アメリカン航空191便墜落事故

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アメリカン航空191便墜落事故
AA191-responders.png
事故機の残骸を調査する事故調査官
事故の概要
日付 1979年5月25日
概要 エンジンの脱落と操縦不能[1]
現場 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イリノイ州デス・プレーンズ英語版シカゴ・オヘア国際空港近傍)
乗客数 258
乗員数 13
負傷者数
(死者除く)
6(地上)
死者数 273(搭乗者全員、地上2人)
生存者数 0
機種 マクドネル・ダグラスDC-10-10
運用者 アメリカン航空(AA)
機体記号 N110AA
出発地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国シカゴ・オヘア国際空港
目的地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス国際空港
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アメリカン航空191便墜落事故(アメリカンこうくうひゃくきゅういちびんついらくじこ、英語: American Airlines Flight 191)とは、1979年5月25日アメリカン航空が運航するDC-10型機が墜落した航空事故である。191便はアメリカ合衆国のシカゴ・オヘア国際空港発、ロサンゼルス国際空港行きの定期旅客便であり、オヘア国際空港を離陸した直後に墜落した。搭乗者全員の271人と地上で巻き込まれた2人が死亡し、2016年現在、テロ事件を除く航空事故のなかでアメリカ航空史上最大の犠牲者数を出した。

事故のきっかけは、離陸のための機首上げ操作中に左主翼下の第1エンジンとパイロンが分離したことであった。これにより油圧系統が損傷し、左翼のスラットが意図せず格納されてしまい、左翼だけが低速で失速しやすい状態となった。さらに、第1エンジンからの給電も無くなったことで警報装置の一部が機能しなくなった。このため、機体が意図しない空気力学特性となったことをパイロットは認識できなかった。パイロットはエンジン停止時の緊急時の手順通りに離陸・上昇を継続したが、その手順では飛行速度を落とすことになっていた。そのため、左翼のみ失速域に入ってしまい、機体が急激に左に傾き始めた。さらに左旋回と機首下げも発生して制御不能に陥り、離陸からわずか30秒で空港近郊に墜落した。

当初、事故原因として設計不良が疑われ、アメリカ連邦航空局 (Federal Aviation Administration) は、DC-10型機の型式証明の効力を停止した。この措置はアメリカ国外にも波及し、世間からDC-10型機の安全性に厳しい目が向けられた。詳細な調査の結果、エンジンとパイロンが分離した原因は、航空会社の不適切な整備手順であることが判明した。事故調査報告書の発行後、連邦航空局による整備手順の監督体制が強化され、機体の安全性を向上するための設計変更命令も発行されたほか、エンジン停止時の飛行速度も見直された。2011年に遺族らの活動により墜落地点の近くに追悼施設が建設された。

事故当日のアメリカン航空191便[編集]

アメリカン航空191便墜落事故の位置(アメリカ合衆国内)
ORD
ORD
LAX
LAX
191便の出発地であるシカゴ・オヘア国際空港 (ORD) と目的地であったロサンゼルス国際空港 (LAX) の位置。事故はオヘア国際空港離陸直後に発生した。

アメリカン航空191便は、アメリカ合衆国の国内定期便で、イリノイ州シカゴオヘア国際空港発、カリフォルニア州ロサンゼルスロサンゼルス国際空港行きであった[2][3]。1979年5月25日の便には乗客258人、乗員13人の計271人が搭乗していた[2]

1974年にオヘア国際空港にて撮影された事故機

使用機材は、DC-10-10型機であった[4]。DC-10型機は左右の主翼下に1基ずつと、垂直尾翼の付け根に1基の計3基のターボファンエンジンを備えた旅客機である[4]機体記号は「N1100AA」であり、エンジンはゼネラル・エレクトリック社のCF6-6Dだった[4]。1972年2月25日にアメリカン航空に納入され、事故までの7年間の飛行時間は20,000時間弱であった[4]飛行記録やメンテナンス記録には、事故前日の1979年5月24日までの機械的不具合は記録されていなかった[4]。事故当日の記録は機体のログブックに綴じられており、事故によって喪失した[4]

