ソドムの市
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ソドムの市 | |
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Salò o le 120 giornate di Sodoma | |
![]() 映画の1シーン | |
監督 | ピエル・パオロ・パゾリーニ |
脚本 |
ピエル・パオロ・パゾリーニ セルジオ・チッティ |
原作 |
マルキ・ド・サド 『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』 |
製作 | アルベルト・グリマルディ |
出演者 | パオロ・ボナチェッリ |
音楽 | エンニオ・モリコーネ |
撮影 | トニーノ・デリ・コリ |
編集 | ウンベルト・アンセルッチ |
配給 | ユナイテッド・アーティスツ |
公開 |
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上映時間 | 117分 |
製作国 |
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言語 |
イタリア語 フランス語 ドイツ語 |
『ソドムの市』(ソドムのいち、 イタリア語: Salò o le 120 giornate di Sodoma, 「サロ、或いはソドムの120日」の意)は、1975年製作・映画祭上映、1976年公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。
概要[編集]
マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を原作としている。
パゾリーニは、原作では18世紀のスイス山奥の城館であった舞台を20世紀のイタリアに置き換え、この物語を現代における権力と個人の関係、消費社会のメタファーに作りかえた。その構成はダンテの 『神曲』 の構成を借りており、「地獄の門」「変態地獄」「糞尿地獄」「血の地獄」の4つの章から成る。本作の完成後、パゾリーニはローマのオスティア海岸で謎の多い死を遂げており、この作品が遺作となった。
強姦やスカトロ、獣姦、性器露出などの過激な性描写が非常に多く、欧米ではそれが問題となり、上映禁止となった国も出た。但しそれは単なるパゾリーニの嗜好としてだけではなく、様々な現代社会への批判が込められているとされる。
ストーリー[編集]
イタリアが連合国に降伏した後、残余のファシストたちは、北部の町サロに集まり、亡命政権(イタリア社会共和国)を形成していた。このナチス傀儡政権の権力者たち、大統領・大司教・最高判事・公爵の4人は、自分たちの快楽のために、市町村条例を新しく制定する。その規定に従って美少年・美少女が狩り集められ、さらにその中から彼らの厳選した男女各9人が、秘密の館に連れ去られる。
権力者たちは、そこで自分たちの定めた規則に従って、あらゆる淫蕩・変態行為に耽る。毎日、集会所で4人の語り部たちのうち1人に猥褻な体験を話させることによって欲望をかきたて、少年少女たちを相手にその話を実行に移すのである。その変態行為は次第にエスカレートしていき、最後には死に至る拷問が待っている。しかし、犠牲者たち同様に狩り集められてきた館の少年警備兵たちは、苦悶する犠牲者たちを尻目に、ラジオの音楽に合わせてダンスのステップなどを踏んでいる。
製作の経緯[編集]
原案の執筆に協力した映画監督のプピ・アヴァティの述懐によると、企画当初はパゾリーニは一切関与していなかった。当初は『デアボリカ』(1973年)や『メリーゴーランド』(1974年)などの脚本家として知られるアントニオ・トロイジオらの発案によって、『性の告白』(1974年)や『課外授業』(1975年)などのエロティック作品で知られるヴィットリオ・デ・システィ監督によるB級ポルノ映画として企画された。しかし、原案執筆を依頼されたプピ・アヴァティらがマルキ・ド・サドの原作をもとに準備稿を作成すると、あまりに過激な描写が検閲を通らないと判断されたため、デ・システィが演出を拒否する事態となった。デ・システィ監督の降板後に、プピ・アヴァティがパゾリーニ脚本によるセルジオ・チッティ監督の『エロスの詩』(1973年)を見て、パゾリーニを『ソドムの市』の企画に参入させることを提案する。アヴァティとパゾリーニは、この時点で初めて出会うこととなった。パゾリーニの提案によって、時代背景をファシズム政権時代のイタリアに移した脚色が行われ、さらにアルベルト・グリマルディの製作およびパゾリーニ自身の演出によって、映画化されることが決定した[1]。
