アニメポリス・ペロ

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アニメポリス・ペロとは、1980年7月12日大阪梅田東映会館3階の一号店開設を皮切りに全国展開され[1]、2001年まで東映が運営した"元祖アニメショップ"[1][2][3]

概要[編集]

大阪梅田東映会館3階)、新宿新宿東映地下1階)と福岡、札幌、名古屋、松山(松山国際劇場1F⇒シネマサンシャインに変更時撤退)、高知(高知東映2F)など東映系列の映画館に間借りする形で店舗が存在し[1]、数々のアニメグッズを扱った[1]。順次閉店していき、2001年3月大阪店を最後に完全撤退した[1]

歴史[編集]

1972年6月に当時の岡田茂東映社長が、映画会社で初めて事業部制を敷き[4][5][6][7]出版事業[6]催事[7]仮面ライダーキャラクターグッズ販売[5]サラ金[8]ラーメン店[9]など、多角経営を進め[8][10]、映画部門以外の附帯事業から利益を出すよう社員に指示した[5][8]。この事業部が東映関西支社にも出来て[1]、関西支社関連事業室によるアニメの関連商品の販売がアニメポリス・ペロの始まり[1]

当初は品数が揃わず宣伝部からもらい受けた使用済み台本や、劇場が放ったらかしにしていたポスターを集めて売っていた[1]。1975年10月に梅田東映会館の入口にプレイガイドを設置し、集客のため1976年にジャンボ宝くじ売り場を設けたり、1970年代後半のアニメーション映画の大ブームで、松本零士声優を迎えたイベントも成功したことから、東映動画(現・東映アニメーション)社長・今田智憲の賛同を得て[1]、梅田東映会館3階にテナントとして入店していた蕎麦屋「家族亭」が退店した跡に、1980年7月12日「アニメポリス・ペロ」一号店をオープンさせた[1]。店名は、東映動画がアニメ化したアニメ版の『長靴をはいた猫』に登場する猫の名前に由来し[1]、同社のシンボルキャラクターとしても用いられている[1]

この大阪店については、ガイナックス取締役統括本部長の武田康廣DAICON FILMオープニングアニメーション制作に際して言及している[2]ほか、店舗自体についても漫画家島本和彦が描いた自伝的漫画『アオイホノオ』に実名で登場している(2014年に深夜テレビドラマ化された際の作中名称は「アニメショップ『ベロ』」[3]

大阪店以降、直営店として札幌店(1981年3月14日)、高知店(1981年4月25日)、福岡店(1981年7月11日)、静岡店(1981年8月15日)、東京店(1981年10月8日、池袋東武百貨店7階)、豊橋店(1981年11月8日)、仙台店(1981年11月22日)、小倉店(1981年12月26日)、新宿店(1984年9月9日、新宿東映地下1階)、チェーン店として松山店(1981年1月31日)、徳山店(1981年3月15日)、徳島店(1981年3月25日)、高松店(1981年4月25日)がオープンした[1]

特色[編集]

渋谷東急文化会館1階)の店舗は松本零士のキャラクターミーくんにちなみ、「アニメプラザミーくん」と名づけられた。

東映動画関連のグッズは他店よりも充実していた。新宿店は地下にあり、特撮作品のグッズの中古品も扱っていた。

一部の東映系列の映画館では、映画が始まる前にペロのCMが流れていた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『東映の軌跡』東映株式会社総務部社史編纂、東映株式会社、2016年3月、288頁。
  2. ^ a b 第7回「オープニングアニメ」 | GAINAX NET
  3. ^ a b ドラマ24「アオイホノオ」:テレビ東京
  4. ^ 岡田茂〈ドキュメント東映全史〉 1971-1972」『クロニクル東映 1947 - 1991』2、東映、1992年、52頁。“東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 4. (1972年6月17日) 「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、 7 - 9頁。「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、 16頁。「東映にできた『何でもやる課』」『週刊新潮』1972年6月3日号、新潮社、 13頁。
  5. ^ a b c 「警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映」『映画時報』1973年10月号、映画時報社、 16頁。
  6. ^ a b 岡田茂(代表取締役社長)・福中脩(国際部長代理)・布施建(教育映画部企画部長)・矢沢昭夫(人事部次長)・今井均(宣伝部宣伝課長代理)・青木洋一(コンピューター部課長代理)「―今月のことば― "東映NN計画"(東映全国事業網拡大計画)/東映NN計画 "おはようございます"社長」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、 2-11頁。渡邊亮徳 (取締役テレビ事業部兼テレビ企画営業部長、テレビ関連事業室長)・飯島敬(テレビ関連事業室課長)・泊懋(テレビ企画営業部次長)・渡辺洋一(テレビ企画営業部次長兼テレビ関連事業室次長)「テレビ事業部" もーれつでいこう"」『社内報とうえい』1973年2月号 No.172、東映株式会社、 12-16頁。
  7. ^ a b 沿革”. 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。数字で見る東映”. 東映. 2019年7月11日閲覧。
  8. ^ a b c 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、12-36,74-81頁。ISBN 978-4-636-88519-4
  9. ^ 「NEWS MAKERS 東映が清純派路線をうちだした背景」『週刊ポスト』1973年8月17日号、小学館、 44頁。
  10. ^ 竹入栄二郎「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号、キネマ旬報社、 15頁。