この日の191便の機長は53歳で、1950年にアメリカン航空に入社した[5]。機長はコンベア240コンベア990ロッキードL-188ボーイング727707ダグラスDC-6DC-7などの運航資格を有し、1971年12月にDC-10型機の運航資格を取得した[5]。機長は22,500時間の飛行時間を有し、DC-10型機の機長としての飛行経験は3,000時間であった[5]副操縦士は49歳で1966年にアメリカン航空に入社し、1977年7月にDC-10型機の運航資格を取得した[5]。9,275時間の飛行時間を有し、そのうち1,080時間がDC-10型機によるものだった[5]航空機関士は56歳で、1955年にアメリカン航空へ入社し、1971年9月にDC-10型機の運航資格を取得した[5]。航空機関士としての飛行時間は約15,000で、DC-10型機での飛行は750時間であった[5]客室乗務員は10名で、全員DC-10型機の乗務に必要な要件を満たしていた[5]

出発から墜落まで[編集]

アメリカ中部夏時間14時59分[注釈 1]オヘア国際空港のゲートから滑走路32Rまで地上滑走した[6]。エンジン始動からプッシュバックと地上滑走の開始までを見守っていた整備員は特に異常を感じることはなかった[6]

当時の天候は晴れで視程は15 マイル (24 キロメートル)、地上付近は風速22 ノット (25 マイル毎時; 41 キロメートル毎時)の北西の風が吹いていた[7]。15時02分、191便は離陸許可を得て滑走路32Rにて離陸滑走を開始した[6]コックピットボイスレコーダには、V1離陸決心速度)、VR(引き起こし速度)を読み上げる声が記録されていた[6]

DC-10型機のエンジン配置。

ここまで順調に離陸滑走が続いたが、浮揚のための機首上げ操作時に、左翼から第1エンジンがパイロン(エンジンを翼下に吊り下げる構造部)とともに分離した[8]。パイロンとエンジンは翼の前方上側に巻き上がり、翼の上を通過して滑走路に落下した[6][9]。さらに、左翼の前縁部 0.9 メートルも脱落した[10]。第1エンジンのパイロンが外れた辺りから白煙または霧状ものが出ているのも目撃されている[6]。エンジン分離を目の当たりにした管制官は、直ちに「アメリカン航空191便、引き返したいか?どの滑走路か? (Alright, American 191 heavy--do you want to come back and to what runway?) 」と無線で尋ねたが返答はなかった[11][12]

191便は離陸を継続し、アメリカン航空が定めたエンジン停止時の緊急手順に従ってパイロットは飛行速度を調整した[13]。機体が地面から140 フィート (43 メートル)まで上昇した時点で、速度は172 ノット (319 キロメートル毎時)に達していた[14]。機体は上昇を続けたが、ここから減速し始めて325 フィート (99 メートル)まで上昇したところで速度は159 ノット (294 キロメートル毎時)となった[14]。ここで機体が左へ傾きだし、毎秒4度以上の急激なロールが始まった[15][16]。続いて急激に左への機首振り(ヨー運動)が始まり、さらに機首が下がって降下しだした[15]。ロール運動は垂直を超えるまで続き、15時04分頃、左翼と機首を下げた姿勢で墜落した[17]

191便の墜落現場の空撮写真。

墜落地点は、滑走路32Rの離陸側終端から北西に約4,600 フィート (1,400 メートル)にある開けた土地だった[18]。機体は爆発し、墜落の衝撃と火災で破壊された[19]。残骸は墜落地点とその隣にあったトレーラー・パークに飛散した[18][20]。火災により倉庫として使用されていた古い格納庫など墜落地点付近の6棟が全焼し、トレーラーハウスも5棟が全半焼した[21][22]。墜落地点から約100メートルの場所にいた目撃者は、「見上げると炎の雨が降ってきた」と述べている[11]

搭乗者271人は全員死亡し、地上にいた2人も巻き込まれて死亡、2人が火傷を負った[23]。犠牲者の遺体は墜落の衝撃と火災で激しく離断・損傷して散乱し、現場に駆けつけた消防士は「遺体が男性か女性か、あるいは大人か子供かも判らない状況だった」と証言している[21]

シカゴのクック郡病院では事故の知らせを受けて、ただちに災害対応の緊急体制が敷かれた[24]。しかし、1時間も経たないうちに生存者がいないとの連絡とともに体制が解除され、病院職員たちは衝撃を受けた[24]

事故調査[編集]

アメリカの国家運輸安全委員会 (National Transportation Safety Board; NTSB) が事故調査を行った[3][25][26]

