キクユ語

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キクユ語
Gĩgĩkũyũ、Gĩĩgĩkũyũ
発音 IPA: /ɣèèɣèkójó/
話される国 ケニア
話者数 約6,623,000人(2009年国勢調査[1]
話者数の順位 97
言語系統
ニジェール・コンゴ語族
表記体系 ラテン文字
言語コード
ISO 639-1 ki
ISO 639-2 kik
ISO 639-3 kik
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キクユ語: Kikuyu)またはギクユ語(Gikuyu)、ゲコヨ語Gĩkũyũ; 原語名: Gĩgĩkũyũ または Gĩĩgĩkũyũ /ɣèèɣèkójó/[2][注 1])はケニア周辺に住むキクユ族言語で、大西洋・コンゴ諸語(Atlantic–Congo)の狭義のバントゥー諸語に属する。

ケニアのキアンブ(Kiambu)、ムランガ(Murang'a)、ニェリ(Nyeri)、メルー(Meru)の各カウンティの他ナクル(Nakuru)のナイヴァシャ湖(Naivasha)地域やナイロビでも話されている[1]。ケニアの首都ナイロビは公用語英語共通語スワヒリ語使用者も多いものの、もともとキクユ語使用地域の中に存在しており、ナイロビまたはその近郊出身者でキクユ語を中心に話すものも数多い[3]。約600万人がケニア国内に居住し、国内では最大言語のひとつである。

正書法が確立されており(参照: #文字)、『カラスの妖術師英語版』(2006年; キクユ語: Mũrogi wa Kagogo)のグギ・ワ・ジオンゴNgũgĩ wa Thiong'o)などのようにキクユ語で文筆活動を行う作家も存在する[4]。また Barra (1960)、Njũrũri (1969)、Wanjohi (2001) など、キクユ語のことわざについてまとめられた著作もいくつか出されている。言語自体の特徴としては同一の名詞であっても前後の語の有無や種類などによって声調もしくはアクセントが変動する点(参照: #声調/アクセント)や、動詞の過去形についてつい先ほど・今日・昨日以前・おととい以前の区別が存在すること(参照: #動詞)、また他のバントゥー諸語同様クラスの概念が存在すること(参照: #クラス)などが挙げられる。

分類[編集]

キクユ語の分類は Lewis et al. (2015) と Hammarström et al. (2017) の両者において大西洋・コンゴ諸語ボルタ・コンゴ諸語英語版(Volta–Congo)、ベヌエ・コンゴ諸語英語版(Benue–Congo)、バントイド諸語英語版(Bantoid)、南バントイド諸語(Southern Bantoid)、狭義のバントゥー諸語(Narrow Bantu)までは共通している。両文献において共通して近い分類とされている他の言語はエンブ語(Embu; 別名: Kiembu)、ムウィンビ・ムザンビ語英語版(Mwimbi-Muthambi)である。また、Lewis et al. (2015) ではキクユ語はエンブ語やムウィンビ・ムザンビ語の他ダイソ語英語版(Dhaiso)やカンバ語(Kamba)、チュカ語英語版(Chuka、Cuka)、ザラカ語英語版(Tharaka)、メル語(Meru)と共にキクユ・カンバ諸語(Kikuyu-Kamba)という下位区分で括られている。キクユ・カンバ諸語と呼ばれる通り、メル語・キクユ語・カンバ語はこの順で方言連続体の関係にあり、なかでもキクユ語とカンバ語は相互に意思疎通がある程度可能である[5]

方言[編集]

以下のような方言が存在する。

  • 北ギクユ方言(: Northern Gikuyu; 別名: ニェリ方言(Nyeri)、Norhern Murang'a)[1]
  • 南ギクユ方言(: Southern Gikuyu; 別名: キアンブ方言 (Kiambu)、Southern Murang'a)[1]
  • ギチュグ方言(Gichugu; 別名: 北キリニャガ方言 (: Northern Kirinyaga)[注 2][1]
  • マジラ方言(Mathira; 別名: Karatina)[1]
  • ンディア方言(Ndia; 別名: 南キリニャガ方言 (: Southern Kirinyaga[注 2]))[1]
  • クトゥス方言[要出典]

また、キアンブ方言には更にナイロビ方言(Nairobi)やリムル方言(Limuru)といった下位方言が存在する[7]。バントゥー語研究者湯川恭敏による『言語学大辞典』の記述 (1988年) はキアンブ方言、湯川 (1981) はリムル方言、湯川 (1984, 1985) は主にナイロビ方言の調査によるものとなっている。

なお、クトゥス方言はギチュグ方言、ンディア方言とはかなり異なっている[要出典]

文字[編集]

