かんだやぶそば

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かんだやぶそば
Kanda Yabu Soba
かんだやぶそば
(2016年4月4日撮影)
店舗概要
所在地 101-0063
東京都千代田区神田淡路町2-10
座標 北緯35度41分49.3秒 東経139度46分7.3秒 / 北緯35.697028度 東経139.768694度 / 35.697028; 139.768694 (かんだやぶそば)座標: 北緯35度41分49.3秒 東経139度46分7.3秒 / 北緯35.697028度 東経139.768694度 / 35.697028; 139.768694 (かんだやぶそば)
開業日 1880年
正式名称 藪蕎麦
営業時間 11:30 - 21:00(水曜定休、祝祭日の場合は翌日)
駐車台数 0台
最寄駅 中央線御茶ノ水駅
京浜東北線山手線神田駅
総武線秋葉原駅
東京メトロ千代田線新御茶ノ水駅
東京メトロ丸ノ内線淡路町駅
都営新宿線小川町駅
東京メトロ銀座線神田駅
最寄IC 首都高速神田橋出入口
外部リンク www.yabusoba.net ウィキデータを編集
テンプレートを表示
有限会社藪蕎麦
種類 特例有限会社
本社所在地 日本の旗 日本
101-0063
東京都千代田区神田淡路町2丁目10番地
業種 小売業
法人番号 9010002015301 ウィキデータを編集
外部リンク www.yabusoba.net ウィキデータを編集
テンプレートを表示

かんだやぶそばは、東京都千代田区神田淡路町2丁目にある1880年明治13年)創業の蕎麦屋店舗。

概要[編集]

『東京名家繁昌図絵』、「団子坂藪蕎麦・蔦屋 三輪伝次郎」、明治35年。[1]

「かんだやぶそば」は、1880年明治13年)、浅草蔵前のそば屋「中砂」の四代目・堀田七兵衛が、神田連雀町(現・神田淡路町)にあった「蔦屋」の支店「団子坂支店・藪蕎麦」の暖簾を譲り受け開業したのが、現在の「神田藪蕎麦(かんだやぶそば)」の始まりである。その後、1906年(明治39年)、江戸から明治にかけて一世を風靡した名店「団子坂藪蕎麦・蔦屋」は、三代目・三輪伝次郎による相場の失敗により廃業に追い込まれた。廃業後の「藪蕎麦」の暖簾は、神田連雀町の「神田藪蕎麦」に受け継がれた[2]

「神田藪蕎麦」の初代・堀田七兵衛は、長男が早死にしたため、本店を次男・堀田平二郎に継がせた。その時、既に京橋でそば屋を始めていた三男・堀田勝三には、京橋の「藪金(団子坂藪蕎麦の四天王)」という当時の有名店を買い取り、その店を持たせた。その後の、1913年大正2年)、京橋の店が借地だったため、地主に土地の明渡しを求められ、浅草並木町に移転し開業した店が現在の「並木藪蕎麦」である[2]

御三家(かんだやぶそば、並木藪蕎麦池の端藪蕎麦)」の一角を担う店として知られている。また、蕎麦の文化は江戸時代に始まり、江戸生れの「藪」、大阪が起源の「砂場」、信州出身の「更科」は、老舗御三家と呼ばれていた。

暖簾分けも続いており、日本各地に「やぶそば」と名が付く店が存在する。

沿革[編集]

  • 1735年享保20年) - 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年、に次の記述がある。
雑司谷蕎麦切 ぞうしがや鬼子母神門前茶屋 同所 藪の蕎麦切 — 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年より抜粋
鬼子母神の門前茶屋と、茶屋町を離れた藪の中にも蕎麦屋が一軒あったことが分かる。藪の蕎麦は御獄という字にあり、いまの雑司谷一丁目付近と思われる、竹藪が繁茂し俚俗「藪の内」と称した[3]
  • 1833年天保4年) - 『慊堂日暦』、松崎慊堂著、天保4年10月、江戸後期の漢学者・松崎慊堂の日記に、「団子坂の千(駄木)蔦屋に入り蕎麦条を食ふ」という条があり、この年にすでに団子坂の「蔦屋」は営業していた。『蕎麦辞典』、植原路朗著では、「蔦屋」の創業者は下野国(現・栃木県喜連川出身の武家・三輪氏としている[4][5]
  • 1854年安政元年)8月5日 - 後の「神田藪蕎麦」初代・堀田七兵衛生まれる。
  • 1861年万延2年) - 『改正尾張屋板の切絵図』、「小石川谷中本郷絵図」に団子阪(坂)の名が載っている。団子坂は現在の文京区千駄木で、江戸時代からこう呼ばれていた。この坂の近くに「蔦屋」というそば屋があり、「藪そば」と呼ばれていた。もともと「やぶそば」という名は、土地の人たちがつけた俗称で、この坂の周辺には大きな竹藪があった。その竹藪に囲まれたそば屋ということから、「やぶそば」と呼ばれるようになった[6]