墜落地点の機体の残骸は、激しく分解して散乱しており、それらからは有益な情報をほとんど得られなかった[27]。しかし、フライトデータレコーダとボイスレコーダは火災や熱を免れ回収に成功した[27][28]。構造的な損傷により2か所で計6秒分のデータが欠落したが、大部分のデータは復元された[27]。フライトデータレコーダは離陸滑走中のデータを50秒間、空中でのデータを31秒間記録していた[29]。一方、コックピットボイスレコーダは第1エンジンの分離とほぼ同時に機能停止していた[30][29]。これは、コックピットボイスレコーダの電力を第1エンジンの発電機から得ていたため、エンジン分離により給電が停止したためであった[30][29]。コックピットボイスレコーダに最後に残された音声は "Damn!"(クソッ!、チクショウ!の意)であった[30][29][28]。また、フライトデータレコーダでも、第1エンジンから電源を得ていたデータだけ同じタイミングで記録が途絶えていた[30]

また、空港の敷地内に落ちていた第1エンジンのパイロン関係部品は有力な手掛かりとなった[31]。第1エンジンとパイロンが、滑走路32Rの出発側の端から6953フィート (約219メートル) を超えたところで、中心線から右へ19フィート (約5.8メートル) それた地点から回収された[27]。また、同エンジンのカウリング(覆い)とパイロン直上の主翼前縁の一部もその付近で発見された[27]

乗員の検死結果からは、操縦に影響するような生理学的問題は示されなかった[32]

目撃者の証言やフライトデータレコーダの記録、そして機体部品の落下状況から、「エンジンとパイロンが一体で機首上げ時かその直後に分離し、同じ頃機体が浮揚した」ことは確実と言えた[33]。このとき事故機の速度は離陸決心速度 (V1) を超えていたことから、パイロットは規定通り離陸を続行しており、当時の状況では適正な判断であった[33]

なぜパイロンが分離したか[編集]

図A DC-10型機の第1エンジンとパイロンの断面図。"Fwd Wing/Pylon Attach Point" の位置にフォワード・パイロン・バルクヘッド、"Aft Wing/Pylon Attach Point" の位置にアフト・パイロン・バルクヘッドがある。
DC-10型機を左側から見る。写真は貨物型だが、翼やエンジンは基本的に事故機と同じである。

事故調査委員会は、なぜ第1エンジンとパイロンが分離したかを調査した[34]。DC-10型機の第1エンジンと左主翼の断面図が図Aである。エンジンは、パイロンを介して主翼の下側前方に吊り下げられている[35]。エンジンとパイロンは基本的に前後2か所で接合されており、パイロンと主翼も前後2か所で接合されている[36]。パイロンが主翼と接合される構造物の中で強度的役割を果たすのは「バルクヘッド」と呼ばれ、前側が「フォワード・パイロン・バルクヘッド」(図ではFwd Wing/Pylon Attach Pointにあたる)、後ろ側が「アフト・パイロン・バルクヘッド」(図ではAft Wing/Pylon Attach Pointにあたる)である[36]

パイロンの接合部は徹底的に調査され、パイロンの分離は、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部から始まったと結論づけられた[37]。フォワード・パイロン・バルクヘッドの分離点における破壊や変形は、全て過荷重によるものであった[33]。一方、アフト・パイロン・バルクヘッドでは、上部フランジの一部に3インチ (約7.6センチメートル) の疲労亀裂があり、それ以外の破壊や変形は全て過荷重によるものであった[38]。また、アフト・パイロン・バルクヘッドの上側は、翼側に残っていた[38]。変形や破壊の状況から、パイロンの分解はアフト・パイロン・バルクヘッドからはじまり、これがパイロンの後端を下方内側へ動かし、パイロン全体の分離に至ったと結論づけられた[38]。機首上げ時にバルクヘッドには垂直下向きの引っ張り荷重かかっており、パイロン分離の順序や動きの方向はこの荷重と辻褄があっていた[38]。事故調査委員会は、バルクヘッドがどの時点で破壊したかを正確には特定できなかったが、離陸滑走時の機首上げ時に破壊したことはほぼ確実であった[39]

アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジには、翼側の固定部品が接触したことを示す変形が残っていた[40]。バルクヘッドを翼に取り付けた状態では、フランジと翼側部品との間には、通常0.5インチ (約1.3センチメートル) の隙間ができるはずであった[39]。フランジの接触痕は、フランジに生じた過大応力による亀裂が、整備時のパイロンの付け外し作業中に発生したことを示すものだった[39]

推奨手順から逸脱した整備[編集]