文字は a、b、c、e、g、h、i、ĩ、k、m、mb、n、nd、ng、ng'、nj、ny、o、p、r、t、th、u、ũ、w、y の26文字である[8]

正書法に関しては1933年に一旦案が出されたものの、印刷される前の段階で激しい反対論が出されて1935年に取り下げられ、その後1946年にキクユ語グループ間で合意がなされたという経緯がある[9]

音韻論[編集]

母音[編集]

母音は以下の7種類で、それぞれに対応する長母音が存在する[10]。同じ欄のうち左側が IPA、右側が正書法による表記を指す。

前舌 中舌 後舌
i (i) u (u)
半狭 e (ĩ) o (ũ)
半広 ɛ (e) ɔ (o)
(a)

子音[編集]

キクユ語の子音は以下の通りである[10]。同じ欄のうち左側が IPA、右側が正書法による表記を指す。

両唇音(bilabial) 唇軟口蓋音(labiovelar) 歯音(dental) 歯茎音(alveolar) 前部硬口蓋音(prepalatal) 硬口蓋音(palatal) 軟口蓋音(velar) 声門音(glottal)
破裂音(plosives) 無声(voiceless) t[注 3] (t) k (k)
前鼻音化(prenazalized) mb (mb)
有声(voiced) 前鼻音化 nd (nd) ŋɡ (ng)
摩擦音(fricatives) しばしば有声 h (h)
有声 β (b) ð (th) ɣ (g)
破擦音(affricates) 無声 t͡ɕ[注 4] (c)
有声 前鼻音化 nd͡ʑ (nj)
鼻音(nasals) 有声 m (m) n (n) ɲ (ny)
前鼻音化 ŋ (ng')
はじき音(flap) 有声 ɾ (r)
半母音(semi-vowels) 有声 w (w) j (y)

子音前鼻音は極めて弱いものであり[12]、文頭では全く聞き取れない場合がある[13]。たとえば nderu〈口ひげ〉は最初の語となる場合 [dɛru][ndɛru] と発音される[13]。ただし前に他の語がある場合は鼻音として現れるか、直前の母音の長母音化として現れ、たとえば nderu の前に 〈…である〉が置かれた場合には [nendɛɾu][nendɛɾu]、もしくは [neːdeɾu] と発音されることとなる[13]

子音調和[編集]

キクユ語には子音調和と呼びうる現象が存在する[14]。これは c、k、th の母音で隔てられた直前の k が g として現れる現象である[11]

例:

  • kũ-ratha〈射る、撃つ〉に対し、gũ-cookya〈返す〉、gũ-karanga〈炒める〉、gũ-thondeka〈作る〉[11]

c と k が無声音である一方、th は現代のキクユ語では有声音であるが、本来この音は無声音であったと見られ、子音調和は th が有声化する前から起こっていた現象であることが推察される[14]

声調/アクセント[編集]

キクユ語のアクセント高低アクセントで、高、低、昇の区別が見られる[15]

バントゥー語研究者の湯川恭敏はバントゥー諸語の名詞や動詞のアクセントに関する研究を行っているが、特にキクユ語の名詞については「そのあらわれる環境によって、あきれるばかりのアクセント変異を示」し[16]、また名詞アクセントの複雑さを踏まえてキクユ語は「バントゥ諸語の中でも最も複雑で、かつ、最も解明しにくい言語である」とさえ述べている[17]。湯川 (1981, 1985) ではキクユ語キアンブ方言の名詞のアクセントをいくつかの型に分類しているが、たとえばナイロビ方言において Gĩgĩkũyũ〈キクユ語〉は前後に一切他の語がない孤立形では /ɣèèɣèkójó/ であるが、〈…である〉が前にある場合には /né ɣééɣèkójó/ti〈…ではない〉が前にある場合には /tí ɣééɣékòjò/ となるとしている[2]。このように同一の名詞が前後における他の語の有無や、前後に別の語が有る場合にその種類が何であるかという文脈的環境によってアクセントが様々に変動する特徴は、キクユ語と比較的近い関係にあるカンバ語には見られない[18]