*1877年(明治7年)修業していた伊藤 釧路に移住し東家開業。

  • 1880年明治13年) - 浅草蔵前のそば屋「中砂」四代目堀田七兵衛は、神田連雀町の「蔦屋」の支店「団子坂支店・藪蕎麦」を譲り受ける。そば屋「中砂」は、当時の蔵前には「砂場」が3軒あり、その真中の店であったため「中砂」と呼んでいて、初代堀田七兵衛は「砂場」系のそば屋だったようである。堀田家の菩提寺である豊島区池袋にある西念寺の墓石には、〇に砂の字と、大坂屋七兵衛の字彫りがある。『東京名物志』には、東京の三大「藪そば」に、「蔦屋」、「藪中庵」、「連雀町藪蕎麦」を挙げている。
  • 1887年(明治20年)3月5日 - 後の「並木更科」初代・堀田勝三生まれる。
  • 1901年(明治34年) - 『東京名物志』には、当時の東京の有力そば屋9軒を挙げている。その中に「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」が紹介されている[1]
団子阪字藪下上に在り。都下各区に支店を有し、藪蕎麦の有名なる者先づ指を此家に屈す。名代は蒸籠にして打方最も堅く、蕎麦通の賞賛する所なり。其地亦眺望閑雅にして、庭際奇草あり、古石あり。瀟洒たる離座敷数多く、瀑布其間に在るを以て、往て三伏の苦熱をしょうする者多く、殊に菊花の季候には衆客雑沓し、空しく門外より帰る者尠なからず。

— 『東京名物志』、「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」、明治34年刊行、より抜粋

  • 1906年(明治39年) - 「団子坂藪蕎麦・蔦屋」は、三代目・三輪伝次郎の時に廃業。『蕎麦通』の「明治年間に廃絶した店」の一節には、明治年間の「蔦屋」の敷地の広さは1,600坪ともいわれ、そば屋とは思えない壮大な店だった[7]
前庭に飛瀑を造ってあったので、納涼の客に振まったことは、非常なものであった。客の為に備えた百五十枚の浴衣が、常に不足をしたと言われた位繁昌したものだ。それに団子坂に菊人形の盛った頃には押すな押すなの人出で、この自分のやぶは朝から晩まで人足が絶えなかった。後園一帯は孟宗竹の藪であったので、蕎麦の道具は多く竹細工を用いた。 — 『蕎麦通』、「明治年間に廃絶した店」より抜粋
  • 1910年(明治43年) - 堀田康一(後の三代目神田藪蕎麦)生まれる。
  • 1913年大正2年) - 三男・堀田勝三により浅草並木町に「並木藪蕎麦」を開業。並木町の店は、元は「団子坂藪蕎麦」の支店で「藪金(団子坂支店の四天王)」という名のそば屋だったが、初代・堀田七兵衛が譲り受けた。
  • 1917年(大正6年) - 「並木藪蕎麦」の長男・堀田平七郎(後の二代目並木藪蕎麦)生まれる。
  • 1923年(大正12年) - 連雀町の「連雀町藪蕎麦」は関東大震災により焼失したが、同年12月に再建された、数寄屋造り木造2階建ての店舗である。
『食行脚 東京の巻』、 奥田謙二郎著、「菊蕎麦」[8]
菊の名所と藪蕎麦で、団子坂は殊に江戸情調が深かった、藪蕎麦没落してより二拾年、菊花檀跡を絶ってより拾六年、斯くて団子坂の名は、在りし昔を、忍ぶよすがに過ぎなくなった。藪蕎麦の一門多きが中に、連雀町の支店は、衆望を負ふて、其の栄ある暖簾を、預るに至ったが、支店とは言へ此処に移ってから、既に四拾余年を経た、一廉の老舗である、評判の宜い盛りとかけの汁は、本節の上ものに、銚子の鬚田で吟製し、塩梅上手に出来て居る、其の特徴とする茶蕎麦は、只色付をしたのみで、敢えて原料が違っている訳ではない。

