シスル (ユタ州)

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シスル
Thistle
シスルの跡地に残された校舎の遺構(2006年9月撮影)
シスルの跡地に残された校舎の遺構(2006年9月撮影)
位置
シスルの位置(アメリカ合衆国内)
シスル
シスル
シスルの位置(ユタ州内)
シスル
シスル
シスルの位置
座標 : 北緯39度59分29秒 西経111度29分54秒 / 北緯39.99139度 西経111.49833度 / 39.99139; -111.49833
歴史
設立 1878年
壊滅 1983年
行政
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
  ユタ州の旗 ユタ州
  ユタ郡
 町 シスル
その他
等時帯 山岳部標準時 (UTC-7)
夏時間 山岳部夏時間 (UTC-6)
ZIPコード 84629[1]

シスル英語: Thistle)は、アメリカ合衆国ユタ州ユタ郡の南東、スパニッシュ・フォーク渓谷英語版に存在した町で、現在はゴーストタウンとなっている[2]蒸気機関車が使われていた時代の間、この町の主要産業はデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道向けのサービス業であった。この町の経済は、この鉄道に関連する事象と密接に関係しており、ディーゼル機関車が蒸気機関車に取って代わるまで続いた。そして、この転換が起きてから、町の人口減少が始まった。

1983年4月、大規模な地すべり(特に複雑な土流英語版[3])が発生し、スパニッシュ・フォーク川を堰き止め、天然ダムを生じさせた[4]。シスルの住民は、天然ダムに蓄えられた65,000エーカー・フィート(約8千万m3)の水から避難した。この天然ダムの形成によって町は水没し、壊滅した。ただし、破壊を免れた一部の建築物がまばらに残っている。アメリカ合衆国連邦政府とユタ州政府当局は、この地すべりはアメリカ合衆国の歴史の中でも最大規模の地すべりであり[5][6]、この災害による経済への影響は、地域全体に及ぶと述べた。この地すべりの起きた箇所は、結果として、ユタ州で初めて大統領によって宣言された激甚災害区域英語版となった[5][7]

アメリカ国道6号線英語版アメリカ国道89号線英語版、そして鉄道[注釈 1]は、数か月の間不通となり、被災地域を俯瞰できるような、より高所に再建設されて、ようやく再開通した。シスルの町の跡地は、アメリカ国道89号線傍の展望所や、長距離列車のカリフォルニア・ゼファーの客車から望むことができる。

地理[編集]

シスルは、州都であるソルトレイクシティの南東65マイル(105km)の位置にあり、スパニッシュ・フォーク川英語版の主要な支流の2本、シスル川とソルジャー川が合流する箇所に存在した[8]。この合流地点は、標高5,043フィート(1,537m)の位置にあり、ユタ州中部の山々の中を通る、自然に作られた2つの道が合流する箇所でもあった。主要な道は、ワサッチ山脈を通過し、ワサッチ高原英語版ソルジャー峰英語版へと続く。この道は、山脈の東側ではプライス川の支流、西側ではスパニッシュ・フォーク川の支流となる川によって作り出された。加えて、シスル川はシスルから南に向かう道を作っており、サンピート郡の町々やセビア渓谷へと続いている[9]:3。スパニッシュ・フォーク川は、シスルから北西方向に流れ出しており、スパニッシュ・フォーク英語版の町を流れて、ユタ湖へと流れ込んでいる[8]

この自然道は、発見されてからは、いくつかの開拓時代の大陸横断道だけでなく、高速道路や鉄道のルートとしても活用されている。シスルを通過する主要交通路には、アメリカ国道6号線英語版[注釈 2]アメリカ国道89号線英語版デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道ユタ・ディビジョン英語版[注釈 1][10][11]、そして同社のメアリーズベイル支線[注釈 3]があった[12]

歴史[編集]

1871年頃のシスルの風景
人口推移
人口
188081
1890365350.6%
1900187−48.8%
1910409118.7%
19204172.0%
1930288−30.9%
194031810.4%
1950248−22.0%
出典: U.S. Census Bureau[13]