Armstrong (1940) によるキクユ語の語と、その声調の表し方。最上段の語は〈馬〉で、正書法では「mbarathi」と綴られる。

Armstrong (1940) や Harries (1952)、Benson (1964)、Clements (1984) はこの現象については声調: tone)に関する問題として扱っている。まず Armstrong (1940) は、1935年から37年にかけてロンドン大学の音声学部に雇用されていた後のケニア初代大統領であるジョモ・ケニヤッタ[注 5]をインフォーマントとして[19]、キクユ語が同じ語であっても文法的な文脈により様々な声調パターンを持つことを示し[20]、名詞に関しては一部をmoondoクラス、moteクラス、ŋgokoクラス、mboriクラス、njataクラス、ɲamoクラス、ðiimboクラスの7クラスに分類している。この研究において語の声調は右の画像のように平らな声調や上昇調、下降調がいくつかの段階を持つような形で表されている[20]。Benson (1964) は辞書で、やはり語の声調を数段階ある平らな声調や上昇調、下降調によって表している[20]が、名詞の声調クラスの分類は語幹の音節数ごとに数が異なり、1音節語幹語は4クラス、2音節語幹語は12クラス、3音節語幹語は16クラス、4音節語幹語は18クラス、5音節語幹語は8クラスにまで分けられている[21]。Clements (1984) は再建されたバントゥー祖語の声調クラスにちなむLLクラス、LHクラス、HLクラス、HHクラス、およびキクユ語において新たに生じたLHLクラスとHLHLクラスの計6種類の存在について触れている[22]が、キクユ語の2音節語幹名詞の大半はこの6つのクラスのいずれかに属するものであると述べている[23]。Clements (1984:334) はまた、自身のものも含めたこれまでの研究等における名詞の声調クラスの分類の対応関係を以下のようにまとめている。

Clements (1984) Armstrong (1940) Benson (1964) Clements (1984) による語例
LLクラス moondoクラス クラス1のうち、語幹が2音節のもの kĩmũrĩ〈松明〉、kĩbaata〈踊りの一種〉、Mũrĩmi〈ムリミ(男性名)〉
LHクラス moteクラス クラス2のうち、語幹が2音節のもの mũgate〈パン〉、kĩrũũmiチーター[注 6]Ngũgĩ〈グギ(男性名)〉[注 7]
HLクラス mboriクラス クラス3のうち、語幹が2音節のもの mũgeka〈敷物〉、mũrata〈友〉、Kamau〈カマウ(男性名)〉、mwana〈子〉[注 8]
HHクラス ŋgokoクラス クラス4のうち、語幹が2音節のもの magoko〈樹皮(複数)〉[注 9]mũthĩgi〈年長者の杖〉[注 10]Wambũgũ〈ワンブグ(男性名)〉、maitũ〈お袋〉
LHLクラス ɲamoクラス クラス6のうち、語幹が2音節のもの kanyamũ〈虫などの小さい生物〉[注 11]Kariũki〈カリウキ(男性名)〉
HLHLクラス njataクラスおよびðiimboクラス クラス7およびクラス8のうち、語幹が2音節のもの karani〈書記〉、matũũra〈村々〉

文法[編集]

接頭辞がふんだんに用いられる。他のバントゥー諸語と同様に名詞の接頭辞として現れるクラスが存在する[15]が、クラスはその名詞が含まれる名詞句やその名詞が主語となる節中の他の要素にも影響を与えうる。

形態論[編集]

Dryer (2013) は屈折形態論における接頭辞と接尾辞という観点から世界中の言語を分析しているが、キクユ語については Barlow (1960:passim) を根拠として「接頭辞が用いられる傾向が強い」(: strong prefixing)としている。

クラス[編集]

クラスの体系について、Benson (1964:x) の分類は以下のようなものとなっている。スラッシュで隔てられているものは、左側が単数、右側が複数を表す。左から名詞の接頭辞としての形、形容詞の接頭辞としての形、指示代名詞を作る際に用いられる形である。

グループ クラス 接頭辞 名詞の語例
名詞 形容詞 代名詞
I 1 / 2 - / a- mũ- / a- ũ- / a- mũka, aka〈女房〉、mũndũ, andũ〈人〉
II 3 / 4 mũ- / mĩ- mũ- / mĩ- ũ- / ĩ- mweri, mĩeri〈月〉、mũtwe, mĩtwe〈頭〉
III 5 / 6 rĩ-, i- / ma- rĩ-, i- / ma- rĩ- / ma- ihiga, mahiga〈石〉、riitho, maitho〈目〉
IV 7 / 8 kĩ- / i-, ci- kĩ- / n-[注 12] kĩ- / i-, ci- kĩhaato, ihaato〈箒〉、kĩongo, ciongo〈頭蓋〉
V 9 / 10 n- / n- n- / n- ĩ- / i-, ci- mbũri, mbũri〈ヤギ〉、njata, njata〈星〉
VI 11 / 10 rũ- / n- rũ- / n- rũ- / i-, ci- rũhiũ, hiũ〈刃物〉
VII 12 / 13 ka- / tũ- ka- / tũ- ka- / tũ- kahiũ, tũhiũ〈ナイフ〉、kanua, tũnua〈口〉
VIII 14 / 6 ũ- / ma- mũ- / ma- ũ- / ma- ũndũ, maũndũ〈事〉
XI 15 / 6 kũ- / ma- kũ- / ma- kũ- / ma- kũgũrũ, magũrũ〈脚〉、gũtũ, matũ〈耳〉
15a kũ-[注 13] kũ- kũ- gũthiĩ〈行くこと〉
X 16 / 15b ha- / kũ- ha- / kũ- ha- / kũ- handũ, kũndũ〈場所〉