事故機の第1エンジンと第1パイロンは、事故の8週間前に一度取り外されていた[39]。この時の作業は、マクドネル・ダグラス社がユーザに出した技術情報に基づき、パイロンと翼を繋ぐ軸受けを交換するためのものであった[39]。同じ整備プログラムで、アメリカン航空とコンチネンタル航空のDC-10型機がエンジンとパイロンの取り外し作業を行っていた[39]。事故機以外に、アメリカン航空の4機とコンチネンタル航空の2機から、アフト・パイロン・バルクヘッドに事故機と同様の亀裂が発見された[41]。亀裂が整備作業中に生じたことは、別の2機からも確証が得られた[41]。コンチネンタル航空では、この事故前にパイロンの脱着作業中にバルクヘッドを2度損傷していたが、それぞれマクドネル・ダグラス社が認めた方法で再修理されていた[41]。コンチネンタル航空は、この時の損傷を整備ミスに起因し、重要な問題ではないと判断した[42]。同社はマクドネル・ダグラス社には報告していたが、アメリカの連邦航空局 (Federal Aviation Administration; FAA) には報告しなかった[42]

アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジの過荷重による亀裂は、航空会社の整備手順に起因することが判明した[43]。メーカーであるマクドネル・ダグラス社が推奨した正規手順では、まずエンジンをパイロンから取り外し、その後パイロンを翼から取り外すことになっていた[43]。しかし、両航空会社は整備時間を短縮するため、推奨手順から逸脱した手順を開発した[44][14]。その手順とは、エンジンとパイロンを一体のままで、その全重量をフォークリフトで支えて取り下ろす方法であった[45]。エンジンを取り外す際には油圧系統や燃料系統の配管や電気配線などを切り離す必要がある[46]。エンジンを外した後にパイロンを外す正規の手順では、72か所の切り離し作業が必要であったが、アメリカン航空方式では27か所で済んだ[46]。アメリカン航空は、この手順の是非をマクドネル・ダグラス社に問い合わせていた[46]。マクドネル・ダグラス社は、推奨できない方法だと回答したが、同社は航空会社の手順に対して承認や禁止する権限を持っていなかった[46]。アメリカン航空は、エンジンとパイロンを一体で取り外す手順を採用することを決定した[47]

1979年3月29日から31日にかけて、フォークリフトを用いて事故機のエンジンを着脱する作業が実施された[48]。その時の手順は次のとおりであった[45]。まず、エンジンの保持台をエンジンにあてがい、エンジン、パイロン、そして保持台全体の重心位置にフォークリフトを移動させた[45]。次に、エンジン・パイロン・保持台の全重量をフォークリフトにより支えた[45]。そして、パイロンと主翼の接合部を外して、フォークリフトを下げた[45]。パイロンと翼を繋ぐ軸受けを点検・交換した後、再びフォークリフトを上げて翼との結合部を固定した[45]

DC-10型機の第1エンジンは翼の前方に突き出しており、フォークリフトで支える重心位置はフォワード・パイロン・バルクヘッドより前方にあった[49]。また、パイロンと翼の結合部における構造部材間の距離はわずかであった[45]。アメリカン航空の手順では、パイロンを翼から外す際に、アフト・パイロン・バルクヘッドの結合部から外していた[50]。この時、フォークリフトがエンジンを支える力が抜けると、フォワード・パイロン・バルクヘッドを旋回軸として、パイロン後部が翼に接触することになる[51]。フォークリフトはその仕組み上、運転者が感知できない程度にフォークが下がってしまう可能性があり、精密な調整が困難であった[52][14]。事故機の作業に当たった整備員のうち2人が、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部が、翼側の固定部品に当たっているのを見たと証言した[53][48]。この動きは、アフト・パイロン・バルクヘッドの上部フランジの変形と整合性のあるものであった[53]。事故後の実験により、事故機と同程度にフランジが変形すると、過荷重による亀裂が発生することが確認された[53]。実際、事故機のアフト・パイロン・バルクヘッドには、過荷重による破壊と疲労により事故前に発生していたと判定される亀裂が見つかった[54]。この亀裂は、整備時のパイロンと翼の接触に起因すると結論づけられた[54]

墜落直前の損傷状況[編集]