シスルの町があった場所は、ヨーロッパ人の到来以前は、アメリカ先住民の部族によって使われていた交易路に位置していた。2つのユート族の族長、タビー=トゥ=クワナ英語版ピティートニート英語版は、毎年春と秋に渓谷を通って部族の移動を先導した[9]:98。ヨーロッパ人たちによってはじめて記録された近代のシスルへの旅行記録は、ドミンゲス・エスカランテ遠征英語版のものであり、この中ではアメリカ先住民の案内人によって、彼らの領域を探検した[14]。渓谷に居住するユート族の小さなグループがしばしば入植者を襲っていたが、その結果、1870年代に強制的に移住させられた[9]:3

シスルの住人の多くが、鉄道関係の従事者としてこの町にやってきた人々であった。ただし、鉄道が開通する前から多少の住人がシスルの地にはいた。最初にシスルの地に定住したのは、ユタ州へのモルモン開拓者の一部であった。それらの中でも初めての定住者は、イリノイ州ナヴーから移住してきたペース一家であり、1848年にシスルの地に行きついたという。ペース一家の子孫5世代は、この町から避難するまで、一族所有のウシ牧場を運営していた[9]:99。この他の移住者たちは渓谷の北壁側に定住した。この移住者の中には、元々はユタ州の別の場所に移住したものの、それから程なく、ホームステッド法に基づく原則英語版を基に開拓を進め、ビリーズ山に到達したモルモン教徒も含まれていた。彼らが定住した山は、彼らの間では、有名人の名前にちなんでウィリアム・ジョンソンと呼ばれていた。ホームステッド法の原則に基づいた開拓は、シスルの地では1900年代初めごろまで続けられた。鉄道が開通する前まで、この町の経済は主に畜産および牧畜を基盤としていたが、その一方でこの地域では鉱石採掘も行われていた。その中には、アスファルタイト英語版の鉱脈もあり、1892年から1914年の間、採掘がおこなわれた[9]:94 & 118

鉄道[編集]

初めてシスルの町に到達した鉄道は、ユタ・アンド・プリーザント渓谷鉄道英語版によって、1878年に建設された狭軌支線であり、現在のスコフィールド貯水池英語版近隣から石炭を輸送する目的で建設された。この支線は1882年に差し押さえされ競売にかけられたが[9]:5、落札したデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道1890年までに、この支線を標準軌に敷設し直している。これは、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道が所有するコロラド州からの路線と接続することを目的としており、この再敷設によってユタ州ソルトレイクシティとコロラド州デンバーが接続されるに至った[15]:157

この鉄道によって、シスルの町には、路線の縦断勾配曲率の変化に対する車両の準備や運営を行うための施設が建設された。この鉄道では、シスルの町から東に向かってソルジャー峰へ登坂していくため、補助機関車を接続していた。シスルの町では、車両に食堂車が接続され食事のための停車の必要性がなくなるまで、旅客への食事のサービスや行われていた[15]:157

シスルの町の地域の空撮。1983年春の撮影。地すべりによって形成された天然ダム(シスル湖)が、シスルの町とその周辺集落に亘って形成されている。アメリカ国道6号線英語版89号線英語版、そしてデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の再建がこの地すべり地域周辺で行われた

シスルの町では、メアリーズベイル支線が建設されたことで、更に鉄道輸送量が増加した。この支線は、シスルで本線から分かれており、メアリーズベイル英語版近傍の鉱山に向かって、アメリカ国道89号線英語版に沿って伸びていた。この他にシスルの町を通っていた鉄道としては、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の本線と並走するユタ鉄道英語版によって建設された路線がある。この2つの路線は後に、2社の間で結ばれた鉄道使用権の鉄道協定英語版の一部として、相互利用されることになった[15]:158

シスルの町を通過する鉄道輸送量は、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道が路線接続に協力することで増加を続けた。この中で、大陸横断する鉄道輸送のための橋線英語版の線路がシスルの町を通って建設された。シスルの町の成長は、蒸気機関車時代を通して、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の成功と密接に関連していた[12]

最盛期は1917年前後で、シスルの町の人口は約600人であった。町に建設された鉄道関連施設の中には、5区画の扇形庫、車庫、機械加工店、そして通る列車に砂、石炭、そして水を補充する施設などがあった。鉄道関連以外の施設としては、日用品郵便局理容所酒場撞球場ベーカリーそしてレストランがあった。最も大きな建築物は、1911年に建設された2階建ての校舎であった[9]:93