ただし、クラスに割り当てる数字については研究者の間で統一されている訳ではなく、湯川 (1981:76; 1985:191) は「ここ限りのもの」あるいは「便宜的なもの」であると断りつつ上表のベンソンによるグループの順に単数形をクラスI-Xとして並べた後に複数形をクラスXI-XVIとする配列を行っている。

クラスは本来は意味上の違いを反映して形成されたものであり[15]、たとえば Benson (1964:ix) は ka- / tũ- の組を指小辞(: diminutives)、kĩ- / i-, ci- の組を拡大辞(: augmentatives)、ũ- / ma- の組を抽象化辞(: abstracts)として扱っている。

また、単数形もしくは単複両方でクラス接頭辞が見られない語(例: guuka, aaguuka〈祖父〉[Benson (1964) の分類ではクラス1 / 2]、hiti, hiti〈ハイエナ〉[同クラス9 / 10]、thumu〈毒〉[同クラス14])[15]や、複数のみしか存在しない語(例: maguta〈油〉[同クラス6])も存在する。

代名詞[編集]

独立人称代名詞[編集]

独立人称代名詞は以下の通りである[15]

単数 複数
一人称 niĩ〈私〉 ithui〈私たち〉
二人称 we〈あなた、君〉 inyuĩ〈あなた方、君たち〉
三人称 wee〈彼(女)〉 oo〈彼(女)ら〉

この他に、次に見られるような各独立人称代名詞に対応する〈…の〉にあたる表現や指示代名詞も存在する。

〈誰々の〉にあたる表現[編集]

まず〈誰々の〉にあたる表現は一人称複数を除き〈…の〉の意味を持つ小辞(参照: #文法的呼応)に -kũa(一人称単数)、-ku(二人称単数)、-ke(三人称単数)、-nyu(二人称複数)、-o(三人称複数)を付加という作り方をするが、一人称単数・二人称単数・三人称単数は k が含まれているため〈…の〉の小辞に含まれる k は g に変化する[15](参照: #子音調和)。一人称複数形も含めた一覧は以下の通りである[15][注 14]

一人称単数
私の
二人称単数
あなたの
三人称単数
彼(女)の
一人称複数
私たちの
二人称複数
あなたたちの
三人称複数
彼(女)らの
単数 複数 単数 複数 単数 複数 単数 複数 単数 複数 単数 複数
グループI waakũa aakũa waaku aaku waake aake wiitũ aitũ waanyu aanyu waao aao
グループII waakũa yaakũa waaku yaaku waake yaake wiitũ iitũ waanyu yaanyu waao yaao
グループIII rĩakũa makũa rĩaku maku rĩake make riitũ maitũ rĩanyu manyu rĩao mao
グループIV gĩakũa ciakũa gĩaku ciaku gĩake ciake gĩĩtũ ciitũ kĩanyu cianyu kĩao ciao
グループV yaakũa ciakũa yaaku ciaku yaake ciake iitũ ciitũ yaanyu cianyu yaao ciao
グループVI rũakũa rũaku rũake rũitũ rũanyu rũao
グループVII gaakũa tũakũa gaaku tũaku gaake tũake gaitũ tũitũ kaanyu tũanyu kaao tũao
グループVIII waakũa makũa waaku maku waake make wiitũ maitũ waanyu manyu waao mao
グループIX gũakũa gũaku gũake gũitũ kũanyu kũao
グループX haakũa haaku haake haitũ haanyu haao

例:

  • rĩĩtwa rĩakwa〈私の名前〉
  • itimũ riitũ[15]〈私たちの槍(1本)〉
  • mbũri yakwa〈私のヤギ(1頭)〉: mbũri ciakwa〈私のヤギたち〉
指示代名詞[編集]

指示代名詞(指示形容詞)は日本語の〈これ(この)〉、〈それ(その)〉、〈あれ(あの)〉にあたる3種類で、以下の通りである[15][注 14]

これ(この) それ(その) あれ(あの)
単数 複数 単数 複数 単数 複数
グループI ũyũ aya ũcio acio ũrĩa arĩa
グループII ũyũ ĩno ũcio ĩyo ũrĩa ĩrĩa
グループIII rĩĩrĩ maya rĩu macio rĩĩrĩa maarĩa
グループIV gĩĩkĩ ici kĩu icio kĩĩrĩa iria
グループV ĩno ici ĩyo icio ĩrĩa iria
グループVI rũũrũ rũu rũũrĩa
グループVII gaaka tũũtũ kau tũu kaarĩa tũũrĩa
グループVIII ũyũ maya ũcio macio ũrĩa maarĩa
グループIX gũũkũ kũu kũũrĩa
グループX haaha hau haarĩa