事故調査でもう一つ焦点となったのは、なぜ事故機が墜落したかということであった[55]。通常、複数のエンジンを装備する航空機は、エンジン1基が停止しても飛行を継続できるよう設計されている[55]。事故当時、分離した第1エンジンとパイロンは、前方上側を回転して翼の上を通過するのが目撃された[55]。残骸の調査結果から、エンジンとパイロンが、揚力面や操縦翼面にぶつかった形跡は見つからなかった[55]。墜落直前に撮影された事故機の写真を解析した結果、尾翼や尾部への損傷は見られなかった[32]。エンジン脱落による推力喪失や主翼前縁の破壊による左右非対称効果は、航空機を制御不能にするほどではなかった[55]。そのため、事故調査委員会は、パイロン以下が分離した影響を詳細に調査した[55]

DC-10型機の第1エンジンは、No. 1 油圧系統の油圧ポンプ、およびNo. 1 交流電源系統の発電機も駆動していた[55]。通常のエンジン停止時には、これらの油圧・電源系統は残りのエンジンによって油圧や電力が維持されるよう設計されている[56]。油圧や電気系統の冗長設計により、第1エンジンにより駆動される機能が失われても、それがただちに航空機の制御に影響し無いよう考慮されている[57]。しかし、本事故ではパイロンもろともエンジンが分離したため、油圧配管や電気配線などが損傷を受けた[58]

油圧系統では、左主翼前縁を通る4本の油圧管が破損し、3系統ある油圧系統のうち2系統(No. 1 および No. 3 系統)から油漏れが発生した[59]。これにより、スポイラーの一部と左翼外側にあるスラットが機能しなくなった[59]。スラットとは、翼の前縁の一部を前方下側に押し出すことで揚力を増やし、高い迎角まで失速を防ぐ装置である[60][61]。 スラットは油圧アクチュエータにより伸展され、制御バルブを閉じることで油圧作動液が油圧管の中に閉じ込められ、出し位置が固定される[60]。事故を起こしたDC-10-10型機は、スラット出し位置を油圧のみによって維持する設計になっていた[14]

油圧管の損傷部位は、スラットを出し入れする油圧アクチュエータとそれを制御するバルブの間であった[57]。このため作動液が流失し、空気力の荷重によりスラットが押し戻され格納されてしまった[60]。ただし残りの動翼については、スポイラーの一部を除くと操縦翼面(機首を上げ下げする昇降舵、左右に向ける方向舵、機体を左右に傾ける補助翼)は全て機能していた[59]

電気系統では、パイロン内のワイヤーハーネスが損傷し、その中には、第1エンジンの発電機から No. 1 交流系統への給電線も含まれていた[62]。ただし、この給電線は、残存していた給電線から電力を得る経路も用意されていた[62]。しかし、発電機故障の影響が広がるのを防ぐための保護回路が作動し、No. 1 交流系統から供給されるNo, 1 直流給電線、左緊急交流給電線、左緊急直流給電線への電量が断たれた[62]。これらの給電線は、墜落まで復旧しなかった[62]。左の緊急交流給電線と緊急直流給電線は、操縦室内の緊急スイッチによりそれぞれ回復可能であった[62]。しかし、この操作が行われた形跡は見つからなかった[63]。事故調査報告書では、「運航乗務員は、失われた電力系統の回復操作を恐らく試みなかった」としておりその理由は「緊急事態全体の性質が、電気系統の問題より緊急性が高かった、または、電気的問題に対処する時間的余裕がなかった」とまとめている[64][63]。離陸から墜落までの時間がわずか30秒しかなかった点も指摘されている[65]

電力が回復しなかったことで、機長席のフライト・ディレクター英語版と一部のエンジン計器が機能停止した[63]。そして、事故調査報告書は最も重要なこととして、失速警報装置とスラット不一致警報装置も作動しなくなったことを指摘している[63]。フライト・ディレクターは、パイロットに操縦桿をどう動かすべきかを指示する飛行計器である[63]。失速警報装置は、スティック・シェイカーと呼ばれ、失速領域に入った場合に操縦桿を振動させて操縦者に警告を与えるもので、事故機では機長席にのみ装備されていた[63][66]。スラット不一致警報装置は、スラット状態が左右非対称の場合に点灯する[63]

墜落に至る飛行特性の変化[編集]

以上の損傷の積み重ねで、次のような飛行状態となった。まず、左外側のスラットのみが格納されてしまったことで、左翼だけ揚力が減少し、左翼が失速する速度が上昇した[60]。すなわち、左翼だけが低い速度で失速しやすい状態となった[60]。事故機の空気力学特性と操縦性はパイロットの意図しない状態となった[67]

