた父なる神、人類の罪、キリストによる贖罪を説く。―『広辞苑』「キリスト教」より引用。
キリスト教とは、イエス・キリストが宣べ伝えた『神の国』の福音の精神、その救いの到来に関するメッセージを信仰によって受け入れ、それに基づく倫理的実践の総称である(上智学院新カトリック大事典編纂委員会『新カトリック大事典』第2巻、研究社、1998年、ISBN 9784767490120、「キリスト教」より引用)
明らかに「三位一体」はキリスト教の定義とは無関係。そもそも、キリスト教の定義についてここで議論するのはいかがかと思う。--以上の署名のないコメントは、118.111.5.64会話/Whois)さんが 2009年3月7日 (土) 00:31 (UTC) に投稿したものです。

定義自体を論じたくて書いたわけではありません。たとえ1つであっても、権威ある辞典が上述のように三位一体について記載しているということは、世間一般 (つまり世間のキリスト教徒一般) にあっては、エホバの証人はいわゆるキリスト教と別の範疇に属するのでは、と言いたいのです。実際に周りの人で誤解されている方を何人も見聞きしていますので、少なくともウィキペディア上では万人に分かりやすい説明にすべきだと思い、ノートに書き込ませていただきました。--Schwalz 2009年3月9日 (月) 08:24 (UTC)

偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。全ての観点を提示するということは、p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすることです。全ての観点を提示するにあたって、誰がどのような理由で p や q を信じており、どちらがより広く支持されているか、といった背景の説明を大量に供給できることが理想です。(広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。)―「Wikipedia:中立的な観点」より
あなたは三位一体が「キリスト教の核」だと言っておきながら、それを証明することなく、それを「世間一般」だとか正しいとか決め付けていますが、私はそれは上記の定義に照らせばPOVだと申し上げます。--以上の署名のないコメントは、118.111.5.64会話/Whois)さんが 2009年3月9日 (月) 10:22 (UTC) に投稿したものです。

あなたが「定義についてここで議論するのはいかがか」と言うのであえてそこに触れることなく回答したまでです。POVとおっしゃるならば逆に、三位一体がキリスト教の定義と無関係かどうかも証明が必要になると思いますが。いずれにせよ不毛な談義が長引くことは間違いなさそうです。(議論する項目自体を変えるべきでしょう)

話し合うおつもりでしたら、まずすべてのノート記載にあたって署名をしていただくことを強く勧告いたします。--Schwalz 2009年3月9日 (月) 10:34 (UTC)

出典されている、脚注の資料は全く意味を持ちません[編集]

脚注として出典されている参考資料は、エホバの証人自体が発行した書物であり、独自研究は載せないの一部に抵触するかと思います。よって、第三者的な検証が行われていない状況です。加えて、主要な教理として引用されている聖書中の文面は、あくまでエホバの証人が主張する教理であり、聖句を引用することは百科事典を本来とするウィキペディア本来の姿とは相反します。よって、一定期間監視の上、何ら進展が無いようであれば、全て削除させて頂きます。編集される方は、ウィキペディアは何でないかを良くご参照ください。現在の記事は、演説台とも受け取れるエホバの証人の宣伝媒体と受け取れます。中立である観点からの資料を、切に求めます。--Tabo1224 2010年1月9日 (土) 06:13 (UTC)