動詞[編集]

キクユ語において、文を作る際に主語と目的語は必ずしも必要ではないが、述語は必須である[15]

動詞のうち直説法の活用には -ire、-a、-aga〈習慣、継続、反復〉、-ĩĩte(語幹末母音が e か o の場合は -eete)〈完了〉が用いられる[24]が、少なくともキアンブ方言においては、肯定形で -ire や -a を用いる活用の過去は「遠過去」、「近過去」、「今日の過去」、「たった今の過去」の4段階に区別される。このうち「遠過去」はおととい以前[25]、「近過去」は昨日以前[26]に行われた動作であることを表す。ただし語尾が -a となる否定形では「近過去」、「今日の過去」、「たった今の過去」の3種類は全て「近い過去」として括られる[27]。他にキクユ語同様に過去時制に複数の段階の区別が見られるバントゥー諸語の言語はウガンダで話されている(ル)ガンダ語(Luganda)、タンザニアで話されているムウェラ語英語版(Mwera; ISO 639-3: mwe[注 15])、アンゴラザンビアで話されているルヴァレ語(Luvale)、レソト南アフリカ共和国で話されているソト語(Sesotho)やズールー語(Zulu)の少なくとも5言語であるが、一方で同じバントゥー語であってもキクユ語と同じケニア国内やタンザニアにおいて話されているスワヒリ語には過去時制自体は存在するものの、キクユ語などのように区別が細分化されている訳ではない[28]

こうした時制などの区別は用いられる接辞の種類や組み合わせの違いにより表されるが、その活用の一覧を語尾ごとに分類すると以下の表のようになる。なお例に用いる人称はクラス2(Benson 1964:x、参照: #クラス)の三人称複数、動詞は rora〈見る〉とする。

-ire を用いる活用形[編集]
-ire を用いる活用一覧[29]
nĩ-
#焦点で詳述)
主格接辞 -ti- -a(a)- -a- -raa- 対格接辞 語幹 -ire
過去 肯定 任意 × × × 任意 必須 nĩmaarorire〈彼らは(おととい以前に)見た〉
[注 16] × × nĩmaraarorire〈彼らは(昨日以前に)見た〉
今日の[注 17] × × × nĩmarorire〈彼らは(今日)見た〉
否定 × × × matiarorire〈彼らは(おととい以前には)見ていない〉
-a を用いる活用形[編集]
-a を用いる活用一覧[30]
nĩ- 主格接辞 主格接辞(?)
#主格接辞で詳述)
-ti- -i- -kũ- -a(a)- -raa- -na- -kaa- -rĩĩ- -kĩ- 対格接辞 語幹 -a
不定 肯定 × × × × × × × × × × × 任意 必須 kũrora〈見る(こと)〉
否定 tikũrora〈見ない(こと)〉
過去 肯定 たった今の 任意 × × × × × × × × × 任意 必須 nĩmaarora〈彼らは〈つい先ほど〉見た〉
物語 × × makĩrora〈彼らは見たのであった〉
近い過去否定[注 18] × × × matiinarora〈彼らは(昨日も今日もつい先ほども)見ていない〉
現在 進行 肯定 任意 × × × × × × × × × 任意 必須 nĩmaraarora〈彼らは(今)見ている〉
否定 × matiraarora〈彼らは(今)見ていない〉
未来 肯定 今日の 任意 × × × × × × × × × 任意 必須 nĩmeekũrora〈彼らは(今日)見る〉
確定 × × × nĩmakaarora〈彼らは見ることとなる〉
不確定 × × nĩmarĩĩrora〈彼らは見るかもしれない〉
否定 今日の × × × × matiikũrora〈彼らは(今日は)見ない〉
確定 × × × matikaarora〈彼らは見ることとはならない〉
不確定 × × × matirĩĩrora〈彼らは見ないかもしれない〉
未来否定[注 19] × × × matiirora
-aga を用いる活用形[編集]

以下に示す形は現在習慣形と現在習慣否定形を除いて全て「…進行(否定)形」という呼称である[31]