事故機は、航空会社が規定したエンジン停止時の手順に従って飛行していた[68]。機長席のフライト・ディレクターが機能停止していたことから、副操縦士が操縦を担当していたと推察されている[68]。副操縦士は、フライト・ディレクターの指示に従いピッチ姿勢(機首上げ角)を維持した[68]。この操縦は、航空機を安全離陸速度 (V2) まで減速することを意味した[68]。そして、V2+6ノット (時速約11キロメートル)まで減速したとき、機体は左に傾き始めた[68]。この時の速度は、159ノット (時速約294キロメートル) であり、スラットが格納された左翼の失速速度であった[69]

コックピットから主翼とエンジンを目視できず、スラットの位置を示すシステムも停止していた[68]。そのため、パイロットはスラットが格納されたこととそれによる飛行特性の変化を知ることはできなかった[68]。電気系統の損傷により、失速警報装置とスラット不一致警告装置も機能しなかった[13]。したがって左翼の失速が始まった時、警告は殆どあるいは全くなかったと考えられている[68]。失速すると、翼の周りの気流が剥離する[70]。剥離した気流が後方の水平安定板にあたるとバフェッティングという振動を生じ、これは失速状態を知る手段の一つとなる[68]。しかし、事故機の左内側のスラットは正常に伸展していたので、尾翼には剥離流が当たらなかった[71]。さらに、フライトデータレコーダによると、当時若干の気流の乱れがあり、バフェッティングをわかりにくくしたとも推察されている[68]

機体が左に傾き始めた速度は、V2プラス6ノット (時速11キロメートル) であり、「運航乗務員は機体の失速速度より充分大きいと信じていた」と推測されている[72]。事故調査報告書は、「乗員が左への傾き(ロール)が失速によるとは認識しておらず、混乱させた。なぜならスティック・シェイカーが作動していなかったからである」と述べている[72]

シミュレータ試験[編集]

フライトシミュレータを用いたシミュレータ試験が実施された[73]。フライトデータレコーダのデータ、事故機を模擬した風洞実験から得られた空気力学特性、そして事故当時の気象条件がフライトシミュレータに反映された[73]。このシミュレータ試験では、以下の条件が再現された[73]

  1. 第1エンジンとパイロンが無くなったことによる空気力学特性や操縦性の変化
  2. 左外側スラットの意図しない格納
  3. No. 1 およびNo. 3 油圧系統の損傷

また、失速警報装置は機能する場合と停止する場合のそれぞれがシミュレートされた[73]。シミュレータ試験には、13人のパイロットが参加した[74]。シミュレータ試験では70回の離陸と2回の着陸が実施された[73]。それぞれの試行において、事故機のフライトデータレコーダから得られた飛行状況を再現するよう試みた[73]

シミュレータ試験の結果、159ノット (時速約294キロメートル) を超える速度では、非対称な左右の揚力を打ち消し、安定した飛行が可能であった[75]。しかし、速度が159ノットまで下がると、失速が始まった[73]。この際、ロールの開始を失速と認識できた場合は、多くのパイロットが機首を下げて加速して失速域から離脱し、操縦を回復できた[76]。ただし、この時のパイロットは、事故の状況を事前に承知していた[77]。シミュレータ試験に参加した全てのパイロットは「第1エンジンと左翼を目視できず失速警報装置も働かなかった状況では、事故機のパイロットが、ロール開始を失速と認識して失速から回復させるのは合理的ではない」と証言した[78][77]。事故調査委員会も同じ見解を示した[77]

スラットが左右非対称になった状態でのDC-10型機の離陸・着陸条件を見極めるため、アメリカ連邦航空局は、追加のシミュレータ試験を実施した[79]。墜落直前のスラットの状態を再現したシミュレーション飛行を行い、約84回の離陸と28の着陸を実施した[79]。この試験では、失速警報装置とスラット不一致警報装置は正常に機能させた[79]。シミュレータ試験では、事故時と同じ飛行特性であっても、事故当時のアメリカン航空の手順に従い着陸可能であることが示された[77]

着陸進入の最終段階での速度余裕はわずかだが、非常に危険というほどではなかったとFAAは結論付けている[77][79]。これは、飛行経路の調整などで必要な推力の余裕があり、利用可能であったためである[77][79]。また、着陸進入中に片側のスラットを失うことは、操縦上の大きな問題にはならなかった[77]。事故機のパイロットは、アメリカン航空が定めたエンジン停止時の手順を守って飛行速度を落としたことで、結果的に失速域に入ってしまった[13]。もしパイロットがより高い速度を維持していれば、墜落を回避できた可能性があった[13]