賛成 (コメントつき) ウィキペディアの記事は特定の思想を宣伝したり称揚したりする場ではありませんので、提案にはまったく異論ありません。ただ、これまでのノートでの議論を見ていただければわかるように、性急な編集が編集合戦やノートでのフレーミング (ひとりで起こせるものではありませんから、問題は伝統宗教の立場に立つ側にもあると考えます) につながることを懸念します。「一定期間」については、1箇月程度以上を見込んでいただきたいです。
また提案の後段について、すでにご存知とはおもいますが、つぎのものは資料の情報源になるとおもいます: 『新宗教教団・人物事典』井上順孝・中牧弘允・孝本貢・西山茂・対馬路人編、弘文堂、1996年。  (『新宗教事典』(1990年) 資料編の増補改訂版です。この資料が使えるということではなく、この資料の本文や付録で言及されている参考文献が役にたつということです。文献リストとして使えるということ)。わたしは宗教学や関連分野の知識がありませんし、宗教に基づく生活を送る者でもなく感覚がつかめないところがあるので、いくつかは閲覧しましたが記述に反映させるところまでいけませんでした。 --Hatukanezumi 2010年1月9日 (土) 12:29 (UTC)
ご丁寧に有難うございます。確かに編集合戦は最も避けたい事象ですし、ウィキペディアの価値を低下させます。ご提案の通り、1ヶ月くらい経過を見てから対応を考えて行きたいと思います。Hatukanezumiさんの、真摯な助言を心より感謝いたします。--Tabo1224 2010年1月10日 (日) 06:41 (UTC)
(コメント)うーん、私が編集した頃とは内容がかなり変わったなー。独自研究(NOR)の内容も当時とは様変わりしているし…。本題に戻って、教理の部分は本当はこんなにいらないと思う、というのが私の感想。しかし、当時はノート:エホバの証人の教義にあるとおり、別記事を統合という名の下に白紙化された後でもあり、熱心な約1名の信者によってこちらへの教義の加筆が多かったのですよ。不要な説明であると思う部分があれば、このノートで不要である理由を個々に指摘した後に削除されるといいと思います。
ただ、「エホバの証人自体が発行した書物であり…第三者的な検証が行われていない状況です。」、これが独自研究の証拠であるかのように説明されていますが、それはちと違うんではないかと。第三者の検証ができないことが問題なのであれば、それは検証可能性(V)の問題であって、そちらの内容に従うならば、決して利用に問題がある物でもないと思うんです(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト参照)。というか、そういう認識の元に出典を選んだわけでして…。Rigel 2010年5月12日 (水) 03:42 (UTC)
公式には、正確に訳されている限り他の版も聖書と認めるといっているが、実質的には新世界訳を絶対視している。→これは批評家の偏見によるもので事実ではないので削除。118.110.246.131 2010年6月7日 (月) 00:09 (UTC)

60.43.73.184氏の編集について[編集]

2010年6月19日から6月23日にかけて60.43.73.184氏により無数の編集がなされております。内容として問題ない部分もあるようですが、表現に強い主観が入っている箇所、表現がWikipediaに使用するものとしてふさわしくないもしくは稚拙な箇所、日本語の文法上おかしい箇所などがあり、一つ一つの手直しでは埒があきませんので6月19日時点にいったん差し戻させてもらいます。お手数ですがよろしくお願いします。 --Memphis19 2010年6月23日 (水) 13:35 (UTC)

対処を支持します。いちいち差し戻すと編集合戦になるし、まとめて推敲にかけようにも手のつけようがなく、静観しておりました。
内容以前に、編集方針についてある程度合意を作っておくべきかもしれないと考えています。 --Hatukanezumi 2010年6月23日 (水) 14:12 (UTC)

大言壮語タグについて[編集]

世界一であるとか絶対に正しい等の記述も見当たらないし、ちょっと分からなかったのですが、どの部分が大言壮語なのか教えてください。当てはまっていなければタグを削除しても構わないように思われます。--Gyulfox 2011年2月19日 (土) 23:34 (UTC)

War of words breaks out among Jehovah's Witnesses[編集]

http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/war-of-words-breaks-out-among-jehovahs-witnesses-2361448.html

無理な削除に対して[編集]

これでも抑えた表現になるように考慮は加えてあります。また犯行の証拠がどうのこうのは警察と裁判所の決めることであって、ウィキペディアでは判決の報道された内容をたがえずに中立的に伝えるだけのことです。 他の宗教はほとんど取り上げられないことをここでだけでかでかと掲載するのもおかしい気がしますが。という理由での削除は出来ませんし、多くの裁判の判決場合掲載見送りになるのは、教会員個人への処罰だからです。今回の判決は教団そのものに対する判決ですので、オウム真理教の場合と同じく掲載は妥当です。 またリンク先の「真理のみことば伝道協会」は実名によるキリスト教会のいくつかの支部による運営組織であって[2]、会の主要メンバーのウィリアム・ウッド主事は著書も論文も出しており[3]、会の特筆性はあると判断します。 このような場合のHPは、出典に使用しても構わないことになっています。 ただし反エホバの証人の立場ですからカルトだの洗脳だの悪魔的だのと言った扇情的な表現はすべて削ぐ必要はあるでしょう。何でもかんでもは百科事典的でないと言われます--Gyulfox会話) 2013年9月17日 (火) 04:54 (UTC)--Gyulfox会話2013年9月17日 (火) 05:01 (UTC)

渡邉美樹の掲載[編集]

この記事を理解する上で、著名人の誰が信者なのかという記述は必要だと思います。元信者でも同様でしょう。著名人が「信仰をやめた」という事実は、辞める理由があったわけでしょうから、そこから記事を深く理解するきっかけになると判断します。--JapaneseA会話2013年9月18日 (水) 13:03 (UTC)