-aga を用いる活用一覧[31]
nĩ- 主格接辞 主格接辞(?)
#主格接辞で詳述)
-ti- -i- -kũ- -a(a)- -a- -raa- -kaa- -rĩĩ- 対格接辞 語幹 -aga
肯定 遠過去進行 任意 × × × × × × × × 任意 必須 nĩmaaroraga〈彼らは(おととい以前に)見ているところであった〉
近過去進行 × × × × × × nĩmaraaroraga〈彼らは(昨日以前に)見ているところであった〉
今日の進行 × × × × × × nĩmeekũroraga〈彼らは(今日)見ていたところである〉
確定未来進行 × × × × × × nĩmakaaroraga〈彼らは見ていることになる(はずである)〉
不確定未来進行 × × × × × × nĩmarĩĩroraga〈彼らは見ていることになっているかもしれない〉
現在習慣 × × × × × × × nĩmaroraga〈彼らは見ているものである〉
否定 遠過去進行 × × × × × × × × 任意 必須 matiaroraga
近過去進行 × × × × × × matiraaroraga
今日の進行 × × × × × matiikũroraga
確定未来進行 × × × × × × matikaaroraga
不確定未来進行 × × × × × × matirĩĩroraga
現在習慣 × × × × × × × matiroraga

なお「遠過去進行」、「近過去進行」、「今日の進行」、「確定未来進行」、「不確定未来進行」の5つの肯定形は先頭の nĩ- をとって noo を置けば、動作の以前からの継続を表すことが可能である[32]

  • 例: noo maaroraga〈彼らは(おととい以前から)なおも見ていた〉
-ĩĩte/-eete を用いる活用形[編集]

現在完了形(例: nĩ-ma-ror-eete〈彼らは(もう)見ている〉)やその否定形(例: ma-ti-ror-eete〈彼らは(まだ)見ていない〉)などの形が存在する[15]

主格接辞[編集]

動詞の主語を表す主格接辞は以下の通りで、「遠過去形」や「たった今の過去形」の -(a)a- の前では他の接辞が続く場合とは異なる形態をとるものが存在する[15]。三人称は主語となる名詞のクラスに対応するよう接辞が使い分けられる。クラスのグループは Benson (1964) のものによる(参照: #クラス)。

単数 複数
-(a)a- の前 それ以外 -(a)a- の前 それ以外
一人称 -ndĩ- か -n-[注 20] -tũ-
二人称 -w- -ũ- -mũ-
三人称 グループI なし -a- -ma-
グループII -w- -ũ- -y- -ĩ-
グループIII -rĩ- -ma-
グループIV -kĩ- -ci- -i-
グループV -y- -ĩ- -ci- -i-
グループVI -rũ-
グループVII -ka- -tũ-
グループVIII -w- -ũ- -ma-
グループIX -kũ-
グループX -ha-

また、「今日の未来」形などに用いられる主格接辞と類似した接辞の三人称形は以下の通りである[34]

単数 複数
三人称 グループI -e- -mee-
グループII -ũ- -ĩ-
グループIII -rĩĩ- -mee-
グループIV -gĩĩ- -i-
グループV -ĩ- -cii-
グループVI -rũũ-
グループVII -gee- -tũũ-
グループVIII -ũ- -mee-
グループIX -gũũ-
グループX -hee-
対格接辞[編集]

動詞には目的語となる名詞のクラスを表す対格接辞が付加される場合もあるが、その形は大半が主格接辞と同様で、異なるのは二人称単数が -kũ-、三人称単数のクラス1が -mũ-、クラス4と9[注 21]-mĩ- であり、また再帰接辞 -ĩ- が存在するという点である[35][15]

派生語尾[編集]

また、これまでに挙げた活用形のほか、動詞語幹に -ũo(母音の直後では -o)をつければ〈…される〉という意味の受身動詞、-ĩr(e や o の後では -er)をつければ〈…のため、…に代わり、…に向かって〉という意味の適用動詞を作ることが可能である[15]

例:

  • kũrũmwo〈噛まれる〉(< kũrũma〈噛む〉)[15]
  • gũthondekera〈作ってあげる〉(< gũthondeka〈作る〉)[15]

統語論[編集]

語順[編集]

名詞句[編集]

#文法的呼応を参照。

[編集]

以下の例文のように、文の語順は主語-述語-目的語の順(SVO型)で[15]、名詞を修飾する形容詞などは名詞の後ろに現れる。

例:

  • ngitĩ ngũrũ nĩyaarũmire mũndũ[15]
グロス: 犬 大きい 噛んだ(遠過去) 人
訳: 「大きな犬が人を噛んだ」

文法的呼応[編集]

たとえば名詞句の場合、「BのA」という表現をする場合に語順は「A、の、B」となる[15]が、修飾される名詞のクラスによって、後に続く〈…の〉という意味を表す小辞の形もクラスに対応したものに変化する。

グロス: 油 の トウゴマの種子
訳: 「ひまし油」(直訳: 「トウゴマの種子の油」)