1950年代には、よりメンテナンスが簡単なディーゼル機関車が台頭したことで、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、蒸気機関車からの移行を始めた。この技術革新によって、シスルの町の重要性は低下した[15]:158。町の人口も徐々に減少した。旅客用の車庫は1972年に取り壊され、郵便局も1974年に閉鎖された。そして1983年までに、シスルの町には少数の家族が居住するのみとなっていた[12]

地すべり[編集]

カリフォルニア・ゼファーからの眺め。地すべりの後に形成された天然ダムおよび地すべりにより崩落した土砂の爪痕を眺めることができる。2003年8月撮影

デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道のメンテナンス部門社員が、地すべりの発生する数年前から、シスルの町から土地が徐々に沈下していることに気付き始めた。メンテナンス部門の社員たちは、いくつかの沈下に対して線路補修を行っていたが、彼らはこの問題を完全に調査することはしなかった[15]:158ハリケーン・オリヴィア英語版の被害が残った状態で始まった1982年から1983年にかけての秋冬は、これまでの記録を超える雪と降雨に見舞われた。春になり積雪が溶け始めると、この地域の山々は膨大な水に満たされた状態となった[9]:13–15

1983年4月の線路の変形は深刻な問題であった。4月13日、この線区の保線長がデンバーへと出向き、臨時開催された社員会議でこの状態について説明を行った。同日、ユタ州ハイウェイ・パトロール英語版の警官が、道路に新たに形成された歪み遭遇し、警官は車の天井に体を打ち付けられた。この日の終わりまで、道路保全員全てが国道6号線と89号線を通行可能な状態で維持するために悪戦苦闘していた。全ての列車が、最高速度を10マイル毎時(16km/h)以下に制限され、並行して線路の保全作業が続けられた。シスルの町を通過した最終列車は、1983年4月14日午後8時30分頃の西行・リオ・グランデ・ゼファー英語版であった。この日の夜、国道6号線と89号線、そして鉄道は閉鎖された。閉鎖時、すでにデンバーを出発していた西行の貨物列車が1編成あったが、この閉鎖を受けて引き返している。デンバーとソルトレイクシティの間を走る全ての列車が、ワイオミング州を通過するオーバーランド線英語版へと経路変更された。4月16日までに、交通路は完全に埋まり、住民への自主避難要請がシスルの町に出された[15]:159 [9]:17–19

アメリカ国道6号線英語版89号線英語版沿いの展望所から北西方向を望む。廃止された線路と国道の跡が、付け替えられた線路・道路の隣に残っている。2010年6月撮影。

4月17日、地すべりによる川の閉塞を防ぐ最後の試みが行われたものの失敗した。この日、ユタ州運輸省英語版とデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、現在の交通幹線を廃止し、再建設する計画を発表した。2本の国道と鉄道の双方とも、スパニッシュ・フォーク渓谷の北壁を発破することで作られた土地に経路変更された。この際、ビリーズ山をダイナマイトで爆破して経路を変更し、渓谷北壁に沿って建設された。技術者は、地すべりの先端で形成されたダムは、凡そ200から300フィート(60から90m)の高さに達すると推定している。避難要請は、自主避難要請から強制避難命令へと変更された。ボランティアの人々が、約5マイル(約8km)南の小さな町・バーズアイ英語版への多くの住民を移送した。住居への水の到達まで2時間も無かった住民もいるなど、時間的猶予が無かったこともあり、ほとんどの住民が、少しの持ち物を持ち出すことしか出来なかった[9]:23。シスルの町に最も長く住んでいた女性は、バーズアイの避難所の中心で90歳の誕生日のお祝いをされている[9]:123。18日までにダムの水線はかつて人が住んでいた22棟の住居の屋根にまで達し、19日までに山全体が1時間に2フィート(0.6m)移動し続け、アメリカ国道6号線および89号線は高さ50フィート(15m)の土に埋没していた[16]

シスルの地すべりによって形成された天然ダムからスパニッシュ・フォーク川英語版の河道を変更するために建設された地下トンネルの吸水口(2015年7月撮影)