元信者であればなぜ今も信者としての誤解を招くような記載をする必要があるのでしょうか。重要なのはこのサイトを観る大勢の方々の誤解を生まないようにすることが大切です。明らかにエホバの証人ではないような活動をする人物をあたかも今もエホバの証人のように記載するのは好ましくないと思われます。裏付けを取ってください。--Exec102会話2013年9月18日 (水) 13:31 (UTC)
話の前半は仰る通りですね。では、元信者、信者とわけて表記すれば良いでしょう。「裏付け」はWikipediaでは出典と言いますが、渡邉美樹の記事中に[4]このように出典があります。--JapaneseA会話2013年9月18日 (水) 13:38 (UTC)

まずはご本人から裏付けを取る必要があります。また未成年の時の経験のようですし、バプテスマを受けた正式な成員だったのか単なる伝道者であったのかもわかりません。こういう不確な情報は記載するべきではないと考えます。要するに双方にとって不利益になる可能性のある情報は正確な裏付け証拠が必要です。このサイトは噂話を助長するようなものであってはなりませんし、品位ある正確で裏付けの取れた情報を記載する努力をするべきです。特に個人情報となれば尚更です。また人物を記載する場合、その組織と人物との言動と行動が一致していることが前提です。そうでないと双方に不利益が及ぶことになり誤解も招きます。元信者であったとしても同様の配慮をするべきです。でないと大衆読者は現在の渡邉美樹氏の言動や行動とエホバの証人の組織とを同一視してしまう危険性があると思われます。要は記載自体に双方を貶める悪意が感じられます。従ってわざわざ記載する必要はないと思います。 --Exec102会話2013年9月18日 (水) 14:11 (UTC)

出典によると渡邉美樹が自著で明らかにされているようですし、まずはその自著にはどう書いてあるかの確認が必要でしょう。信者と書いてあればよし、そこまで書いてなければ除去でよし。 言動がどうのこうので勝手に元信者なんてできません。 それから「双方を貶める悪意が感じられます。」という根拠がないと思います。--Gyulfox会話2013年9月18日 (水) 14:50 (UTC)
宗教の実名表記に関してのルールは特に取り決めはないようですが、Wikipedia:存命人物の伝記#カテゴリの使用についてに準ずる扱いで良いと思われます。--Gyulfox会話2013年9月18日 (水) 15:00 (UTC)

自著(本)で正式に信者となり組織の一員となったと書かれているのでしょうか?それとも中学生時代の研究生としての宣教活動であった可能性はないですか?本当にバプテスマを受けた『エホバの証人』だったのですか?週刊誌やインターネット情報が報じた情報をそのまま当サイトに記載されている可能性はないですか?これは個人と組織の信仰上の尊厳が関わる問題ですので重要です。以上の点で真実の裏付けが取れれば『元信者欄』を設けて記載すればいいのではないでしょうか。--Exec102会話2013年9月18日 (水) 15:17 (UTC)

研究生だろうが洗礼を受けていようが入信は入信です。「エホバの証人」は厳密には、成員のみを指すようですが、この記事は「エホバの証人達が信仰している宗教」(名称はあるの?)の記事とも言える内容です。通常、Wikipediaでは1次資料(この場合は、教団や渡邉美樹本人による出典)は不要です。検証可能信頼できる情報源を出典とすれば記述は可能です。ただし今回の場合、渡邉氏は存命人物なのでWikipedia:存命人物の伝記に従い、入信している宗教は本人による出典が必要だと判断します。記事渡邉美樹に入信しているとする自著があります。ただし私はその出典内容をこの目で確認したわけではないので、強固に「載せろ」とは申しません。--JapaneseA会話2013年9月18日 (水) 18:14 (UTC)
バプテスマとは洗礼儀式のことでしょうか?ここは教団ルールは通用しません。JapaneseAさんのおっしゃる通り、信条の問題は研究生だろうが洗礼を受けていようが信者だと自称していれば信者でしょう。 かと言って私も強固に載せろという気はありません。ただ変な理由では削除しないで下さいと言ってるだけのことです。--Gyulfox会話2013年9月18日 (水) 18:27 (UTC)

エホバの証人であれば入信という言葉は使用しないようです。また本人が自称しているからといって信者とは言えません。私は東大生ですと言えば東大生ですか、違うでしょう。このサイトは品位ある正確な情報を記載するべきです。組織が信者と見做さない限り信者ではありませんし、組織にとっても迷惑な話ではないでしょうか。何度も言いますが、確実な裏づけが必要です。それ以上でも以下でもありません。--Exec102会話2013年9月19日 (木) 03:40 (UTC)