〈…の〉の意味を有する小辞の、クラスごとの一覧は以下の通りである[15][注 14]

グループ クラス 小辞
I 1 / 2 waa / aa
II 3 / 4 waa / yaa
III 5 / 6 rĩa / ma
IV 7 / 8 kĩa / cia
V 9 / 10 yaa / cia
VI 11 / 10 rũa[注 22] / cia
VII 12 / 13 kaa / tũa
VIII 14 / 6 waa / ma
XI 15 / 6 kũa / ma
X 16 haa

また、名詞句中の形容詞や数詞の接頭辞の他、節中の動詞の接頭辞も主語の名詞のクラスと同じものとなる。こうした現象を文法的呼応という[15]

例:

グロス: 訪問者 cop 大きい
訳: 「訪問者は大きい」
  • kanyamũ nĩ kanene[36]
グロス 虫 cop 大きい
訳: 「虫は大きい」
グロス: 指 一 殺さない シラミ
訳: 「一本の指はシラミを殺さない。」

焦点[編集]

既に動詞の活用で見られたように肯定の直説法形においては nĩ- がしばしば前置されるが、これについて 湯川 (1984:160) は文法的に説明しあぐねており、「もしそれがないとこの動詞活用形のあとに何かが続く感じを与えるという報告である。興味深くかつ解明の困難な問題であるが, この試論では, その意味は考察の対象としない。」と述べるに留めている[注 23]

一方、オースティン (2009) はこの nĩ(-)焦点標示辞と捉え、以下のような2つの例文で「中立あるいは、述語焦点」(例文1)と目的語への焦点(例文2)の用法を示している。

  • 例文1: Wambui -a-ra-nyu-ir-e ma-ĩ[4]
グロス: ワンブイ (焦点)(過去)飲む 水
訳: 「ワンブイは(昨日以前に)水を飲んだ」
  • 例文2: ma-ĩ Wambui a-ra-nyu-ir-e[4]
グロス: (焦点) 水 ワンブイ (過去)飲む
訳: 「(他のものではなく)水を、ワンブイは(昨日以前に)飲んだ」

ただし例文2のような構文の場合、 は否定辞 -ti- の含まれる動詞とは共起しない[37]。例文3のような言い回しは非文法的と見做され不可である。

  • 例文3: * maĩ Abdul a-ti-ra-nyu-ir-e[38]
グロス: foc 6.水 アブドゥル sbj-neg-(時制)-飲む-()-fv
訳: 「(他のものではなく)水を、アブドゥルは(昨日以前に)飲んだのではない」