ユタ州知事スコット・マセソン英語版は、この状況を解決するために連邦政府に要請を行った。アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁の責任者がこの場所を視察した後、アメリカ合衆国大統領・ロナルド・レーガンは、ユタ州で初めてとなる連邦激甚災害地域英語版に指定したことを公表した[5]。この地すべりは、ついには長さ3マイル(5km)、深さ200フィート(60m)のダムを形成するにまで至った。スパニッシュ・フォーク川下流の住民たちに対しては、避難準備が呼びかけられた。技術者たちは、もしこのダムが決壊すると、濁流が町に届くまで30分から45分程度の猶予しかないと試算した[16]

余波[編集]

地すべりで倒壊することなく残ったシスルの家屋の一つ(2008年4月撮影)

シスルの町はそのほどんとが破壊されつくした。木造の建物のほとんどがダムに溜まっていく水によって流されてしまった。州政府は、ダムの越流を防ぐために仮説の排水設備を導入した。監視艇がポンプが詰まらない様に、ダムを浮遊する町の残骸を回収していた。ほとんどの残骸は、自然と沈殿するか、湖の東岸に移動された[9]:52

秋までに河道を再建し、湖の水を排水させるためのトンネルが建設され稼働を開始した。それから少しして、かつての住民や近隣住民、そして州政府との間で、この地すべりで形成されたダムをどうするか議論が巻き起こった。その議論の中で、いくらかの人々はこのダムを恒久的に維持することを求めていた。州政府の技術者は、この地すべりで形成されたダムが再び水を湛えることができるかどうかを判断するために調査を行ったが、その結果、この地すべりで形成されたダムに手を入れて恒久的なダムにするよりも、地すべりよりも更に上流側に新たなダムを建設することが推奨された[17]

その後の数年で、かつてのシスルの住民たちは彼らの失ったものの補填のために様々な訴訟を起こした。そのうちの一つでは、彼らは、彼らの資産が補償されることなく道路や鉄道の復旧に使用されたと主張された[18]。他の訴訟では、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の部門の怠慢を糾弾するものであった。住民たちは、鉄道保線部門の社員たちは土地が動いていることを知っていたと主張し、それにも関わらず彼らは線路を直すことしかしなかったと指摘している。住民たちは、この地すべりは、移動している地域の先頭で圧力を軽減させる排水設備を用いることで防ぐことができたと主張した。彼らは更に、このような設備は、線路で初めてこの問題を認識したあとに十分に調査を行ったうえで設置することが出来たとも主張した。デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道に依頼された技術者チームは、彼らの研究ではこの地すべりの頂部は、線路の路盤から約300フィート(約90m)の高さであったこと、また鉄道会社が地すべりが始まるまでにその本当の規模を把握していなかったと指摘した。陪審は、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の責任を認めなかった[19][20]。原告者達は、この決定に控訴し、1993年の控訴審で土地所有者達に110万ドル[注釈 4]の賠償金を支払うことで結審した[21]。デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、この地すべりに伴う費用の負担をユタ鉄道に求める訴えを起こした。ユタ鉄道には、路線共用協定を基に、この線路の保有権を所有していたのである[9]:73–75

経済への影響[編集]

アメリカ国道6号線/89号線の傍に設けられた展望台から望むシスルの地すべり跡(2010年6月撮影)

この地すべりによって、鉄道幹線が3か月、アメリカ国道6号線/89号線に至っては8か月もの間閉鎖されてしまい、この間のユタ州東部・南東部とその他の地域との間の交通に大きな支障をきたした。ユタ郡警察で孤立した部署は、一時的にユタ州ハイウェイパトロール英語版の配下に属することとなった[22]

これらの交通幹線閉鎖による経済的な影響は、アメリカ合衆国西部全体へと広がっていった。特にこの閉鎖は、ユタ州の田舎に大きな打撃を与えた。特に炭鉱ウラン鉱山養鶏場飼料製造業者、石膏鉱山、そしてセメントクレーの工場には、深刻な影響があった。少なくとも2つの輸送業者と1つの製油業者は休業、もしくは操業停止に追い込まれている。ユタ州南東部の観光事業者は、北部や西部から来訪する人々のアクセス路が無くなったことによる打撃を受けていた。地すべりの対岸側に居住していたり、働いていた人々は、突然移動するのに100マイルもの距離を余計に移動しなければならなくなった[12][23]。ハイウェイパトロールは、一時的にピアレスの秤量所[注釈 5]を閉鎖し、サリナ英語版[注釈 6]に仮設の秤量所を建設した。これは、突然大型車の交通量が増大したことに伴う措置であった。ハイウェイパトロールは、この仮設設備によって57,000台のトラックを検査し、80台のトラックを検挙すると見積もった[22]