入信でも信心でも一緒の話です。出典が入信なら入信となるのが普通です。 Exec102さんは何か勘違いなさってます。  私とJapaneseA氏はどうしても今すぐ掲載すべきとは言ってないのです。 渡邉美樹氏はとりあえず二次出典で確認されており、さらに自著でも確認された場合は、いつかは誰かの手によって掲載されることを免れることは難しいということであって、ウィキペディアは出典主義である以上はその情報が間違いであるならそれを証明する更に強力な出典を必要とするのです。 たぶん迷惑だろうとかこの人の言動がおかしいとかそういう理由では独自研究ですし、品位が下がるとか不快だからとかそういう理由はウィキペディアは検閲をせずという方針で不可であることはご理解ください。 --Gyulfox会話2013年9月19日 (木) 05:28 (UTC)
正式な入信かどうかわからなければ、「元信者」節に「渡邉美樹 - 本人の自著によれば、以前は信仰していたとの事である[出典]。なお、正式な入信の有無については自著では触れられていない」と記述すれば良いだけの話です。ただし、記事渡邉美樹の履歴を確認したところ、自著で明言したとは言い切れない([5]を参照)ものがあります。よって、理由は全く違いますが「自著が確認できるまでは、掲載せず」という事に同意します。--JapaneseA会話2013年9月19日 (木) 08:07 (UTC)

Gyulfoxさん、勘違いなどしておりません。Gyulfoxさんの論点の焦点が合ってないようですので追記致します。 『変な理由では削除しないで下さいと言ってるだけのことです』に対する回答です。 論点は、現在、エホバの証人であるかのように渡邉美樹氏を記載することへの削除に関してです。 結論は『事実でないことは削除、或いは訂正することが望ましい』です。これが『変な理由』となりうるのでしょうか。 本人が自称すればその組織の一員であるとの考えは理解できません。ウィキペディアはそんな軽々しい情報サイトではないと認識しています。 エホバの証人になるには非常に高い道徳基準と信仰が求められます。もし姦淫や喫煙、盗み等を犯せば、サイトに説明されている通り、排斥という措置が取られるくらいの組織です。よって、自称でエホバの証人になれるような組織ではないと理解しています。 例えば、『私はあなたの兄弟です』と自称すればあなたの家族の一員として感情的にも法律的にも認められるのでしょうか。 そんな訳はないはずです。家族が認めないでしょう。それと同じように、自称すればエホバの証人と組織は認める訳ではありません。 一番確実な方法は、 エホバの証人の日本支部に直接以下のことを確認すれば確実です。 『ウィキペディアサイトのエホバの証人(宗教法人)の説明欄に、著名人の信者として渡邉美樹氏を載せる資格があるかどうかの確認をしたいのですが、渡邉氏は現在、組織が認めるエホバの証人ですか?或いは、過去の一時期の間、エホバ証人でしたか、排斥になったのですか、自ら組織を去ったのですか』 この問いに過去にエホバの証人であったとの回答であれば事実として記載するに 足ることになります。あくまでも過去としてです。よって現時点では、エホバの証人としての信仰を 堅持していない、または聖書の示す道徳基準を満たしていないということになります。 この点は重要です。 また、当エリアサイトで私達が議論したところで進展はありません。 原則、私達(サイト閲覧者)が望むのは、どうにでも解釈できるような曖昧な情報ではなく、信頼できる確実な情報です。 『変な理由では削除しないで下さいと言ってるだけのことです』とのことですが、 エホバの証人でない人物を記載から削除するのは当然のことと思います。現に現在、渡邉美樹氏はエホバの証人ではありません!政治家になった時点で 除名排斥されます。記載をそのままにしておくと、閲覧者にエホバの証人は政治家もエホバの証人になれるのだ、との誤解を与えてしまいます。 ですから削除は正当な行為です。削除する前に感じていたのは、エホバの証人サイトで説明されている内容と渡邉美樹氏の言動や行動とが余りにも一致しないことへの 疑問です。彼は政治家ですし、到底エホバの証人とは考えられませんでした。 エホバの証人が政治組織に属することはあり得ませんし、政治的に中立と説明されているからです。国家斉唱や国旗敬礼もしないほどです。 これらは崇拝行為と見做してしているからです。 気になったのは渡邉美樹氏をエホバの証人として記載するなら、サイト閲覧者にエホバの証人の組織や証人たち個人に対し誤解を招きかねないという点です。 現に、渡邉美樹氏に関するヤフーサイトの記事のコメント欄に、エホバの証人と渡邉美樹氏とを同一視するコメントが載せられており、中傷誹謗がなされていました。 きっとそれを見た大衆はウィキペディアを参照し、渡邉美樹氏が今もエホバの証人として記載されているならば、やはりそうなのか、との誤った情報を 与えてしまうでしょう。これは当サイトの意図しないことではないでしょうか。現に私が誤解した本人でした。 その記事ではエホバの証人側が不利益を被っていました。何故なら渡邉美樹氏が非難されていた事柄は、エホバの証人はしないと考えられるからです。 わたしも初めは 'エホバの証人って渡邉美樹氏のような政治家が所属できる宗教組織なの?' と誤解するところでした。 それで両者を当サイトで比較閲覧し更に疑問を持った次第です。 それがきっかけでここに来た次第です。これは一閲覧者として経験したことを生かしたい、このサイトをより良きものしたいという真摯な動機で行っています。 さて、結論を繰り返しますが、過去一時期でも(自称ではない)エホバの証人であった(過去、組織名簿にあった)という事実が客観的に確認が取れれば、 そのような欄を設けて記載すればいいのです。要は、あたかも現在、エホバの証人であるかのような記載がふさわしくないと言っているのです。 それ以上でも以下でもありません。因みに生前のマイケルジャクソン氏もエホバの証人の著名者の欄に以前記載がありましたが生前時に削除されてます。 エホバの証人ではないからです。これと一緒ではないでしょうか?。 この件ついての私からの削除理由及び意見は以上です。長々と失礼致しました。今後、当案件つきましては返信は致しません。 因みにウィキペディアサイトに対し、管理者から何らかの権限を与えられて検閲されておられるのでしたらそのようにされてください。 私はあくまで一般の閲覧者ですので。