いずれにせよオースティンは、バントゥー諸語の多くでは焦点を表現する手段として語順を用い、キクユ語で見られるような焦点標示辞は見られないとしている[4]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ ナイロビ方言。ただしこれは孤立した状態での発音であり、キクユ語の他の名詞と同様前後に他の単語が存在するか、存在する場合にはどのような種類のものであるかによってアクセントが変化する(参照: #アクセント)。
  2. ^ a b キリニャガとはケニア山のことであるが、厳密には Kĩrĩnyaga と綴られ、ケレニャガという発音である[6]
  3. ^ 基本的には歯音だが、地域により歯茎音となる[10]
  4. ^ 無声歯茎硬口蓋摩擦音 [ɕ] として現れる場合もある[7][11]
  5. ^ Kagaya (1981) は Armstrong (1940) が調査を行った方言をキアンブ方言であると述べているが、実際にケニヤッタの出身地は現代ではキアンブ県となっている。
  6. ^ ただしこの語は Benson (1964) ではクラス1で、〈サーバル〉を意味するとされている。なお、Armstrong (1940) と 湯川 (1981) は mũgate と同じアクセントの型に分類している。
  7. ^ Armstrong (1940) 巻末の語彙集には見られない。
  8. ^ Armstrong (1940) 巻末の語彙集には見られない。
  9. ^ ただし Benson (1964) ではクラス3とされている。
  10. ^ ただし Benson (1964) ではクラス2とされている。
  11. ^ Armstrong (1940) 巻末の語彙集には見られない。nyamũ〈動物〉の指小形にあたる語である。
  12. ^ 少なくともキアンブ方言に基づく湯川 (1988b) では i- であるとされている。
  13. ^ 動詞の不定形に用いられる。#-a を用いる活用形を参照。
  14. ^ a b c ただし、分類の仕方は Benson (1964) のものに従った。#クラスを参照。
  15. ^ 主にリンディ州: Lindi Region)に暮らすムウェラ族の言語。リンディ州の南西部と接するルヴマ州: Ruvuma Region)でもムウェラ語 (en(Mwera; ISO 639-3: mjh)と呼ばれるバントゥー語が話されているが、これは別の言語である。
  16. ^ 既に述べたように「近過去」形の否定は「近い過去」として括られるが、これは -ire ではなく -a を用いる活用形となる。
  17. ^ 既に述べたように「今日の過去」形の否定は「近い過去」として括られるが、これは -ire ではなく -a を用いる活用形となる。
  18. ^ 既に述べたように、同じく語尾が -a となる活用形をとる「たった今の過去」のほか、語尾が -ire となる活用形をとる「遠過去」や「近過去」、計3種の否定にあたるものである。
  19. ^ 主にニェリ方言で見られる。
  20. ^ 後続する音素の違いにより、様々な形をとり得る。たとえば動詞語幹と接する「今日の過去形」などの場合、語幹冒頭が子音で h・m・n・ny・th のいずれかであれば「直前の母音の延長+語幹冒頭の子音」、b であれば mb、c であれば nj、g・kのいずれかであれば ng、r・t のいずれかであれば nd として現れる(例: ĩmenire〈私は(今日)軽蔑した〉(< mena〈軽蔑する〉)、ndorire〈私は(今日)見た〉(< rora〈見る〉))[33]。語幹が母音で始まる場合は、最初の子音が m・n・ny・ng'・子音前鼻音(参照: #子音)のいずれかである場合は「直前の母音の延長+ny」、それ以外は nj として現れる(例: ĩnyenjire〈私は(今日)剃った〉(< enja〈剃る〉)、njaririe〈私は今日言った〉(< aria〈言う〉))[33]
  21. ^ いずれも Benson (1964) の分類による。#クラスを参照。
  22. ^ 実際には rwa と綴られる場合がある。例: rũhiũ rwa njora〈剣〉
  23. ^ 湯川 (1984) のテーマはあくまでも動詞の活用形ごとのアクセントの違いについてのものである。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g Lewis et al. (2015).
  2. ^ a b 湯川 (1985:198,200).
  3. ^ 「言語的多様性とアイデンティティ、エスニシティ、そしてナショナリティ ケニアの言語動態」品川大輔(「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」所収 pp335-336 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
  4. ^ a b c d オースティン (2009).
  5. ^ 「言語的多様性とアイデンティティ、エスニシティ、そしてナショナリティ ケニアの言語動態」品川大輔(「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」所収 pp317-318 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
  6. ^ 杜 (2015:162).
  7. ^ a b 湯川 (1985:190).
  8. ^ Benson (1964:ix).
  9. ^ 丹埜 (1990:186).
  10. ^ a b c Benson (1964:xii).
  11. ^ a b c 湯川 (1999:41).
  12. ^ 湯川 (1984:159).
  13. ^ a b c 湯川 (1981:76-77).
  14. ^ a b 湯川 (1999:63).
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 湯川 (1988b).
  16. ^ 湯川 (1995:248).
  17. ^ 湯川 (2014:46).
  18. ^ 湯川 (1988a).
  19. ^ Armstrong (1940:vi).
  20. ^ a b c Kagaya (1981).
  21. ^ Benson (1964:xxi–xlvii).
  22. ^ Clements (1984:288).
  23. ^ Clements (1984:284).
  24. ^ 湯川 (1984:165-197).
  25. ^ 湯川 (1984:165).
  26. ^ 湯川 (1984:168).
  27. ^ 湯川 (1984:172).
  28. ^ Dahl & Velupillai (2013).
  29. ^ 湯川 (1984:165-170).
  30. ^ 湯川 (1984:161,162,165,170-184).
  31. ^ a b 湯川 (1984:184-190).
  32. ^ 湯川 (1984:188).
  33. ^ a b 湯川 (1984:170).
  34. ^ 湯川 (1984:175).
  35. ^ 湯川 (1984:160).
  36. ^ a b 湯川 (1985:217).
  37. ^ Schwarz (2007:142).
  38. ^ Schwarz (2007:143).

参考文献[編集]

英語:

日本語:

関連文献[編集]

ことわざ集:

  • Barra, G. (1960). 1,000 Kikuyu proverbs: with translations and English equivalents. NCID BA28088839
  • Njũrũri, Ngũmbũ (1969). Gĩkũyũ Proverbs. NCID BB24245091
  • Wanjohi, G. J. (2001). Under One Roof: Gĩkũyũ Proverbs Consolidated. Paulines Publications Africa. NCID BB23175591

文法書:

  • Barlow, A. Ruffel (1951). Studies in Kikuyu grammar and idiom. Edinburgh: Foreign Mission Committee of the Church of Scotland. NCID BA88470884
  • Mugane, John M. (1997). A Paradigmatic Grammar of Gĩkũyũ. Stanford: Center for the Study of Language and Information (CSLI). NCID BA33576933

音論:

外部リンク[編集]