この地すべりによる直接的な経済損失は約2億ドル[注釈 7]と試算された。しかし、いくつかの試算では最終的な損失は、4億ドル[注釈 8]に達するとするものもあった[23][24]。デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、この地すべりによる損失を8000万ドル[注釈 9]と試算し、鉄道の運休に伴い1日当たり平均100万ドルの損失となるとしている。この中には、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道がユニオン・パシフィック鉄道の線路を使うための線路使用料1900万ドルも含まれていた[12]アメリカ地質調査所とユタ州政府は、このシスルの地すべりについて、アメリカ合衆国において、これまでの中で最悪の経済損失を引き起こしたものであると述べた[5][6]

鉄道[編集]

シスルの地すべりをバイパスするために建設されたユニオン・パシフィック鉄道のトンネルの東坑口(2015年7月撮影)

工事を早急に実施するために、コロラド州の鉄道職員が工事基地への線路を建設するのと並行して、ユタ州の鉄道職員は新線の建設と3000フィート(910m)のトンネルの掘削工事に注力することとなった。1983年7月4日午後3時5分、安全検査官が新線の運用を宣言した。同日午後3時12分、列車集中制御装置の信号が緑色に点灯し、地すべり発生してから初めてシスルの地域を列車が通過した。この列車は、東向けの貨物列車で、サザン・パシフィック鉄道オグデン発、カンザス州へリントン英語版行であった。この線路の再稼働がアメリカ合衆国独立記念日になったことは全くの偶然であったが、この列車の通過は地域の記念行事の一つとなった。最初に新線を通過した旅客列車は、7月16日カリフォルニア・ゼファーであった[9]:73

メアリーズベイル支線の取り扱いに関する議論が、これに続いて巻き起こった。支線の終点に存在した鉱山は長い間休止しており、この支線全線を通過した列車は1970年が最後であった。それでも、農業従事者やセビア郡およびサンピート渓谷の事業者によって、ほとんどの年で線路の損壊がありながらも、運営に十分な鉄道輸送があった。しかし、この支線は深刻な損壊を受けており、具体には複数の橋梁が流失し、線路は新たに形成された崖に垂れ下がっているような状態であった。鉄道会社は、最良の場合でも復旧にかかった経費を補填するだけでも長い年月が必要であると結論付けた[15]:161

ユタ郡の地図。アメリカ国道6号英語版アメリカ国道89号英語版、そして鉄道の地すべり前後のルートが示されている

リッチフィールド英語版の住民たちは、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道に対して、ニーファイ英語版近郊で、既存のユニオン・パシフィック鉄道の路線と損傷を受けなかった路線の一部とを接続する工事を実施するように求めた。このルートは、大雑把に言ってユタ州道28号線英語版に並行するものであった。しかし鉄道会社は、新たな鉄道敷設権のために必要な追加費用を鑑みると、元々のルートで復旧する場合と費用的に大差がないと結論付けた。加えて、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、ニーファイで接続するためにユニオン・パシフィック鉄道に対して、線路使用料を支払う必要があり、利益率が低いこの路線の利益を更に蝕むものとなることが想定された。最終的に、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道は、この路線の線路を撤去し、スクラップ業者に売却してしまった[15]:161。メアリーズベイル支線が廃線されてからも、この路線を再建するための複数の提案がなされた。この地域への鉄道接続の喪失に関する調査では、鉄道が接続されている他の地域の事業者と比較して、この地域の事業者の競争力に影響があったとされる。2002年の調査では、メアリーズベイル支線を再建設するために必要な費用は8000万ドルと試算されたが、2015年の調査では、さらに南のサリナ英語版まで再建設するための費用は、1億1000万ドル[注釈 10]と試算された。2015年の調査では、ユタ州運輸省英語版が現在のユタ州の鉄道網を詳細に調査し発表した新しい貨物鉄道路線の3つの優先事項の一つとして、この地域への鉄道アクセスの回復が挙げられている。特に、この地域への鉄道アクセスの喪失によって、高速道路や街路を通過する貨物トラックの交通量の増大が指摘された[25]

幹線道路[編集]