現時点では、エホバの証人としての信仰を堅持していない、または聖書の示す道徳基準を満たしていないということになります。現に現在、渡邉美樹氏はエホバの証人ではありません!政治家になった時点で除名排斥されます。あなたのルールでやると、しまいには熱心党のシモンやイエスキリストまで排斥処分者ということになってしまいます。なぜならシモンは政治活動家だったし、イエスはユダヤ人の王だったから。とかそういう事態になりかねないですよね。
  • ①ある宗派にルールがある+②ある人物がルールから外れている→③その人物が信仰を捨てたに決まってる。
これは異なる観点の合成と言って、書くのも削除もルール違反とされているのです。 違犯の理由をもって除去はしないでください。というだけのことで、私(Gyulfox)は再掲載が良いとか戻すべきとか望んではいないのです。(でも正式には一度戻して違犯でない理由で除去のやりなおしとされています。今回は状況からして省略が妥当でしょう。)Exec102さんの動機が良いのは理解しています。『事実でないことは削除、或いは訂正することが望ましい』までは良かったのですが、その理由でもって削除したのがよろしくなかったと思われます。 なぜなら異なる見解の人々がそれをしはじめると泥沼の戦いになるからです。「迷惑がかかるかも知れないから」「聖書的ではない」という理由も同じで違犯です、繰り返しになりますがウィキペディアは検閲を行ないませんが参考になるでしょう。 今回のケースで削除が出来る理由を出すとすれば、Wikipedia:存命人物の伝記の冒頭『貧弱な情報源である』を提示するほうがまだマシです。人物の信仰している宗教の扱いはルールにありませんが、Wikipedia:存命人物の伝記#カテゴリの使用についてに準ずる扱いで良いと思われます。 それ以上疑問であるならWikipedia:井戸端に質問を投稿すると納得した答えが得られるでしょう。--Gyulfox会話2013年9月19日 (木) 21:24 (UTC)

キリスト教系カルト分類について[編集]

先日からキリスト教系新宗教カテからキリスト教系カルトカテに移行させようとする編集があるようですが、現時点ではカルト分類への移行は無理でしょう。「反社会的教義を掲げている」は所詮独自見解ですし、フランスのセクト指定根拠では世界的観点に違反です。やめて下さい。--Gyulfox会話2013年9月26日 (木) 11:09 (UTC)

Gyulfoxさん、お世話になっております。私も同一見解です。そもそも、何を持ってしてカルトであるかは各国様々ですし、明確な基準も存在しません。それで、エホバの証人は19世紀後半に設立していますので、日本の宗教学における(キリスト教系)新宗教に分類するのがベターだと思います。よって、同時期に設立された「末日聖徒イエス・キリスト教会」や「セブンスデー・アドベンチスト教会」などと同様の分類・取扱いで良いかと思います。--Memphis19会話2013年9月26日 (木) 12:33 (UTC)