コンテンツにスキップ

デイヴィッド・ブラウン (映画プロデューサー)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイヴィッド・ブラウン
David Brown
David Brown
生年月日 (1916-07-28) 1916年7月28日
没年月日 (2010-02-01) 2010年2月1日(93歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
職業 プロデューサー
配偶者 ヘレン・ガーリー・ブラウン英語版(1959年 - 2010年死別)
 
受賞
アカデミー賞
アービング・G・タルバーグ賞
1990年 映画界への貢献に対して
その他の賞
テンプレートを表示

デイヴィッド・ブラウン(David Brown, 1916年7月28日 - 2010年2月1日)は、アメリカの映画および劇場のプロデューサー、著作家。ピーター・ベンチリーのベストセラー小説に基づく映画『ジョーズ』を制作したことで最もよく知られている。

生涯

[編集]

デイヴィッド・ブラウンは、ニューヨークでエドワード・フィッシャー・ブラウンと最初の妻であるリリアン(旧制:バレン)との間に生まれた[1][2]

ブラウンはスタンフォード大学コロンビア大学ジャーナリズム大学院を卒業した[3]

経歴

[編集]

ブラウンはジャーナリストとして職業キャリアを開始し、『サタデー・イブニング・ポスト』『ハーパーズ』『コリアーズ』などの雑誌に寄稿し、後に編集者になった。彼は、『コスモポリタン』の編集長を妻のヘレン・ガーリー・ブラウンが雑誌に加わるまで務めた。

映画

[編集]

1951年、プロデューサーのダリル・F・ザナックは、彼のスタジオである20世紀フォックスのストーリー部門のトップとしてブラウンを雇った。ブラウンは後に、クリエイティブ・オペレーション部門のエグゼクティブ・バイスプレジデントに昇進した。1971年に彼は、ダリルの息子であるリチャード・D・ザナックと共に、フォックスを離れワーナー・ブラザースに移ったが、翌年に彼ら独自の制作会社を設立を試みた。

ポール・ニューマンロバート・レッドフォードが主演した映画『スティング』(1973年)は、ザナック/ブラウンの共同作品であった。 1974年、彼らはユニバーサルピクチャーズとともに、スティーヴン・スピルバーグの映画監督デビュー作である『続・激突!/カージャック』をプロデュースした。 その後、このコンビは、シドニー・ルメット監督でポール・ニューマン主演の法廷ドラマ『評決』(1982年)や、ロン・ハワード監督のSF映画『コクーン』(1985年)、ブルース・ベレスフォード監督、ジェシカ・タンディモーガン・フリーマン主演のコメディドラマドライビング Miss デイジー』(1989年)を含む、12本以上の映画のプロデューサーまたはエグゼクティブプロデューサーとして参加した。『ドライビング Miss デイジー』は、最優秀作品賞を含む4つのアカデミー賞を受賞した。

ブラウン単独ではドラマ『アンジェラの灰』(1999年)やロマンス映画『ショコラ』(2000年)などの映画を制作し続けた。

ブラウンとザナックは、スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)などの映画製作の功績により、1990年に映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞した。

劇場

[編集]

ブラウンは『成功の甘き香り:ミュージカル』(2002)、『ペテン師と詐欺師』(2005)、オフ・ブロードウェイのジェリー・ハーマンのミュージカルレビュー『ショーチューン』(2003)など、さまざまなブロードウェイミュージカルをプロデュースした。

彼は、劇作家アーロン・ソーキンが書いたドラマ劇『ア・フュー・グッドメン』の映画と舞台の権利を購入した。 この舞台劇は1989年11月に始まり、500回の公演が行われた。 同名の映画(1992年)は、トム・クルーズジャック・ニコルソンが主演している。

私生活

[編集]

1959年から51年間、ブラウンは亡くなるまでヘレン・ガーリー・ブラウン英語版と夫婦だった。なお、彼女はコスモポリタン誌の編集者を32年間務め、『セックス・アンド・ザ・シングルガール英語版』(1964年に『求婚専科』として映画化)の著者である。

ブラウンには死別した最初の妻との間に1人息子ブルースがいる。また、異母弟にエドワード・フィッシャー・ブラウン・ジュニアがいる。

彼は彼の礼儀正しさ、上質なワードローブ、独特の口ひげ、そして作家を擁護することで等しく知られている。 彼は出版社やエージェントと強いつながりを持っていた[要出典]

ブラウンは『Brown's Guide to the Good Life: Tears, Fears and Boredom』(2005年)を書き、人生についてのアドバイスを提供している。 彼はまた、逸話的な自伝である『Let Me Entertain You』(1990年)を書いている。

死去

[編集]

2010年2月1日腎不全のために逝去[3]。93歳没。

プロデュース作品

[編集]

受賞

[編集]

出典

[編集]

外部リンク

[編集]