政治的意図[編集]
当時のイタリアもまた欧米における学生運動が展開されていた時期であった。こうした状況下でパゾリーニは自らの意見を映画の様々な描写の中に込めている。スカトロ描写に関しては現代の消費文明、特に食物の浪費(飽食)を強く批判する意図があったと語り、また経済面でイタリアの主導権を握る北イタリアの文化が貧しい南イタリアへ浸食していることに対する批判でもあったという。また、舞台をナチ・ファシスト政権下のイタリアに設定したのは、左翼運動に反感を抱いていた右翼への攻撃が意図されていた。
フィルムの盗難[編集]
1975年8月26日、フェデリコ・フェリーニ監督の『カサノバ』などと共に本作のネガフィルムの一部がローマの現像所から盗まれた。パゾリーニはラッシュプリントからネガを複製して対処したが、画質の劣化は避けられず、本作の当該箇所は映像が粗いままとなっている[2]。
パゾリーニ殺害事件[編集]
1975年11月2日、本作を撮影し終えた直後のパゾリーニが、ローマ郊外のオスティア海岸で轢死体となって発見された。警察は、パゾリーニから性的暴行を受けた少年による犯行と断定し、逮捕した。しかしパゾリーニの遺体は、全身が殴打された上に、パゾリーニ自身の車で何度も轢かれており、ネオ・ファシストによる暗殺ともうわさされた。
ローマ地方裁判所は、少年ペロージの単独犯行は不可能であるとして、未知の共犯者とともに行われた故殺とした。しかしローマ高等裁判所は、共犯者ありに関する条項を破棄した。そして、1979年に最高裁は、少年に殺意はなく正当防衛として9年7ヵ月の刑が確定した。
2005年5月7日、実行犯とされた少年ペロージがイタリア・Rai 3のドキュメンタリー番組“Ombre sul giallo”に出演し「自分は、犯人グループから家族に危害を加えると言われ、やむなく罪を被った。実際は、他の数人の男によるリンチ(パゾリーニを「薄汚いコミュニスト」などと罵倒していたという)により、パゾリーニは殺された」と告白した。また、本作の脚本家でありパゾリーニの助監督を長く務めたセルジオ・チッティは、「フィルムの盗難も、殺害犯グループが仕組んだものである。パゾリーニは、フィルムの返還交渉のために犯行現場におびき出された」と証言している[3]。
日本公開[編集]
1976年の日本公開前にはノーカットで試写会が行われ良くも悪くも話題を呼んだ。雑誌広告の見出しでは「警視庁がカンカン!」、「ヨーロッパ各国軒並み上映禁止」といったフレーズが並んでいる[4]。上映館も限られたため1976年洋画配給収入トップ10には姿を見せていない。
キャスト[編集]
- 公爵 - パオロ・ボナチェッリ
- 司教 - ジョルジョ・カタルディ(声:ジョルジョ・カプローニ - ノンクレジット)
- 最高判事 - ウベルト・パオロ・クィンタヴァレ
- 大統領 - アルド・ヴァレッティ(声:マルコ・ベロッキオ - ノンクレジット)
- カステッリ夫人 - カテリーナ・ボラット
- マッジ夫人 - エルサ・デ・ジョルジ
- ヴァッカーリ夫人 - エレーヌ・シュルジェール(声:ラウラ・ベッティ - ノンクレジット)
- ピアニスト - ソニア・サビアンジュ
- 衛兵 - エツィオ・マンニ
- 黒人のメイド - イネス・ペレグリーニ
- 犠牲者の少年 - セルジォ・ファセッティ
- 犠牲者の少年 - ブルーノ・ムッソ
- 犠牲者の少年 - アントニオ・オルランド
- 犠牲者の少年 - クラウディオ・チケッティ
- 犠牲者の少年 - フランコ・メルリ
- 犠牲者の少年 - ウンベルト・ケサーリ
- 犠牲者の少年 - ランベルト・ブック
- 犠牲者の少年 - ガスパール・ド・ジェンノ
- 犠牲者の少女 - ジュリアナ・メリス
- 犠牲者の少女 - ファリダー・マリク
- 犠牲者の少女 - グラツィエッラ・アニチェート
- 犠牲者の少女 - レナータ・モア
- 犠牲者の少女 - ドリット・エンケ
- 犠牲者の少女 - アンティニスカ・ネムール
- 犠牲者の少女 - ベネデッタ・ゲターニ
- 犠牲者の少女 - オルガ・アンドレス
- 最高判事の娘(大統領の妻) - タチアーナ・モジランスキ
- 大統領の娘(公爵の妻) - スザンナ・ラダエリ
- 公爵の娘(司教の妻) - ジュリアーナ・オルランディ
- 公爵の娘(最高判事の妻) - リアナ・アクアヴィーヴァ
スタッフ[編集]
- 監督 - ピエル・パオロ・パゾリーニ
- 製作 - アルベルト・グリマルディ
- 原作 - マルキ・ド・サド
- 脚本 - ピエル・パオロ・パゾリーニ、セルジオ・チッティ
- 撮影 - トニーノ・デリ・コリ
- 音楽 - エンニオ・モリコーネ
- 衣装デザイン - ダニロ・ドナティ
- 音楽演奏 - アルナルド・グラジオッシ