元来蕎麦は、饂飩粉を混ぜて繋ぎとするも、余りに其量が多ければ、仕事は楽で儲も多い代り、蕎麦の味を悪くするので、信用第一の店では、能ふだけ饂飩粉を尠なくするが、夫れには仕事の困難と、手数とを免れ難い、左れば苟も他より一頭地を抜くからには、啻に汁が甘味しいだけで、藪蕎麦の今日が、築き上げられた訳ではなく、饂飩粉の配合其他に、特別の注意を加へた、蕎麦其のものゝ良質と相待って、その名を揚げたものと言はねばなるまい。(店、神田区連雀町18、電車、須田町下車)

— 『食行脚 東京の巻』、「菊蕎麦」、奥田謙二郎著、大正14年7月10日より抜粋
  • 1927年昭和2年)11月5日 - 「神田藪蕎麦」初代・堀田七兵衛が74歳で死去。
  • 1933年(昭和8年) - 町名変更により神田淡路町となり、「神田藪蕎麦」に改称。
  • 1956年(昭和31年)3月18日 - 「並木藪蕎麦」初代・堀田勝三が69歳で死去。二代目堀田平七郎継ぐ。平七郎は東京のそば屋組合の蕎麦技術研修講座の講師を務めるなど、そば屋の技術向上に貢献した。
  • 1992年平成4年) - 「並木藪蕎麦」二代目堀田平七郎75歳で死去。平七郎には嗣子がなかったため、最後の弟子の堀田浩二(旧姓・原)が養子となり三代目を継いだ[9]
  • 2001年(平成12年) - 「神田藪蕎麦」の建物が東京都選定歴史的建造物の指定を受けた。
  • 2013年(平成25年)2月19日 - 夜間に発生した火災により、約600m2の店舗のうち約190m2を焼失。その後、旧店舗を取り壊し、同じ敷地に鉄骨構造平屋(一部2階建)の店舗を改築した。
  • 2014年(平成26年)10月20日 - 新店舗で営業を再開。不慮の火災で焼け残った、釣り行燈や看板をそのまま使用し、街と店との一体感をもたせるため板塀を取りはらった。
  • 2016年(平成28年) - 現在、四代目堀田康彦「かんだやぶそば」として暖簾を受継いでいる。

交通アクセス[編集]

鉄道

ギャラリー[編集]

ギャラリー(旧店舗)[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『東京名物志』、松本道別著、「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」、公益社、1902年(明治35年)、国立国会図書館蔵書。
  2. ^ a b 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著(光文社、2011年7月20日)、国立国会図書館蔵書、2016年4月4日閲覧。
  3. ^ 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、光文社、2011年(平成22年)7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年4月4日閲覧。
  4. ^ 『慊堂日暦』、松崎慊堂著、「団子坂の千(駄木)蔦屋に入り蕎麦条を食ふ」、1833年(天保4年)10月、国立国会図書館蔵書。
  5. ^ 『蕎麦辞典』、植原路朗著、「蔦屋」、東京堂出版、2002年(平成14年)、国立国会図書館蔵書。
  6. ^ 『改正尾張屋板の切絵図』、「小石川谷中本郷絵図」に団子阪(坂)、1861年(万延2年)。
  7. ^ 『蕎麦通』、村瀬忠太郎著、「明治年間に廃絶した店」、四六書院、1906年(明治39年)、国立国会図書館蔵書。
  8. ^ 奥田謙二郎著、『食行脚 東京の巻』、「菊蕎麦」、協文館、大正14年、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日閲覧。
  9. ^ 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、光文社、2011年7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年4月4日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『慊堂日暦』、松崎慊堂著、「団子坂の千(駄木)蔦屋に入り蕎麦条を食ふ」、1833年(天保4年)10月、国立国会図書館蔵書。
  • 『改正尾張屋板の切絵図』、「小石川谷中本郷絵図」に団子阪(坂)、1861年(万延2年)。
  • 『東京名物志』、松本道別著、「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」、公益社、1902年(明治35年)、国立国会図書館蔵書。
  • 『蕎麦通』、村瀬忠太郎著、「明治年間に廃絶した店」、四六書院、1906年(明治39年)、国立国会図書館蔵書。
  • 『食行脚 東京の巻』、 奥田謙二郎著、「菊蕎麦」、協文館、1925年(大正14年)、国立国会図書館蔵書、2016年4月2日閲覧。
  • 『蕎麦辞典』、植原路朗著、「蔦屋」、東京堂出版、2002年(平成14年)、国立国会図書館蔵書。
  • 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、光文社、2011年(平成22年)7月20日、国立国会図書館蔵書、2016年4月4日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]