事故原因[編集]

国家運輸安全委員会は、1979年12月21日に事故調査報告書を発行し、事故の推定原因を次のとおり述べている[80][81]

事故原因は、非対称な失速と続いて発生した機体のロールである。これは、第1エンジンとパイロンが離陸時に最も危険となる場面で分離したことで、左翼外側の前縁スラットが意図せず格納され、さらに失速警報装置とスラット不一致警報装置が機能停止したために起きた。エンジンとパイロンの分離の原因は、不適切な整備手順により発生したパイロン構造部の損傷である。

さらに、本事故につながった要因として以下が挙げられる。まず、パイロン接続部の設計が整備時の損傷に絶えうる強度ではなかったことと、前縁スラットのシステムが脆弱であり非対称な飛行特性を招いたこと。そして、連邦航空局 (FAA) の監視・報告体制が不適切な整備手順が実施されていたことを発見し防止できなかったことと、FAAが事故前に発生していた整備時の機体損傷の原因を特定し周知できなかったこと。さらに、規定されていた運航手順が、本事故の緊急事態に対処できるものでなかったことである。

事故機が制御を失ったのは、次の3事象が同時に起きたためである[13]

  1. 左翼外側の前縁スラットが格納されたこと
  2. スラット不一致警報装置が機能しなかったこと
  3. 失速警報装置が機能しなかったこと

これらは、個別に発生してもパイロットが制御不能になるほどではなかったが、本事故では飛行の最も重要な局面で同時に発生した[13]。そして事故機の状況下では、パイロットは、続いて発生する失速を認識することもそれを防ぐことも困難であった[13]。FAAの耐空証明に必要な条件にはスラット・システムの複合故障は含まれていなかった[82]。要求事項ではなかったが、マクドネル・ダグラス社はエンジン1基の故障と片翼のスラット故障が同時発生した場合の故障モード影響解析を独自に実施し、記録を必要時に閲覧できるよう残していた[83]。それによると、「最も悪い飛行条件あるいは離陸の条件のときのみ危機的 (Critical)になろう」と注意していた[83]。そして、この条件が揃う確率は100億分の1未満と算出されていた[83]

事故の余波[編集]

本事故の273人という死亡者数は、2016年現在に至っても、アメリカ同時多発テロ事件を除くとアメリカ航空史上最大である[84][85]。左翼エンジンを失った191便がほぼ垂直に傾き墜落していく写真、そしてが墜落の爆発による火柱が上がる写真が墜落の目撃者により撮影され、シカゴ・トリビューン紙に掲載された[86](写真は英語版参照)。

本事故から2日後の5月27日、事故調査に当たっていたNTSBのエルウッド・ドライバー副委員長は、「エンジンを翼に固定していたボルトが折れてエンジンが脱落したのが原因と見られる」と発表し、自ら折れたボルトを持って報道陣に公開した[87][28]。当初、このボルトが事故原因と疑われた[28][88]。FAAは、5月29日以降のDC-10型機の運航を停止し、問題のボルトを点検するよう指示した[89][88]。またアメリカ以外の航空会社にも同様の措置をとるよう勧告した[89]

後の調査により問題ボルトが直接の事故原因ではないと判断された[81]。一方で、FAAが指示した点検によって、複数のDC-10型機からパイロン構造部の損傷が発見された[90][91][92][93]。構造の欠陥による金属疲労が疑われたことで、FAAは新たな飛行停止措置を取った[90][91]。点検・修理が済んだ機体から飛行再開したが、点検により191便同様の亀裂も発見された[94]。さらにはユナイテッド航空のDC-10型機からは製造工程に起因する亀裂も見つかり、製造会社の品質管理が問われた[95][93]。同様の点検を実施したボーイング747やロッキードL-1011と比べて異常が多かったことから、設計不良も疑われた[94][96]。そして1979年6月6日、FAAはDC-10型機の型式証明の効力を緊急停止する命令を発行した[16][97]。マクドネル・ダグラス社はこの措置に異議を唱えたが、当時のFAA長官ラングホーン・ボンドは、安全を優先すると述べた[92][98]。型式証明の停止措置は相互協定を結んでいた各国へも波及し、日本でもDC-10型機を運航していた日本航空に対し運輸省(当時)が運航停止を指示した[92][97]