アメリカ国道6号線および89号線の再開通は、1983年12月30日になった。元々、翌12月31日に再開通が計画されていたが、この再開通の情報が公にされると、すぐに開通を待つ車列ができてしまった。その一部は、今回の地すべり災害で大きな不安を抱えることになり、地すべり地域の状況を見るために並んだ住人達や、この地すべりの後から一度も地域を見ていなかった親類縁者であり、その他に、長距離の迂回を強いられ、鬱憤が溜まっていたトラック運転手たちがいた。ハイウェイパトロールは、この車列を解消することが不可能なため、式典の中止と国道の早期開通を要望した[26]

最初の車列が通行したとき、まだ路面標示などの最後の作業が終わっていなかった。通行した人々は、峡谷の壁の高所、山の斜面に築かれた切土、そして地すべり跡とかつての天然ダムを見ることとなった。アスファルトを打設した際の天気が良好ではなかったため、路盤は完成状態になっていないと予想された。2つの山の切土は安定しておらず、完全に無人となるまで、数か月の時間を必要とした。この間、州政府はこの切土を24時間監視する監視員を2名配置しており、落石があった際はそれらが除去されるまで道路を閉鎖することになっていた。ビリーズ山に築かれた切土は、建設者達から、人工のであると語られた[26]

最終的なアスファルト打設と切土が安定するまで保留されることになった、アメリカ国道6号線と89号線の再建設完了は、元々のルートが閉鎖されてから18か月後の1984年11月に発表された[26][27]1993年より、ユタ州運輸省は、かつてのシスルの住民たちと共に町の跡地に記念碑を建設する議論を始めた[28][29]。また、ユタ州運輸省はアメリカ国道6号線と89号線傍にシスルの町の跡地を遠望できる展望台を維持している[30]

コール・ホロー火災[編集]

2018年8月4日、スパニッシュ・フォーク渓谷で落雷による大規模な火災が発生した[31]。この火災では、30,000エーカー(47sq mi、120km2)を超える範囲が焼けた[32]

地質・気候[編集]

シスル近くの地すべり地域は、チャールストン=ニーボ衝上断層として知られる基盤岩地域の窪みに形成された渓谷である。この断層の岩は、ペルム紀ペンシルベニア紀からジュラ紀に形成されたものであるが、これらは別の場所で形成され、後期白亜紀の間に現在のシスルの地域へと移動したものと考えられている。この衝上断層の上の堆積岩層は更に後に形成されたものであり、白亜紀から第三紀の間に形成されたとされる[17]。この地すべりの岩屑自体は、ノース・ホーン層英語版アンカレ層に由来するものであった[5]

シスル周辺の地域は、常に地すべりの危険に晒されている。先史時代の地すべりは、ワサッチ山地を横切る交易路として活用可能な緩斜面を形成した[5][12]。小規模な地すべりは何度も観測されており、加えて収まることもなかった。最大級の地すべりは1983年のものであり町を破壊したが、これより小規模な地すべりが15年後の1998年にも発生している[5]

下流のスパニッシュ・フォーク英語版の気候は、四季のはっきりした乾燥帯に分類される[33]。気温は、平均最高気温は7月の92(33)、平均最低気温は1月の20℉(-7℃)である。春の数か月間を除いて、平均降水量は月当たり2インチ(5.1cm)未満である[34]

関連項目[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 現在のユニオン・パシフィック鉄道セントラル・コリドー線英語版の一部。
  2. ^ 元々は、アメリカ国道50号線英語版に指定されていたが、変更された。
  3. ^ 1983年の地すべりが原因で放棄、廃止された。
  4. ^ 2023年の価値で約270万ドルに相当する。
  5. ^ ヘルパー英語版近傍のアメリカ合衆国6号線沿線に所在している
  6. ^ シスルの南約90マイル(約140km)の州間高速道路70号線傍。
  7. ^ 2023年の価値で約6.12億ドルに相当する。
  8. ^ 2023年の価値で約12.24億ドルに相当する。
  9. ^ 2023年の価値で約2.45億ドルに相当する。
  10. ^ 2023年の価値で約1.41億ドルに相当する。

脚注[編集]

  1. ^ Look Up a ZIP Code: ZIP Code by City and State”. usps.com. United States Postal Service. 2018年3月19日閲覧。
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外部リンク[編集]