本事故までにDC-10型機では、貨物扉の破損に起因した大きな事故が2件起きていた[99]。1972年のアメリカン航空96便貨物ドア破損事故と、1974年のトルコ航空DC-10パリ墜落事故である[99]。これらの事故では、マクドネル・ダグラス社の設計不良が非難された(ただし、191便の事故前には同問題への改修対応がされていた)[100]。今回の事故により、改めてDC-10型機の安全性に対して世間から厳しい目が向けられた[100]。アメリカで乗用車「シボレー・コルヴェア」の安全性問題など消費者運動に取り組んでいたラルフ・ネーダーは、DC-10型機を「翼を持ったシボレー・コルヴェア」と批判した[11]。アメリカン航空は、事故時までDC-10型機に施していた "DC-10 LuxuryLiner" のロゴ塗装を、"American Airlines LuxuryLiner" へ変更した[100]。また、FAAの指導監督が不十分であったとの批判も上がった[93]

ヨーロッパなどでは各国の規制当局の判断により順次飛行再開されたが[101]、6月26日、FAAはアメリカ領空内でのDC-10型機の飛行を禁止する規制を発行した[3]。FAAは、NTSBの事故調査と並行してマクドネル・ダグラス社、アメリカ空軍、および民間航空技術者らの協力を得て、DC-10型機の設計がFAAの示す基準を満たしているか総合的な調査を行った[102]。FAAは設計データの再調査、諸元や確率の再計算、生産記録の再確認、飛行試験などを実施し、疑問点を一つ一つ解消した[103]。その結果、日本では7月12日[104]、アメリカでは7月13日に飛行停止措置が解除され、併せて短期間ごとに検査を行うことが指示された[105][3][102]。結果的に主要な事故原因は、不適切な整備手順であることが判明したが、DC-10型機への世間からの信頼は低下した[100]。1979年11月、フォークリフトを用いた不適切な整備手順を実施したという理由で、FAAはアメリカン航空に500,000ドルの罰金を科した[3][106]。同様の理由で、コンチネンタル航空にも100,000ドルの罰金を科した[106]。1980年1月、FAAは調査報告書を発行し、同型機の主翼パイロンの設計に欠陥はなく、十分な強度を有することを認定した[102]

本事故後、重要な整備手順に対するFAAの監督体制が強化された[3]ほか、FAAから耐空性改善命令が発行された。副操縦士席にもスティックシェイカーを追加し、いずれかの電源を失っても左右両座席の失速警報装置が作動するよう改善指示が出された[107][108][66]。また、意図しないスラット格納を防止するため油圧系統への弁の追加指示が出された[109]。さらに、パイロン構造部の安全性を向上させる指示も出され[110][111]、パイロン点検間隔の緩和も認められた[112]。運航規定も見直され、緊急時には安全離陸速度 (V2) を10ノット (時速約19キロメートル)上回る飛行速度をとることとされた[66]

ナショナルジオグラフィックチャンネルが放送している「衝撃の瞬間」(第4シリーズ、第9話『シカゴ航空機事故』)と「メーデー!:航空機事故の真実と真相」(シーズン10、第7話『アメリカン航空191便』)でこの事故が取り上げられている[113][114]

追悼施設[編集]

本事故の常設的な慰霊碑は長らく作られていなかったが、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生すると、この事故の風化を防ぐため、慰霊碑を建設を求める声があがった[115]。事故で両親を失っていたKim Jockl と Melody Smith 姉妹は、事故後25年から慰霊碑の建設を呼びかけた[116]。事故後30年になって、Jocklが教頭を務めていたシカゴの小学校を中心に、本格的な資金集めの取り組みが行われた[116]。彼らの2年間の活動により、アメリカン航空も21,500ドルの費用負担を決め、追悼施設の建設が実現した[115]。施設は墜落地点から近いレイク・パークに建設され、2011年10月15日に除幕式が執り行われた[115]。この施設は高さ22フィート (0.6 m)の曲面的な壁で囲まれた庭園である[115][14]。壁はレンガ積みで、レンガの1つ1つには、犠牲者の名前が記されている[115]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 本項における時間表記は、アメリカ中部夏時間とし24時間表記を用いる

出典[編集]

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参考文献[編集]

事故調査報告書[編集]

書籍・雑誌記事等[編集]

オンライン資料[編集]

座標: 北緯42度0分35秒 西経87度55分45秒 / 北緯42.00972度 西経87.92917度 / 42.00972; -87.92917